「明るく優しい」男が“支配者”になるまで[2020/02/27 09:18]

 去年1月、千葉県野田市で当時小学4年だった栗原心愛さん(10)が死亡した事件で、心愛さんへの傷害致死など6つの罪に問われている父親(42)の裁判。
 26日に開かれた3日目の公判では、心愛さんの母親(33)が証人として呼ばれた。被告の妻でもある、母親は、去年6月、傷害幇助の罪で裁かれ、執行猶予付きの判決が確定している。
今回の裁判では、父親が母親に対して暴力をふるったことも審理されている。家庭という密室で、父親は心愛さんに何をしたのか。“唯一の目撃者”である母親が、法廷で語ったこととは。


―別人のような受け答え

 午前10時に開廷した公判。母親はそこに姿は現さず、別室からビデオ電話を通じて参加した。父親には姿が見えないよう配慮されていた。
 去年6月の自身の裁判では、一人で歩くこともままならず、虚ろな目をしていた母親。検察官や弁護士、裁判長の質問には、言葉に詰まることが多く、長い時間沈黙してしまう姿が目立った。
 しかし、この日は違っていた。裁判長や検察官の質問にも、はきはきとしっかりとした声で答えていた。表情こそ見えないものの、まるで別人のようだった。
 被告と離れ、心愛さんを失ったことや、自分の罪と向き合う中、何が変わったのだろうか。


―支配の始まり

 母親と父親が出会ったのは、2007年6月ごろ。沖縄県で、母親が働いていた会社に父親が入社してきた。母親が20歳、父親は29歳だった。当時の父親は「明るくやさしかった」という。母親は、すぐに交際を始め、同棲した。そしてすぐに、父親の“性格”が見えてきたという。

 検察官:「被告人と交際して見えた性格はありますか?」
 母親:「暴力的、、、暴言を吐いたり、束縛をするようなことです」「私が夫と出会う前に交際していた男性のことを知られた時に、すごく怒られました」

 交際を始めて半年後、母親は父親から仕事を辞めるよう言われ、退職。それから、父親が母親の家族や友達と連絡を取るのを嫌がったため、家から出ることも少なくなったという。その後、心愛さんを授かったのをきっかけに、2人は入籍した。
 入籍後、の束縛はさらにひどくなり、車を運転することも禁止され、電話やメールで母親の行動を確認するようになった。
 母親は心愛さんを出産後、産後鬱と診断されたことをきっかけに、沖縄県内の実家へと戻った。
 2011年10月、家族の反対もあり、2人は離婚した。
 しかし、その約5年後、母親は、父親に連絡を取った。「離婚した時から、父親のことが頭から離れなかった」という。家族の反対を押し切り、2人は再婚。心愛さんは7歳だった。それからしばらく父親、母親、心愛さんの3人の生活が始まる。母親はこの時期を「毎日が楽しい日々だった」と振り返った。

 だが、その日々はすぐに終わってしまった。父親の束縛や暴力はさらにひどくなり、二女を出産後、母親は精神科に入院した。沖縄県内の母親の実家に預けていた心愛さんは、発熱したという学校から父親への連絡をきっかけに、父親の元へと連れていかれてしまった。生まれてすぐに入院していた二女も父親が引き取り、父親は子ども2人を連れて自分の実家がある千葉県野田市に引っ越してしまった。母親は「2人が心配だった」と、後を追うように、野田市へ引っ越した。心愛さんが亡くなる1年4カ月前のことだった。
 このとき、父親との交際に反対していた母親の実家には、連絡することはなかったという。


―心愛さんへの暴力

 母親が野田市のアパートに引っ越して2日後、一家は久しぶりに再会した。当時、心愛さんらは、父親の実家で生活していたが、母親は実家に入ることが許されず、再会は近くの路上だった。

 検察官:「久しぶりに再会して、心愛ちゃんに何と声をかけましたか?」
 母親:「私は『元気?』と言い、『ごめんね』と言いました」
 検察官:「心愛ちゃんの様子はどうでしたか?」
 母親:「少し痩せていて、あまり元気がなく、くまが出来ていて疲れているように見えました」

 その後、一家は事件現場となったアパートでの生活を始めた。母親は、離れていた時期のことを心愛さんに尋ねると、心愛さんは「毎日が地獄だった」と答えた。母親は泣きながら当時を振り返った。

 母親:「(涙声、鼻をすすりながら)『夜中にパパから起こされたり、立たされたり、二女の世話をしろと言われた』と言いました」
 検察官:「それ以外には何かありましたか?」
 母親:「その事をおばちゃん(父親の妹)に言ったら、おばちゃんがじいじばあばに言ってくれて、それを聞いたじいじがパパに『お前はそんなことをしているのか』と言ったら、パパが『本当に心愛のことを信じるのか』と言って、結局みーちゃん(心愛さん)が悪者にされたと言いました」

 心愛さんから打ち明けられた父親の“虐待”。沖縄県では、虐待が「なかった」という母親は「ショックだった」と話した。しかし、何もできなかった。

 検察官:「あなたはそこで母として何か対処はしましたか?」 
 母親:「しませんでした」
 検察官:「ちょっと厳しい質問になってしまいますが、なぜ対処しなかったんですか?」
 母親:「……えー、心愛を助けてあげたくても、父親の監視と束縛が強いために、私はどうすることもできませんでした」
 検察官:「父親に言ったらどうなると思いましたか?」
 母親:「心愛への虐待がもっとひどくなるのではと思いました」

 その後、母親は夜中に心愛さんが床に正座していたり、窓際に寝ているのを目撃した。父親は起きて、隣にいたという。母親は心愛さんに嫌がらせをしていると思い、父に理由を聞いた。父親は「心愛が勝手にやっている」と答えた。

 その後、心愛さんは学校のアンケートで父親の暴力を訴え、児童相談所に一時保護された。一家が野田市で生活を始めて、約1か月が過ぎたころだった。
 心愛さんは学校のアンケートに父親の暴力のことを書いた日、自宅で母親にそのことを打ち明けた。母親は「とても辛そうに話していた」と振り返った。心愛さんの言うことに嘘はないと信じていたが、母親は対処することはできなかった。

 検察官:「一時保護されたと聞いて、率直な気持ちはどうでしたか?」
 母親:「正直ほっとしました」
 検察官:「どうしてですか?」
 母親:「家にいると心愛を守ってあげられないので児童相談所にいた方が安心なので」

 心愛さんを守りたい気持ちがあったと訴えた母親。しかし、現実は父親を恐れ、何もすることはできなかった。児童相談所の一時保護は心愛さんだけでなく、母親のことも、救っていたと感じた。


―父親への同調

 一時保護に納得していなかったという父親。約2カ月の一時保護を終えると、一時保護の理由や、心愛さんのアンケートの開示などを求め、学校や市の教育委員会に詰め寄った。母親はこの場に同席しメモを取ったり、父親からの指示で心愛さんに「お父さんにアンケートを見せてもいいです」という文章を書かせたりした。
 同じころ、一時保護解除の条件となっていた、「心愛さんを父親に会わせない」という条件も破られた。すべて父親の指示だったという。
 その後、一家は再びアパートでの生活を始めることになった。児童相談所の許可は得ていなかった。それから4カ月後、母親は虐待をふたたび目撃した。

 検察官:「被告人は2018年7月ごろから心愛ちゃんにどんなことをするようになった?」
 母親:「廊下などで立たせたり、スクワットさせたり、正座させたり」
 検察官:「立たせ続けたのはどれくらいの時間?」
 母親:「2、3時間程度だったと思います」
 検察官:「被告人はどれくらいの頻度で心愛ちゃんを立たせ続けたり、スクワットさせたり、正座させたりしていた?」
 母親:「ほぼ毎日のようにさせていたと思います」

 検察官:「心愛ちゃんが一時保護される前と後で被告人が心愛ちゃんにすることはどう変わった?」
 母親:「保護前よりひどくなってると思いました」

 公判ではこの時期の父親と母親のLINEのメッセージのやり取りが複数示された。
 心愛さんの身体に痣があり、学校に行かせるかどうかや、そのことを学校や児童相談所に知られないよう警戒するようなものだった。
 そこには父親に同調するような母親の姿が見えた。

 検察官:「H30年7月16日のメッセージです」
 16:49 あなたから被告人へのメッセージで「明日学校どうする?」
 16:51 「左ひじ、太もも、おしりにまだ痣があるよ」
 16:52 「どれも黒くなっているけど、ひじはまだ見えるかな」
 これに対し被告人からあなたへのメッセージ
 17:32 「太ももにもあるの」
 17:33 「明日も休ます?」
 母親は心愛さんの痣は、父親の暴力によるもので、虐待という認識があったと話した。

 検察官:「心愛ちゃんの様子は?」
 母親:「……あまり元気がなく、暗い様子でした」
 検察官:「アパートに心愛ちゃんの居場所はありましたか?」
 母親:「ありませんでした」
 検察官:「虐待という認識はありましたか?」
 母親:「ありました」
 検察官:「母親として心愛ちゃんを助けることはできなかったんですか?」
 母親:「できませんでした」
 検察官:「それはどうして?」
 母親:「……やはり被告の支配が強いためです」

 心愛さんはその後、母親に「もう家にいたくない」「パパと一緒にいたくない」と訴えた。母親は父親の実家へ連れて行った際、義父に虐待を訴えたが、「痣があるから学校には行かせられない」と言われたと話した。
勇一郎被告を恐れ、同調する一方、心愛さんを守ろうと取った行動に、母親らしさを感じた。


―「もうやめて」

 心愛さんが亡くなる1カ月ほど前の年末。心愛さんは再び、アパートへと戻った。しかし、父親と母親は年明けに、心愛さん以外の3人で、ディズニーランドと沖縄に行く旅行を計画していた。心愛さんへの“嫌がらせ旅行”だ。しかし、心愛さんを預ける予定だった実家に断わられ、計画は実行されなかった。
その代わりのように、父親は12月30日から心愛さんに暴力を振るい始めた。風呂場から「ドン」という音がして見に行くと、心愛さんは泣いていて、まぶたが「ボクシングをしたように腫れていた」という。

 検察官:「その場の被告や心愛ちゃんにどうしてそうなったのか原因を聞きましたか?」
 母親:「はい」
 検察官:「誰が答えた?」
 母親:「被告です」
 検察官:「なんと言ってましたか?」
 母:「こいつが自分でやったんだといいました」
 検察官:「どう思いましたか」
 母:「被告が心愛に暴力をふるったと思いました」
 検察官:「弁護士は心愛ちゃんが自分で暴れてけがをしたと主張していますが、その際に心愛ちゃんが暴れたりはしましたか?」
 母:「ないです」

 その後も心愛さんへの暴力は続いたという。父親は連日、心愛さんを風呂場に立たせたり、廊下で何時間もスクワットをさせたりした。座り込んでしまった心愛さんを無理やり引きずったり、立たせたりした。心愛さんはぐったりして、顔からうつぶせに倒れこんだ。

 検察官:「心愛さんのぐったりした様子をみてどう思いましたか?」
 母親:「止めようと思いました」
 検察官:「これまで、あなたは心愛さんへの暴行を止めることはありませんでしたが、この時はどうして止めようと思ったのですか?」
 母親:「ぐったりしていて危ないと思ったからです」
 検察官:「何が危ないと思ったのですか?」
 母親:「心愛の命です」 

 検察官:「あなたはどのように止めようとしたのですか?」
 母親:「『もうやめて、あなたがやっていることは虐待だ』と言いました」
 検察官:「被告人は何と言っていましたか?」
 母親:「お前は何もわかっていない」
 検察官:「その後は?」
 母親:「私の胸ぐらをつかみました」

 父親は母親を床に押し倒し、馬乗りになり、頭から水をかけた。心愛さんの命の危険を感じ、母親は初めて身体を張って、心愛さんを守ろうとした。しかし、心愛さんへの暴力は収まることはなく、母親はさらに顔や太ももなどに暴力を受けた。
 母親はそれでも、父親に「警察に通報する」と訴え、自宅を出て、近くの交番に向かおうとしたという。しかし、アパートに残した心愛さんと二女が心配になり、交番に行くことはできなかった。母親はどんな思いで、アパートへと帰ったのか。胸が締め付けられた。


―虐待への加担

 新学期が始まる1月7日になっても、心愛さんへの暴力は続いていた。父親は、虐待の発覚を恐れ、心愛さんを自分の実家にも連れて行かず、学校も休ませた。自分が仕事に行くときには、母親に心愛さんを寝室から出さないよう指示していた。

 検察官:「1月8日のLINEのメッセージ。
 16時57分にあなたから被告人に『自分からお茶下さいって』
 16時59分には『さっき甘いものないかって。マジでむかつく。何様かって』と。
あなたは『マジでむかつく何様かって』とどういうつもりで送ったのですか?」
 母親:「……」
 検察官:「被告人と一緒になって閉じ込め、行動を制限していた理由は?」
 母親:「……答えたいけど言葉が見つからないです」
 裁判長:「検察官は聞き方を工夫してください」
 検察官:「では、心愛ちゃんのことは嫌いでしたか?」
 母親:「嫌いではないです」
 検察官:「心愛ちゃんへの虐待に加担していますよね?」
 母親:「はい」
 検察官:「どうしてですか。後悔はしてないですか」
 母親:「とても後悔しています」
 検察官:「そうであれば話してもらいたいです。言葉が見つからないかもしれないが、できるだけ説明してください」
 母親:「言い訳になりますが、二女の世話もありながら連日のように被告が心愛に虐待している姿を見て、正直限界でした」
 検察官:「その気持ちを心愛ちゃんにぶつけた?」
 母親:「はい」

 これまでの裁判で公開された動画では、心愛さんが父親から暴力を受けながら「ママ、助けて」「ママ」と泣き叫ぶ声が何度も聞こえた。家の中で、味方だと信じていた母親が、父親に協力していると分かったとき、心愛さんはどれほどの絶望を味わったのか。しかし、母親が、連日虐待を見せつけられ、父親への恐怖心を募らせていったその気持ちも伝わってきた。


 26日の公判では、心愛さんが亡くなる2日前から、父親がインフルエンザで会社を休み、「心愛の存在が嫌」と言い出したことも明かされた。そこから死亡当日まで、虐待が続くのだが、時間の都合で、続きは27日に持ち越された。

 以前、DV被害者の治療をする精神科医に取材をした際、DV被害者は、加害者と離れた後でも、その支配から抜け出すことが難しいと聞いた。
 母親もこの裁判までに父親への恐怖を感じたり、世間から批判を受けることなど、たくさんの葛藤があったと思う。しかし、虐待の目撃者として、証言したことは、母親としての心愛さんへの愛情ではないかと思う。父親は離婚の求めに応じていない。
 “妻”が証言する間、終始一点を見つめ表情を変えることはなかった。
 27日の裁判では、心愛さんが死亡する前後の様子が語られる予定だ。
 母親は何を証言するのか。

(社会部DV・児童虐待問題取材班 笠井理沙 鈴木大二朗)

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