大後寿々花【1】11歳でハリウッド映画デビュー!撮影中は、毎日3時間勉強時間が…

[2024/06/22 17:00]

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7歳から子役として活動をはじめ、2005年に公開された映画「北の零年」(行定勲監督)で吉永小百合さんと渡辺謙さんの娘役(少女時代)を演じて注目を集めた大後寿々花さん。

同年、11歳にしてハリウッド映画「SAYURI」(ロブ・マーシャル監督)で主人公(チャン・ツィイー)の少女時代を演じ、ハリウッドデビューを飾って話題に。連続テレビ小説「わろてんか」(NHK)、映画「女の子ものがたり」(森岡利行監督)、映画「桐島、部活やめるってよ」(吉田大八監督)など多くのドラマ、映画などに出演。6月29日(土)から映画「幽霊はわがままな夢を見る」(グ・スーヨン監督)が公開される大後寿々花さんにインタビュー。

■小学校1年生の時に劇団に「オーディションは自信がなくて…」

神奈川県で生まれた大後さんは、小さい頃からクラシックバレエを習い、踊ることが大好きで活発な子どもだったという。

「とにかく踊るのが好きで、もっとダンスを習いたいってなった時に入ったのが、『劇団ひまわり』でした。ひまわりは、普通のダンスと日本舞踊とか、さまざまなレッスンがあったので、演技とダンスレッスンを受けていました」

――わりとすぐに「国盗り物語」で舞台に出演することに

「はい。舞台でセリフはなかったのですが、子どもの頃は結構体調を崩すことが多くて、しょっちゅう熱を出していたので、それが自分の中でトラウマというか…。学校も行きながら毎日お稽古があったので、結構ハードだった記憶があります」

――いきなり約1カ月間舞台ですか

「初めての舞台で所作もルールもわからず…みたいな感じでしたけど、おかっぱのカツラをかぶって、お着物を着てという、日常にはないことだったので、それはすごく新鮮でした。何時になったら羽二重を巻いてカツラを付けに行って…ということが緊張というよりは新鮮で。全部新しいことばかりだったので、新鮮続きみたいな感じでした(笑)」

――「国盗り物語」の後はわりと頻繁に?

「いいえ、そんなことはないと思います。結構エキストラのお仕事もしていたので。でも、母と一緒にジェットコースターに乗る撮影があったり、学校登校中のシーンでランドセルを背負ってひたすら歩く役だったりとか(笑)」

大後さんは、史実を基に、明治初期の北海道で運命に翻弄されながらも自分たちの国作りに挑んだ人々の姿を描いた映画「北の零年」にオーディションを受けて出演することに。吉永小百合さんと渡辺謙さんの娘・多恵(石原さとみ)の少女時代を演じ、2005年に公開された。

「オーディションでは10何回も連続で落ちたりしたこともあるので、自信がなくて。すごく自信があってイケるかもって思ったのがダメだったり、逆に全く自信がなかったオーディションに受かったりとか…いつも自分の想像を超えたことが起きるんです。

『北の零年』が決まった時はうれしかったですけど、私よりもしかしたら、おじいちゃんとおばあちゃんの方が喜んでいたかもしれないです(笑)。私は北海道ロケというのが一番楽しみでした」

―― 北海道ロケはいかがでした?

「クランクインが遭難するシーンで、真冬だったんです。それで、現場に行ってみたら『 1日にワンシーン撮れるか撮れないかです』って言われて、『そんなことはないよな』と思っていたんですけど、本当に撮り切れなくて。

当時、行定監督はすごくテイクを重ねる方だったので、『これから先どれぐらいかかるんだろう?』って思った記憶はあります」

――毎回かなりこだわって撮っていたのですか

「そうですね。天気とかも結構待ったりしていましたね。大雪が見たいとか、もっとパラパラの雪が見たいとか、逆に晴れている日の雪が見たいとか…結構天気にもこだわっていました」

――吉永さんと手を取り合っての吹雪のシーンがすごかったです。本当に遭難してしまうのではないかという感じで

「遭難するシーンは湖の上だったんです。香盤表(こうばんひょう=出演者の出演シーンや時間などを表にしたもの)を見たら『湖の上を歩く』って書いてあって。

私はそれまで北海道に行ったことがなかったので、湖の上を歩いたら普通に氷が割れて水中に落ちるんじゃないかと思ったんですけど、全然そんなこともなく(笑)。どれだけ重い機材が乗っても崩れることもなく、北海道のすごさを初めて知りました」

――ものすごく寒かったと思いますが、カイロなどを仕込んでいたのですか

「そうですね。あといっぱい着込んでいました。多分5、6枚は肌着を着ていたと思います」

――撮影はスムーズにいきました?

「1カット10テイクみたいなスタンスだったので、どのカットがうまくいっているのかもよくわからず、どれが使われているのかもわからずという感じでした」

――お母さん役の吉永さんとはどんなお話をされていたのですか

「撮影当時、私は人生で初めて猫を飼ったばかりだったんですけど、北海道ロケだから離れて暮らさなきゃいけなくて。吉永さんに猫の話をずっとしていたみたいです。吉永さんは、いつも優しく聞いてくれていました。

撮影が終わった後も毎年お誕生日にプレゼントを送ってくださるんです。私が母の日にプレゼントを送って…というやり取りがずっと続いています、今も。猫のこともずっと覚えてくれていて、その度に『小雪ちゃん(猫)元気?』って聞いてくれていました」

――ステキなご関係ですね。お父さん役の渡辺謙さんとはいかがでした?

「謙さんは、一緒のシーンが少ししかなかったのですが、当時謙さんが飼っていらした大きいワンちゃんを現場に連れて来られていたんですね。私は動物が好きなので、謙さんのワンちゃんとずっと遊んでいました」

※大後寿々花プロフィル

1993年8月5日生まれ。神奈川県横浜市出身。2005年、映画「北の零年」に出演。同年、映画「SAYURI」でハリウッドデビュー。2007年、「セクシーボイスアンドロボ」(日本テレビ系)で連続ドラマ初ヒロインを務める。同年、映画「遠くの空に消えた」(行定勲監督)に出演。「シバトラ〜童顔刑事・柴田竹虎〜」(フジテレビ系)、「お別れホスピタル」(NHK)、映画「カムイ外伝」(崔洋一監督)、映画「“隠れビッチ”やってました。」(三木康一郎監督)など多くのドラマ、映画に出演。6月29日(土)から映画「幽霊はわがままな夢を見る」が公開される。

大後寿々花さん

■オーディションで決まって5日後にはアメリカへ

「北の零年」と同じ2005年、大後さんはハリウッド映画「SAYURI」に出演。舞台は昭和初期。幼くして貧しさから置屋に売られた少女・千代(大後寿々花)は、売れっ子の先輩芸者・初桃(コン・リー)にいじめられる毎日を送ることに。そんなある日、優しい言葉をかけてくれた“会長さん”(渡辺謙)と出会い、いつか彼と再会することを夢見て一流の芸者になろうと決意する…という展開。

――チャン・ツィイーさん演じる主人公の子ども時代という重要な役どころでした

「当時はハリウッドの重みがあまりよくわかってなくて、今、大人になってようやくわかるという感じです(笑)」

――オーディションはどんなことをされたのですか

「当時はいろいろオーディションを受けていたのですが、『SAYURI』のオーディションはセリフが全部英語だったので、英語のレッスンを受けて、動画、ビデオを撮って向こう(アメリカ)に送って…というのを何回か繰り返して決まりました」

――決まる自信はありました?

「いいえ。多分誰も思ってなかったと思います(笑)。と言うのは、本当に英語がしゃべれないのと、セリフもアルファベットも書けなかったので、とりあえず全部耳で覚える感じで。

意味は日本語訳を読んでという作業をオーディションの時、最初にやっていました」

――オーディションから決まるまではどのくらいかかりました?

「結構あったと思います。オーディションを初めて受けた時に、沖縄で別の作品の撮影があって、与那国島に英語の先生がいらっしゃって、沖縄で英語の勉強をしていたので。

オーディション自体は奈良橋陽子さんがずっとしてくださっていて、奈良橋さんが立ち上げている英会話のスクールの先生がいらっしゃって。だからもう英語から逃げられないという感じでした(笑)。当時は英語が好きで学び始めたわけではなかったので、『助けて。わからない、英語わからない』みたいな」

――オーディションを受けることになった経緯は?

「最初は、奈良橋陽子さんが、その役に合う子がいないか探していて。劇団ひまわりのプロフィルの中からだったと思います」

――決まったと聞いた時はどう思いました?

「ビックリしました。決まったと聞いてから、5日後くらいにアメリカに行かなきゃいけなかったんです。だから支度が大変でした。(アメリカには)母が一緒に行ってくれたのですが、次々にやることがいっぱいあって。パスポートは持っていたので、すぐに大使館に行って、ビザの手続きをして」

――初めてのアメリカはいかがでした?

「驚きの連続でした。最初にマクドナルドに入ったんですけど、マックシェイクを頼んだら、日本の一番小さいサイズと向こうの小さいサイズが全然違っていて、3倍ぐらいの大きさのシェイクが来て、そのギャップに驚きました。『子どものご飯はいったいどんな風になっているんだろう?』って思って(笑)」

――撮影前に英語や演技のレッスンは?

「1カ月間ぐらいありましたね、リハーサル期間みたいなのが。通訳の方がいらっしゃったので、そこは意外と大丈夫でした」

――日本での撮影と一番違うと思ったことは?

「リハーサルの期間というのは、日本ではあまりないです。1カ月間みっちり、多分朝9時から夕方5時まで全キャストの方がリハーサルしているというのは。本当に学校みたいな感じでした。

踊りの部屋があって、英語の部屋があって…そこで入れ替わり立ち替わりでいろんな役者さんにお会いしてというのは初めてでした。撮影は全く被ってないんですけど、チャン・ツィイーさんもずっといらっしゃったので」

――チャン・ツィイーさんのことはご存じでした?

「はい。当時、シャンプーのCMが流れていたので知っていました」

――劇中では、コン・リーさんにかなりひどくいじめられていましたね

「でも、実際にはとても優しかったです。中国語で数の数え方を教えてくれたり、中国の巾着(きんちゃく)とか鏡とか、色々プレゼントしてくださって、すごく優しくしていただいていました」

大後寿々花さん

■撮影期間中は、何があっても1日3時間勉強しなければならず…

日本とアメリカの撮影システムの違いは多々あるが、一番驚いたのは撮影現場で勉強時間が決められていたことだったという。

「アメリカでは子どもが働ける時間が決まっていて、9時間の内の3時間は絶対に勉強しなければいけなかったんです。だから『カット』がかかるたびにトレーラーに行って勉強しなきゃいけない。

例えば、それがどれだけびしょ濡れであろうが、どれだけ寒かろうが、『スクール!』って言われて、教科書と向き合わなきゃいけないというのが一番つらかったかもしれないです。

撮影中は、『もうやるしかない!』という感覚だったんですけど、『カット』がかかってもホッとできないというのが、撮影よりもきつかったかもしれないです」

――その3時間はどのように勉強されていたのですか

「家庭教師の日本人の先生がいてくださったので、教えていただいていました。小学生だったので進級できましたが、奈良橋さんが『勉強は絶対しなきゃいけない』ってずっと言っていらしたので、(日本で)塾に通っていて。だから塾の教科書をアメリカでもずっとやっていました」

――お母さまは、半年間ずっと一緒にアメリカにいらしたのですか

「はい。ずっと一緒にいてくれました。だからお父さんたちは日本で留守番みたいな感じで(笑)。もしかしたら私より母の方が大変だったかもしれないです」

――精神的にも肉体的にも撮影は大変だったと思いますが大丈夫でした?

「はい。向こうはケアがすごいんです。例えば子どもが『ちょっとお腹(なか)痛いかも』と言っただけでも、撮影がスパンって止まるんです。それで、ドクターが来て…という感じで俳優に対するケアが徹底されていたので、つらいけどやらなきゃいけないみたいな環境ではなかったです」

――撮影で印象に残っていることはほかにありますか?

「謙さんとは子ども時代に出会うところしか共演シーンがなかったのですが、現場に結構遊びに来てくださって。『ご飯食べにおいでね』って言ってくださって、何回か作ってくださいました」

――渡辺謙さんがご自分で作られたのですか

「はい。『好きな食べ物は?』って聞かれたので、『ピーマンの肉詰めが好きです』って言ったら、『じゃあ、お家で』と言って作ってくださって。とても美味しかったです。私は子どもの頃は、結構食べ物の好き嫌いがあったので、母もかなり苦戦していたんですけど、ピーマンの肉詰めは好きだったんですよね」

――優しいですね。謙さんとの橋のシーンもとてもきれいでした。大後さんは、ほかのシーンでは走らされて、叩かれて、突き飛ばされて…大変そうでしたね。完成した映画をご覧になっていかがでした?

「映像がすごくきれいだなって思いました。ロブ・マーシャル監督がすごく日本を好きでいてくださっていたので、ちょっと着物の裾が揺れるとか…日本の美みたいなのを理解してくださっていて。

例えば下駄を履いたまま走るとか、昔の日本人ならしないかなみたいな部分も多々ありながらも、割と美しさみたいなのはすごく残っていたんじゃないかなって思います」

――大後さんの泣いているシーンがすごく自然で切なかったです

「でも、多分私自身はつらく考えていなかった気がします。つらいシーンの撮影があっても『お疲れさまでした』ってなったら、『お腹がすいた』という感じで(笑)。アメリカって撮影現場にお菓子の量がすごいトレーラーがまた別にあって『お菓子の国』みたいだったんです。

カットがかかるたびにそこに行って、いつも何か新しいお菓子がないか探していました(笑)。日本と違って、すごい色のお菓子とか、真っ赤なグミみたいなのもあって、あれこれ手に取って食べていました。

母も安心だったと思います。とりあえずお菓子置き場に探しに行けばいるというのは。いなくなることがないから」

――準備期間も入れると6カ月間アメリカで過ごし、撮影が終わった時はどうでした?

「アメリカの撮影が終わった後、ちょっと時間が空いて、日本で京都伏見稲荷などでの撮影が残っていたので、まだ終わったという感じはありませんでした」

――「SAYURI」に出演されて変わったことはありますか?

「そうですね。子どもの頃はまだ仕事という意識はなかったんです。小学校1年生の時からやっていると、習い事みたいな感覚で、仕事という感じではなかった。学校と同じように生活の一部みたいな感覚だったので。

でも、『SAYURI』でアメリカに行ってから仕事として意識するようになりました。お芝居が楽しいなと思いましたし、お芝居に対する考え方が変わりましたね」

ハリウッド映画「SAYURI」出演で話題を集めた大後さんは、ドラマ、映画に次々と出演。2007年、ドラマ「セクシーボイスアンドロボ」では七色の声を操るヒロインの少女・ニコ役。同年に公開された映画「遠くの空に消えた」では、父親がUFOに連れ去られたと信じる少女・ヒハル役など難役にチャレンジ。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

ヘアメイク:木戸かほり

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