映画「日本一短い『母』への手紙」(澤井信一郎監督)で第19回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞し、俳優、歌手、タレント、司会者、YouTuber、作家など幅広いジャンルで活躍している原田龍二さん。「世界ウルルン滞在記」(TBS系)、映画「ホタル」(降旗康男監督)、映画「かあちゃん」(市川崑監督)、「水戸黄門」(TBS系)、「相棒」(テレビ朝日系)などに出演。YouTubeチャンネル「原田龍二の『ニンゲンTV』」のリーダーとしても活動。8月8日(金)には主演映画「ハオト」(丈監督)が公開される。(この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧になれます)
■憧れの高倉健さんと共演!名前を呼ばれて昇天?
2001年には高倉健さん主演映画「ホタル」に出演。この作品は、激動の昭和を生き抜いた特攻隊の生き残りである山岡秀治(高倉健)と、その妻・知子(田中裕子)の人生を描いたもの。原田さんは、山岡の漁師仲間の鉄男役を演じた。
――高倉健さんとの共演はいかがでした?
「正直に言うとほとんど覚えてないんですよ。何となく、『あそこでお酒を渡したな』とか、『船でブーッて行くときに健さんにセリフを言ったな』というようなことは覚えているんですけど、細かいことは覚えてないです。
そりゃそうですよね。自分の憧れの人と一緒に時間を過ごせているわけですから覚えてないですよ。ただ、あの方の口から『原田くんとご飯に行けなかったね』っていうのを聞いたときにもう終わりましたね。
初めて言われたんですよ、名前を。後にも先にもそこだけしか僕の名前を呼んでいただけなかったんですけど、僕の名前を覚えてくださっていて、言ってくださったなっていうことでもう昇天しました。それを僕におっしゃってくれたというのが全てだと思いますね。
なので、あの方を知ることはできなかったですよ。結局、健さんのことをいろいろ読んで知っている知識の方が多くて、現場に行って『こういう部分があるんだ』というようなことは知ることはできませんでした。舞い上がってよくわからないうちに撮影が終わっていた…という感じで(笑)」
同年、市川崑監督の映画「かあちゃん」に出演。この作品は、江戸時代の貧乏長屋を舞台にひとりの母親・おかつ(岸惠子)と子どもたち、その家に泥棒に入ったものの、一家の事情を聞いて一緒に暮らすことになった若い泥棒・勇吉(原田龍二)の日々を描いたもの。原田さん演じる勇吉は、親の愛情を知らずに育ち、おかつと出会って初めて母の愛を知ることに。
「市川崑監督とは、その前にも『新選組』という黒鉄ヒロシさんが原作の映画がありましたから、その後に『かあちゃん』に呼んでいただけたのは、とてもうれしかったです。でも、いい役だったから大変でした。
『新選組』は、声だけの出演だったから順調にいったんですよ。僕は沖田総司の声だったんですけど、監督のブースとレコーディングブースで影に合わせて自分のセリフを言えば良かった。そのときは監督のリクエストに応えてスムーズにできたんですけど、映画は全然できなくて…これが不思議と。
最初にガラガラガラッて石倉(三郎)さんの家に入ってくるところから始まるじゃないですか。『ごめんくださいやし。誰もいませんね?留守ですね?じゃあ入らせていただきます』って盗みに入るわけですけど、おびただしい数のNGを出して何十回もやったんですよ。
何回やってもうまくいかなくて『もう1回、もう1回』って、何がダメなのかがわからずにやっていましたね。最初、監督はモニターブースにいて、『違う。こうやで』っていうのを助監督が監督から聞いて僕に伝えるんです。『原田くん、監督がこう言っています』って。
それでやるんですけど、『違う、違う!』ってなって、そのうち監督が現場に来るんです。
杖をついてらっしゃって、その杖の音が聞こえるんですよ。『コンコンコンコンコンコン』って近づいてくるのがね。『また杖が来た!』って。
何十回もやっていると、『もうわかんないよな』っていう感じになって、最終的にはOKが出るんですけど、何でOKが出たのかわからないです。それまでと何が違ったのか」
――撮り終わったときにはホッとしたでしょうね
「本当にホッとしました。とにかく寒かったんですよ。2月の京都だし、貧しい設定だから着ているものもペラペラの薄い衣装で、からだが震えちゃっていましたね(笑)。でも、市川崑監督の作品に出たというのは貴重な経験だなって思いました」
■特殊メイクで激変「役者の醍醐味って…」
2004年、映画「跋扈妖怪伝 牙吉 KIBAKICHI 第一部」(原口智生監督)と「跋扈妖怪伝 牙吉 第二部」(服部大二監督)に主演。この作品は、動乱の江戸時代を舞台に、かつて心を許した人間に裏切られ、村を滅ぼされてしまった人狼の牙吉と無慈悲な人間たちの戦いを描いたもの。原田さんは、特殊メイクで主人公・牙吉役を演じた。
――特殊メイクに長い髪で原田さんだとわからない姿でしたね
「はい。でも、役者の醍醐味って、まさしくそういうところにあるんですよね。実は本人がやっているとか、吹き替えなしでアクションをやっているとかね。それは、こういう風にインタビューとかをしていただけるから話せるわけであって、見ているだけじゃわからないじゃないですか。記事になったときにわかるからいいですよね」
――特殊メイクはいかがでした?
「楽しかったですけど大変でした。アクションもありましたしね。アクションは当然吹き替えの方もいらっしゃるんですけど、できる限りは自分でやりたいと思っていたんですよね。
でも、『ここは原田さんじゃない方がいい』と言われて、『これ俺じゃないってわかるな。俺はここまでできないもん』というシーンもありました。
いろんな兼ね合いがあるわけですよ。例えばアクションのある現場に行くと吹き替えの人が来ていて、僕が全部自分でやっちゃうと吹き替えの人の仕事がなくなるというのも後で知ったことだし。
でも、『これは全部自分がやりたい』と思ったらやるべきなんですよね。『やるな』と言われても戦うべきなんです。人のことを考えずに、自分のその芝居に対する美学というのがあれば戦えるんですけど、残念ながら僕にはそういう美学がないので、『じゃあ、お願いします』って吹き替えの方にやっていただいた場面もありました。ここは本人じゃなくてもわからないというところもあったので。
特殊メイクにしても、やっぱり何時間もかかるんですよね。それも2人がかりで何時間もかかる。それで特殊メイクをすると、苦しさみたいなのがやがて訪れるんですよ。最初の1、2時間はいいんですけど、3時間、4時間、5時間と経っていくと、すごく苦しくなってきちゃって。皮膚呼吸ができないんです。
そういったことも経験をしなければわからなかったことで、実際に僕自身がやったことでそういうことがわかる。やっぱり経験が全てだなと思いますね、人生。役者に関わらず、何でもそうだと思います」
■「水戸黄門」のレギュラーが決まって家族で京都に移住
2003年から「水戸黄門」に5代目“助さん”(佐々木助三郎役)として8シリーズにレギュラー出演することに。
「『水戸黄門』はおふくろが一番びっくりしていました。犯罪者にならないか心配していた息子が国民的な番組に出るようになったかと(笑)。
ただ、そのときにおふくろの母親、僕の祖母がすごく喜んでくれたんですよね。それを知ってすぐ亡くなったんですけど、祖母は亡くなる少し前にリュウマチと白内障で目が見えなくなっていたんですよ。
会いに行くたびにどんどんその病状が悪化していって、やがて会いに行っても声でしか僕だと認識できなくなっていたんだけど、ヘルパーさんから祖母が『水戸黄門』だけじゃなく、いろんなインタビューの記事の切り抜きを集めてファイルにしてくれていたと聞いて、そのファイルを遺品として僕が受け取りました。
すごく楽しみにしてくれていたんですよね、『水戸黄門』を。ろくに見えもしないけど僕の声は判断できるから、死ぬ間際に『もうあなたの活躍を見られなくなるのが寂しい』と言ってわんわん泣いたんですよ。
だから、『死んでからおばあちゃんは俺の守護霊になって、俺にくっついてくれていたら俺の芸能活動が見られるよ』って言ったらケロッと泣き止んで、『あ、そうだね』って。
それで、『おばあちゃんが死んだらお化けになって出てきて俺の守護霊になってね』と言って別れたんです。だから、祖母に会えるんじゃないかなっていうのも、YouTube『ニンゲンTV』の活動の中の一つです。
心霊スポットに祖母がいるとは到底思えないんですけど、何か祖母との不思議な現象があったらいいなって思って」
――守護霊が守ってくれたんじゃないかと感じるときってありますよね
「そうですね。それも祖母だけじゃなくて、いろんな国に行ったところの精霊のおかげかなとも思いたいし、ご先祖様のおかげだとも思いたいし…。でも、祖母が生きているうちに『水戸黄門』のことを伝えられて本当に良かった。知らない人がいない作品に出ていたというのは、これも僕の財産の一つだと思います」
私生活では10年の交際期間を経て2001年にタレントの原田愛(当時の芸名が鎌江愛)さんと結婚。2002年に長男が誕生。「水戸黄門」の出演が決まったときに家族で京都に引っ越し、7年半あまり京都で生活。2006年に長女が誕生した。
――「水戸黄門」の撮影はいかがでした?
「大変なことは何一つなかったですね。里見浩太朗さんとの出会いというのも自分にとっての財産になりました。『水戸黄門』が決まって京都に住んでいたので、『何時にここらへんで撮影するから見に来たら?』って言って、カミさんが子どもたちを連れて来たときに里見さんにちょっと遊んでいただいたりしていました。抱っこもしていただいたりして。
京都には7年間住んでいたんですけど、楽しかったですね。仕事が楽しいだけでなく、京都を知りました。これは2、3日撮影で行くというのを100回繰り返しても知り得なかった。住んだからこそ分かった京都というのがありました」
――東京での仕事があるときは?
「そのときには実家に寝泊まりしていたので、それが良かったですね。そのときには弟夫婦(本宮泰風&松本明子)も実家に住んでいたのでいろいろ楽しかったです」
――弟さんも俳優になると思っていました?
「なってほしいと思っていました。俳優にならなかったら、本当に犯罪者になると思っていましたから。これ冗談じゃないんですよ。運命のいたずらが働いて、今はスクリーンの中で暴れられますからね(笑)。
だから、僕が役者をやったことで(弟に芸能界に)入ってもらえたらいいなって思ったし、それで、ましてやああいう素敵な人を奥さんにもらえましたからね。いろんなご縁が複雑に絡み合って、いい形になりましたよね。この間も弟と久しぶりに会って2人っきりでいろんな話をしましたけど、やっぱり可愛いです」
■ドラマ「相棒」では、愛すべきキャラ“陣川くん”に
2004年、「相棒」に陣川公平役で出演。刑事を目指して部屋中指名手配犯の写真を貼って頑張っているが、二度も誤認逮捕を起こして一度特命係に左遷されたことも。真面目な熱血漢で、ちょっと残念なとこもあるけれど恋愛体質で憎めない愛すべきキャラ。
「陣川は、ちょっとデフォルメしましたね。でも、デフォルメしたことで次も呼んでいただいて」
――“特命係の第3の男”とも言われていますね
「そうですね。いまだにそのフレーズがくっついてきますからありがたいですよね。『相棒』は、スペシャル版とか映画もありますし、毎年テレビシリーズが始まるときは、『今回は出るのかな?』って思ったりします。
でも、『貪欲にならない』というのも僕のモットーの一つなんですよね。『貪欲になってもならなくても来るものは来るし、来ないものは来ない』と。『言霊で言葉に出して』って言うけど、あまりアピールが激しすぎるとちょっと…というか。
それはマネジャーの仕事なので僕は風が吹くまで動じない。ただ、出来ることをする。健康に十分に気をつける。この体力を持続させるために毎日適度な運動をする…ということを継続して、いつでもいい仕事ができるようにスタンバイしておくということしか術(すべ)がないですから」
――陣川くんは愛すべきキャラですよね。本当に応援したくなります。変な女の人に引っかからないといいけど…って
「僕は普段あまり余計なことはしないんですけど、『相棒』に限っては、やっぱり水谷さんに褒めてもらおうと頑張るんですよ。最後にそこまで酔っ払うということは(台本の)ト書きに書かれてないんです。
ただ、ちょっと失礼なぐらい酔っ払った方が絶対に面白いと思ったんですね。何もわからないくらい酔っ払っちゃって、あの人たちを呼び捨てにしたいと思って。
台本に書かれてないことを唯一あの場面でちょっといろいろ考えてやった結果、いまだに呼んでいただけることに繋がっているので良かったなって思います」
2022年には、水谷豊監督の映画「太陽とボレロ」にも出演。俳優としてだけでなく、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!笑ってはいけないシリーズ」(日本テレビ系)では、アキラ100%さんと共に出演し、「丸腰デカ」として全裸でおぼん芸に挑戦。「5時に夢中!」(MXテレビ)、「バラいろダンディ」(MXテレビ)では司会も。次回は撮影エピソード、8月8日(金)に公開される主演映画「ハオト」も紹介。(津島令子)





