1990年、第3回「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」で準グランプリを受賞し、「キライじゃないぜ」(TBS系)で芸能界デビューした原田龍二さん。端正なルックスで人気を集め、「世界ウルルン滞在記」(TBS系)、映画「日本一短い『母』への手紙」(澤井信一郎監督)、映画「かあちゃん」(市川崑監督)、「水戸黄門」(TBS系)、「相棒」(テレビ朝日系)などに出演。俳優業だけでなく、歌手、タレント、司会者、YouTuber、作家など幅広いジャンルで活躍。8月8日(金)に主演映画「ハオト」(丈監督)が公開される原田龍二さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■ジュノンボーイコンテスト受賞は不本意?早く帰りたかったのに
東京都足立区で生まれた原田さんは、徒党を組むのが嫌いで、一歳下の弟(俳優・本宮泰風さん)といつも一緒にいたという。
――小さい頃は何になりたかったのですか?
「なりたいものがなかったんですよ。ちょっと自分の将来を悲観しているような子どもでしたね。理由はわからないですけど、天邪鬼(あまのじゃく)ですね。みんながこっちを向いていると、あっちを向いているという感じで。
例えば、僕が小さい頃、ガンダムのプラモデルを作るというのがすごいブームだったんですけど、そういうプラモデルも作らない。週刊少年ジャンプとか人気の漫画本も一切読んでない。買ったことないです。なので、みんなが興味のあるものじゃない方向を向いているような子どもでしたね。
もっと細かく言うと、全く違う方を向いているというよりも視点が違うというか。同じ方向は見ているんですけど、見ているものが違う。そういう子どもでしたね。今だにそうですけど」
――渋谷でスカウトされたそうですが、そのときはどう思いました?
「僕もテレビっ子と言えばテレビっ子ですから、テレビに全く興味のない人間ではなかったけど、そうかと言って、これは何かのチャンスだなという風には捉えませんでした。
技術的なことも何も体得していませんから、ほど遠い世界なんだなと思っていましたよね。
だから『こういう芸能事務所です』と言われて名刺をいただいても、ちんぷんかんぷんで自分には縁のないものだなという感じでした」
――それがお母さまに言われて事務所に入ることに?
「母に…そうですね。あのままだと刑務所行きだろうなっていう風に思っていたから、刑務所じゃなくて芸能界に…という風に思ったのかもしれないですね(笑)」
――最初はオーディションに行っても結構大変だったみたいですね
「大変というか、そうですね。適応できないんですよね、要するに。いやいや、いまだにそうですよ。だからオーディションで『笑ってください』と言われて『すみません。笑えません』って帰って来ちゃったこともありました」
――「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」はどうでした?
「あれも言い方が失礼ですけど不本意だったんですよね。オーディションに行かされたけど、早く帰りたくて。多分デートの約束か友だちと遊ぶ約束があったんですよ、そのあとに。
それに僕以外は、みんな一芸に秀でていると言ったら変ですけど、『芸能界でやっていくんだ!』って意気込んでオーディションに参加している人たちばかり来ていたんですよ。自分のカッコいいところを披露するためにね。
僕にはそんなものもないし、踊りもできない。何をするわけでもないから、好きな尾崎豊さんの歌を1曲歌ったらすぐ帰れるだろうなと思っていたんですよ。それで『I LOVE YOU』を歌って。当然選ばれるなんて思っていませんからね。
パッと歌って『はい落選。帰っていいですよ』っていう風になるかなと思っていたら、ああいう結果になって。『早く帰りたいのになあ』と思いながらやっていましたね」
――ほかの方たちは芸能界を目指して必死になっている中で準グランプリを受賞されて
「そうですよね。だから人生っていうのはわからない。生まれたときにその人がどうやって生きなければいけないかっていう宿命があるんだなっていう風に、今となっては思います」
スカウトされてから2年後には「キライじゃないぜ」でデビュー。「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)内のドラマで奥さま・原田愛(当時の芸名は鎌江愛)さんと出会う。翌年には歌手デビュー、そして初写真集も発売される。
――次から次に仕事が…という感じですが、ご自身ではそういう状況はいかがでした?
「でも、あの時点でも未来のことは一切考えていませんでした。と言うのは、これは一生できる仕事ではないと思っていたんですよ。なので、先のことは一切考えずに、自分がやれることをやっていたという気がしますね。
当然、将来のビジョンを見据えて、そのために今これをしようとか、来年はこれをしようっていうのも一切なく。
おそらくこれも来年にはもうクビになっているか、おそらく自分が『辞める』と言って事務所を退所しているんだろうなっていうぐらいの心持ちでしたね。
『キライじゃないぜ』をやっているときも1クールでしたけど、これが終わったら辞めるって事務所に言おうと、そんな心持ちで小淵沢のロケ地に通っていました。だから、こんなに長い間やることになるとは思っていませんでしたね」
■好青年の役で日本アカデミー賞新人俳優賞も受賞したが…
1995年、映画「日本一短い『母』への手紙」に出演。この作品は、福井県丸岡町が町起こしのために募集した“一筆啓上”から生まれたベストセラーを映画化したもの。
母(十朱幸代)が18年前に家族を捨てて別の男のもとへ走って以降、男手一つで娘の真紀(裕木奈江)と息子の宏(原田龍二)を育て上げた父(小林稔侍)が急逝。真紀が母への思いを込めて記した二行の文章を見つけた宏は真紀に内緒で「日本一短い『母』への手紙」コンテストに応募し、銀座でクラブのママをしている母と再会することに…という展開。
原田さんはこの作品で、第19回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。
「どういう基準で選んでいただいたのかはわからないんですけど、(撮影の)木村大作さんと澤井さん(監督)との出会いも大きかったですね。澤井さんとはそのあともう1回ご一緒しましたし、木村さんとも何回かご一緒しました。
『極道の妻たち 危険な賭け』(中島貞夫監督)やドラマ、あと高倉健さん主演の『ホタル』(降旗康男監督)という作品もそうだし、不思議とああいう巨匠の方に恵まれましたね」
――「日本一短い『母』への手紙」の撮影現場はいかがでした?
「あの役は、好青年役じゃないですか。子どものときにお母さんがほかの男性を選んで家族を捨てたんだけど、母を求めて会いに行く。純粋でいい役なんですけど、自分としてはもうちょっとハードな男臭い感じのものをやりたいなっていう風にあの頃は思っていました。結構好青年の役が多かったので」
――原田さんは、この作品でアカデミー賞の新人俳優賞を受賞されました
「でも、それは自分が評価されたというよりも、その作品の中に出ている若いやつが評価されたというだけの、大人が決めたものという感じがして。ただ、あのときに大人と言われている人間層に対して持っていた思いというのは今だにあるわけですよ。自分がその年齢になっても。
自分がもう22(歳)になる息子がいる55(歳)のおじさんになっても、今だにその大人と言われている人種に対する反骨心みたいなものはありますよね。『俺はそういう大人じゃないよ』って。ずっとそのまま死ぬまでそうなんでしょうね」
好青年の役だけでなくハードな路線の役も。1995年には映画「汚い奴」(望月六郎監督)で映画初主演。1997年には、「南町奉行事件帖 怒れ!求馬」(TBS系)で時代劇初主演を果たす。
このドラマは、南町奉行所の奉行を勤める根岸肥前守のやり方に反発して勘当の身となった根岸求馬が、江戸で起こる数々の事件をあざやかに解決していく様を描いたもの。
――27歳という若さで全13話の時代劇に主演されて
「そうですね。あれも大きかったですね。時代劇の洗礼を受けたというか。要するに『時代劇は難しいんだよ。そんな1日2日勉強してもできないんだよ』っていうのを身に染みて感じました。あの時点でもっと立ち回りとか、時代劇の立ち居振る舞いみたいなものが身についていれば良かったなとも思います。それは、たられば…ですけど」
――でも、求馬役は、そんなに慣れていないところが初々しくて良かったのではないかという感じがしました
「そうですね。あのぐらいの力量だったから良かったのかもしれないし、火がついたのかもしれないですけど…わからないですね」
――次から次にすごい勢いでお仕事をされていましたね。辞めようと思ったことは?
「自分としては、そこまですごい勢いで仕事をしたとは思ってないんです。物理的には、死ぬほど大変だって思ったこともないし。ただ、『これはどういうことなのかな?』って不思議でした。やる気満々で入ったわけではない世界にも関わらず、何でここまで求められるのかなって」
■「世界ウルルン滞在記」で人生観が激変
1995年、「世界ウルルン滞在記」で旅番組初出演を果たす。1995年から13年半に渡って放送されたこの番組で原田さんは、スリランカ、モンゴル、ラオス、ウガンダ、ベネズエラ、ニューヨークなどを訪れ、番組史上2番目に多い10回出演。
「当時は登竜門みたいな感じの番組でしたから、今活躍されている方もいろいろ出ていますけども、みんな体当たりでやっていましたよね。僕もそうだったんですけど。
僕は、10回出させていただいたんですけど、それがその中でも評価していただいたんだなと思いますね。その中でも体当たりで何の計算もなくやっていたということが10回出たことに繋がったんだろうなって」
――最初のスリランカからすごかったですね。いきなり「ズボンを脱いで」と言われて躊躇することなくすぐに脱いで。結局カツオの一本釣りに行く船に乗れるかどうか足の太さのチェックだったわけですが
「あのときはまだ自分のそういったアニミズム(すべてのものの中に霊が宿っているという考え方)とかシャーマニズム(特別な能力を持つシャーマン<呪術者>を通じて神々とつながっているという原始宗教の一つ)の扉が開く前なんですよね。それがモンゴルに行った時に一気に扉が開きました。
最初のスリランカのときは、そこで彼らと一緒に生活はしましたけど、ただそこにいただけでハングリーさもなかったし、初めての海外ということで見るものの目新しさというのに圧倒されているだけで、『この人たちはどんな人たちなのか』というところまでは踏み込めてなかったんですよね。
なので、スリランカに行かせていただいてから放送は毎回見ていましたけど、みんな泣くじゃないですか。僕は、スリランカでは泣いてないんですよ。なぜかというと、カツオ漁で本当に遭難しかけて死を覚悟しましたから命が助かったということだけでいっぱいいっぱいで、彼らとのコミュニケーションというところに重きがなかったので、その別れという部分での涙が出なかったんです。
その後いろんな方が出て、別れ際に泣くじゃないですか。『何泣いているんだよ。情けねえな』っていう風に思っていたんですけど、自分がモンゴルに行って彼らと別れるときにやっぱり泣くわけですよね。
それで、泣いていたときは思わなかったんですけど、放送を見たときに『もう絶対に泣くのはやめよう。もし次にオファーがあって行ける機会があったらこんなみっともない姿は見せられない』と思ったんですけど、また泣くんですよね。でも、やがてそれが気にならなくなっていくんですよ。
要するにカメラが回っているってことも気にならなくなってくるんです。これが不思議というか、ドキュメンタリーのマジックというか…僕が達観していくことになるんですけどね。気にしない。『この現地の人たちとの、交流がテーマ』っていう風にシフトしていくんですよね」
モンゴル編では遊牧民族のボルさん一家のゲルでホームステイをさせてもらうことに。民族服のデールを着せてもらい、寝食を共にし、やがてゲルを解体し家畜も引き連れての引っ越しも体験。最初に訪れてから2年後、そしてそれから8年後にもボルさん一家を訪問。
――モンゴル編は本当に印象的でグッときました
「ありがとうございます。モンゴルは本当にドラマティックで、馬との出会いでしたからね。
もちろん人間もそうですけど、馬との心の交流みたいなのがありましたね」
――ボルさん一家のところには95年、97年、2005年、3回行かれて、レースにも出場されました
「はい。落馬したり、馬に蹴られたり…僕のドジな一面も全部凝縮された珍しい回なんですけど。2回目からさらに8年後にモンゴルに行くことになって。
ただ、僕と同い年のガンスクさん(ボルさんのひとり息子)が亡くなってしまっていたことは本当にショックでした。落馬だったそうです。あれも台本には書けないドラマですよね。僕と同い年のガンスクさんが死んで、彼が遺した息子さんと僕が馬に乗って木の実を取りに行ったりして」
――ガンスクさんの息子さんが原田さんにお父さんの姿を重ねているのが伝わってきました
「おっしゃるとおりで、一緒に馬に乗っているときにもそういう思いは感じました。そこでボルさんに『馬に乗ってレースに出たい』と言ったら、『出たら絶対お前は死ぬぞ。同じように息子を亡くすのはもう嫌だから』って。
でも、自分は出たい。自分がこれだけ馬に乗れるんだぞっていう姿を見せれば、納得していただけるだろうと思って一生懸命練習する。でも、落馬する、馬に蹴られる…という散々な目に遭って。大変だったけど面白かったですね」
――その日の撮影が終わってスタッフさんたちがホテルに帰っても原田さんはボルさん一家のゲルに泊まっていたそうですね
「はい。僕はそういうスタイルでやっていました。だから、やっぱり情が移りますし、日本に帰るときは本当に寂しいです」
――あれだけなじんでいたら帰ってきたときに放心状態になりませんか
「なりました。普通に生活できないんですよ。要するにこの現代社会、便利な社会と真逆のモンゴルであまりにも居心地よく居たせいで、居心地がよくなればよくなるほど帰ってきて厄介なんですよ。
全ての音が雑音に聞こえるし、見るものもそうですね。草原にいると人工的なものとか文字が何一つないので、帰ってきた途端に文字の洪水、音の洪水で具合が悪くなっちゃって。それに今まで通り麻痺するまでちょっと時間がかかりますね」
――ラオスでは学校の先生もされていました。絵を描くのがお上手ですね
「いやいやうまくはないですけど、言葉が通じないから苦肉の策で(笑)。(現地の)言葉のしゃべれない人間が何を教えたらいいのかっていう話ですよね。
だからまず彼らの名前を覚えることと歌。何百回も練習したわけじゃないですけど、一緒に歌った歌は今でも歌えます。自分の中の大事なものは誰にも触らせないぞという感じで。ずっとあのときのまま密封されたものが自分の中にあって、それを大事に抱きかかえています。
ちゃんとあるんですよね、ずっと。大事な思い出の中に。息子が生まれたときとか、娘が生まれたとき、カミさんと出会ってラブラブだったときと同じような棚に乗っかっていますね、その宝箱は。それほど大事な出会いです」
南米・ベネズエラのジャングルで出会ったヤノマミ族も印象的だったという。「人間らしく生きるということはこういうことだよな」と価値観を覆すようなことばかりだったと話す。
現地の人たちと一緒に芋虫やシロアリなども食べる姿はある意味衝撃的だったが、食べ物を出されて断ったことはないという。構えることなく自然体で溶け込んでいく姿はまさに「郷に入っては郷に従え」ということわざそのもの。言葉が通じなくても受け入れられたのもよくわかる。
2001年には高倉健さん主演映画「ホタル」(降旗康男監督)、市川崑監督の映画「かあちゃん」に出演。2003年から「水戸黄門」の“助さん”役、2004年には「相棒」に陣川公平役で出演し、特命係“第3の男”と称される大人気キャラに。次回は撮影エピソードや裏話も紹介。(津島令子)
※原田龍二プロフィル
1970年10月26日生まれ。東京都出身。「キライじゃないぜ」でデビュー。「世界ウルルン滞在記」、大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」(NHK)、「肝臓を奪われた妻」(日本テレビ系)、「バラいろダンディ」(TOKYOMX)、映画「太陽とボレロ」(水谷豊監督)、映画「一月の声に歓びを刻め」(三島有紀子監督)などに出演。心霊系YouTubeチャンネル「原田龍二の『ニンゲンTV』」運営。小説「精霊たちのブルース」(万代宝書房)を出版。主演映画「ハオト」の公開が8月8日(金)に控えている。



