タレント・リポーターとして「news every.」(日本テレビ系)、「所さんの目がテン!」(日本テレビ系)、「やさいの時間」(NHK)などのテレビ番組で活躍する一方、俳優としても舞台や映画に出演するなど、幅広く活動している渡辺裕太さん。舞台「父との夏」、「コウノドリ」(TBS系)、映画「メグ・ライオン」(河崎実監督)などに出演。近年は落語にも挑戦し、様々な寄席にも出演。現在、映画「囁きの河」(大木一史監督)が公開中の渡辺裕太さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■「榊原郁恵ってお前のお母さんなの?」って(笑)
2022年に61歳の若さで亡くなった俳優・渡辺徹さんと、元大人気アイドルで俳優・タレントとして活躍している榊原郁恵さんの長男として、東京で生まれ育った裕太さん。裕太さんの「裕」の字は、父・渡辺徹さんの代表作である「太陽にほえろ!」(日本テレビ系)で共演した石原裕次郎さんから、「太」は「太陽にほえろ!」の「太」から名付けられたという。
――小さい頃はどんなお子さんでした?
「僕がよく母親に言われるのは、『石橋を叩いて渡る』ということわざがあるじゃないですか。でも、『あなたは石橋を叩いて、叩いて、叩き過ぎて割っちゃって橋を渡らなくなっちゃう子だというぐらい慎重な子だった』って。
『この先でどんなことが起きるんだろう?』というのが気になって、先に調べてやめる…みたいな、多分そういうことだと思いますね。簡単に言うと」
――ご両親が有名人だということはいつ頃からわかっていました?
「僕が通っていた学校が、そういう親御さんのお子さんが多い学校だったんですよね。何をもって自覚とするか…というのがちょっとわからないんですけど、テレビに出る仕事をしているという意識は小学生のときぐらいからずっとあって、みんな知っているなあって。
家族のことをみんなが知ってくれているというのがうれしかったんですけど、学校で周りには他にも親が有名人という方がいっぱいいらっしゃったので、特別という感じはありませんでした。
僕は、幼稚園から高校まで一貫の学校なんですけど、大学生のときに違う大学に入って、それで自分から言うことになるわけですよ。『親は何の仕事をやっているの?』みたいな感じで聞かれた際に。
それで、僕が『メディア系の仕事をしている』と言うと、何をやっているのか聞かれるから、『一応出る系。榊原郁恵って知っている?』って言うと『えーっ?!榊原郁恵ってお前のお母さんなの?』てなって(笑)。初めて自分から両親のことを言ったときに、そういう反応をされたのが印象的だったかな」
――裕太さんは全く芸能界に進むことは考えてなかったとか。ご両親の仕事の関係者の方に誘われることなどは?
「両親は、家族をメディアに出すのをすごく抑えていたというか、拒否していたような感じだったので、あまり芸能界に関わらせないようにしていたのかもしれないですね」
――お芝居をしてみたいという思いは?
「高校まではなかったです。小さいときによくテレビで両親が大人数の前でMCをやっている姿を見て、『僕はあんな風に人前でしゃべれない、絶対無理。よくできるよなあ』って思った感覚はすごくよく覚えていたんですよね。
でも、高校のときにちょっときっかけがありまして。演劇の授業で仲間たちと一緒に考えて、それを舞台上に立ってスポットライトみたいなのを浴びて披露するということがあったんです。
そのときにお客さんの反応がすごく良くて、笑いが起きたりしたのがうれしくて。それが多分一番のきっかけで、自分もやってみたいなって思いました」
■大学に通いながら明治座の養成所へ
高校の演劇の授業がきっかけで芝居に興味を持つようになった裕太さんは、大学に通いながら明治座の養成所に入ることに。
「そのときにはまだ『将来これは絶対にやるんだ』というのではなくて、ちょっと養成所に行ってみて1回やってみたいなという軽い気持ちだったんですよね。だから、大学に行きつつも、両親にも何も相談せずに明治座の養成所に入りました。
その養成所を選んだのは、新聞に広告記事が出ていて、最初に目に入ってきたんです。明治座は父親もよく出ていたし、知っている劇場だなと思って。新聞の広告を参考に行っただけです」
――実際に行ってみていかがでした?
「結構時代劇とかも多かったので、難しいなあって思いました。やっぱり高校の授業で楽しくやっていたのとは違うし、所作とかもいきなりやらされても難しいし…。
でも、結果的に今のマネジャーとそこの養成所で出会ったんですよね。同期だったんです。その養成所の仲間でまず劇団を作って、そこから今の事務所のマネジャーとタレントという関係になったので、自分の人生が動き出した瞬間ではありますね」
――養成所に入って2年目に『劇団マチダックス』を立ち上げたのですね
「はい。それも立ち上げというか、友だち同士でやってみるかということになって、舞台をやる上で名前が必要だったという感じです」
――劇団とほぼ同時期に、町田市に密着したテレビ番組やイベントのMCを始めることに
「そうですね。大学が町田市にあったので、その劇団の舞台の公演を町田市でやろうということになったときに、地元のケーブルテレビの方が取材に来てくださったんです。
それでいろいろ話していたら、『今、来年度からの番組のMCを探しているのでやりませんか?』と言ってくださって。地元のケーブルテレビの情報番組のMCというのは、全然想像もしてなかったんですけど、『お話だけなら是非』と思ってやったのが、本当に最初にメディアの仕事をするきっかけでしたね。
お父さんたちがテレビに出ているのを見て、『こんなの絶対に無理!人前でしゃべることなんかできない』と思っていたんですけどね(笑)」
――実際にやってみていかがでした?
「すごく楽しかったです。僕は大学のときから定食屋さんとか、東京ドームの警備員とか、アルバイトをずっとやっていたんです。そのMCのお話をいただいたのが、大学を卒業して1年目のときだったんですけど、1回のギャラが1万円だったんですね。
僕はそれまで時給が950円で5時間働いて5000円になるかならないかだったので、そのMCのお仕事って人といろんなお話をして楽しいし、1日に1万円ももらえるのがすごくうれしくて。まず1万円の大切さから感じました。
こういうお仕事でお金をいただけるのがうれしいというのが一番の印象ですかね、正直に言うと」
――そのお仕事で適性を知ることになり、MCやレポーターとして活動することに
「そうですね。それが本当に今のお仕事に全部繋がっているので」
■幅広いジャンルの仕事を始めたときに父は…
2013年、バラエティー番組「テレビシャカイ実験 あすなろラボ」(フジテレビ系)で全国ネットの初レギュラーを獲得し、本格的に芸能界デビューを果たす。
「ただの若者が限界集落という過疎化した新潟・佐渡市の集落に行って生活して、どういう風に活性化するのかを見守るみたいな番組で。日曜日のゴールデンの番組で、それに出させてもらって。
一応オーディションだったんですよ。応募して横並びでオーディションを受けたんですけど、もちろん番組スタッフとしては、僕の両親の名前を知った上でのことだったと思いますけど」
――番組で佐渡に行って初の一人暮らしをすることになりましたが、どんな感じでした?
「何か人生が動くという感じがして楽しかったです。それまでずっと実家暮らしだったので、ひとり暮らしはやってみたいと思っていたし、それがいきなりテレビのお仕事で、しかも住み込みで毎日ロケ。
それで、全く知らないおじいちゃんおばあちゃんのところで、何かもう訳が分からない世界なのでワクワクでしかなかったですね。それが今思えば、かなりの礎(いしずえ)になっているという感じです。
タレント活動というか、ロケをする上でも人と関わる上でも、やっぱりずっとカメラが回っていますし、そこでカメラにどう対応するのかというのも学びました」
――しばらく佐渡で暮らすことになると伝えたとき、ご両親は何かおっしゃっていました?
「それが何も言わなかったんですよ。うちの親は格言とか、なんだとかいうようなことはあまり言わないので。『いいんじゃない?一生懸命やって来なよ』みたいな感じだったんじゃないかな。
僕は舞台とかもやっていたし、『演劇、お芝居がやりたい』ということから始めたんですけど、芝居とは別のリポーターとかMCというお仕事にだんだん呼んでいただけるようになったときに父親に言われたのが、『お前、役者をずっとやりたいんだろう?だったら、他のお仕事も全力でやれ』と。
前に杉村春子さんという文学座を作った方から言われたらしいんですよね。『他のお仕事を全力でやることで、その道の一流の人にお会いできる』と。
それで、『そういう方々にいろんなことを教えてもらうことが、人として、役者としての力にも繋がるんだから、他の仕事を中途半端にやったらなんでも中途半端になってしまう。だから、とにかく一生懸命迷わずやりなさいということを俺は言われたから、お前もそうしろ。お前も役者をやりたいんだったら』って。
そのぐらいのタイミングで父親に言われましたね。多分、父親も悩んだことがあったと思うんですよ。歌を歌ったり、いろんなことをやっていたので、『こういうことをやろうと思っていたわけじゃない』って。
『これ、何に繋がるんだろう?』とか、『これはもともとやりたかったわけじゃない。俺はこれを目指してやってきたわけじゃないのに』って。その当時、僕もそうやって感じていたときもあったので。
特に佐渡とかは、想定外のお仕事だったので、そういうことは父親に言われましたね。それで、とにかく一生懸命やろうと思って行きました」
――佐渡にはどれぐらいの期間、行ってらしたのですか?
「10カ月ぐらいだと思います。一言では言い表わせないような経験が詰まっていますね。まずは、20代前半の若者が60歳以上のおじいちゃん、おばあちゃんの集落で生きていく。
最初に人の名前を覚えるところから始まり、あちらは『お前馬鹿だな』とか、『お前は何もできねえな』っていうのが愛情だということに気づくんですけど、最初はやっぱりびっくりしましたよね。
でも、僕は最初から別にそういう風なことを言われても当たり前だと思っていたので、そんなに恐れおののくわけでもなく、そんなにビビることはなかったですね。
可愛がられたんです。大変でしたけど、意地悪をされたりとか、嫌な思いはしなかったですね。僕も一生懸命やっていたので、(地元の)皆さんがそれを受け入れてくださったということじゃないでしょうかね。
いろんな経験をさせてもらいました。テレビ的なというか、お仕事ではカメラを回しつつ地元の方と話して、その人から何か引き出すとか。僕はそういうロケが多いんですけど、今でもやっぱり一般の方と話すときには、佐渡での経験が大きいです。
そこでめちゃくちゃ生活しながら、そればかりの日々だったので、その経験が今のお仕事、タレント業には繋がっているんじゃないかなと思います」
――自然な雰囲気で人の懐に入るという感じがいいですね
「ありがとうございます。僕は、そういう感じのお仕事が多いんですよね。そういう風な接し方というのかな?あり方を佐渡で教えてもらったのかもしれないですね」
この番組の翌年には、「news every.」の中継コーナーに週4曜日出演することに。ドラマ「コウノドリ」、「所さんの目がテン!」の実験プレゼンターなど活躍の場を広げていく。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※渡辺裕太プロフィル
1989年3月28日生まれ。東京都出身。タレント、リポーターとして「news every.」、「所さんの目がテン!」(日本テレビ)、「やさいの時間」(NHK)など多くの番組に出演。俳優として、映画「メグ・ライオン」(河崎実監督)、映画「アクトレス・モンタージュ」(水口紋蔵監督)、舞台「R老人の終末の御予定」などに出演。野菜ソムリエの資格を持ち、YouTube「渡辺裕太の野菜ソムリエチャンネル」を開設。落語にも挑戦し、「天狗連俳遊」名義で寄席にも出演。映画「囁きの河」が全国順次公開中。