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2025年8月22日 13:33

大沢逸美 16歳のときにホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリ受賞!「ピンク・レディーになりたくて…」

2025年8月22日 13:33

大沢逸美 16歳のときにホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリ受賞!「ピンク・レディーになりたくて…」
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1983年、「ジェームス・ディーンみたいな女の子」でアイドル歌手としてデビューし、170cmの長身とボーイッシュなイメージで注目された大沢逸美さん。「ヤヌスの鏡」(フジテレビ系)、主演ドラマ「約束の夏」(フジテレビ系)、主演映画「セラフィムの夜」(高橋伴明監督)など多くのドラマ、映画、舞台に出演。約10年間に及ぶ母親の介護生活を綴(つづ)った「お母さん、ごめんね。」を出版。介護に関する講演活動も行っている。9月4日(木)〜9月8日(月)まで舞台「リア王2025」(三越劇場)に出演する大沢逸美さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

■小学生のときから芸能界に憧れ、3度目の正直でグランプリ受賞!

(デビュー当時 事務所提供)

北海道札幌市で生まれ育った大沢さんは、10歳のときに「ピンク・レディー」をテレビで見て衝撃を受け芸能界を目指すようになったという。

「幼稚園、小学校の頃は、からだが弱くて入退院を繰り返していました。アレルギーもあったので、小学校3年生くらいまでは半分ぐらい病院の中にいて、病院から学校に通うという感じでした。小学校の高学年になって徐々に治っていきました」

――芸能界に興味を持ち始めたのは?

「小学5年生のときにテレビで見たピンク・レディーが衝撃的で、『ピンク・レディーになりたい』って。クラスのみんなが踊っていましたね、机の上に立って(笑)。6年生のときに友だちと二人でオーディションを受けたりして、もうドハマリでした(笑)。

それで、『ピンク・レディーになりたい』という思いがそのまま『テレビに出たい』になって、中学に入ったときに進路のひとつとして、『芸能界に就職したい』って先生に真面目に相談したんです。先生は『何を言っているんだ?』っていう感じでした(笑)」

――ホリプロタレントスカウトキャラバンに応募されたのは?

「3回です。中3のときに進路希望、就職ということで受けたんですけど落ちて。そこから半年間ぐらい勉強して何とか公立の高校に入って、高1でまた受けてまた落ちて。それで、3度目の正直で高校2年生のときに受けてグランプリに。

落ちても諦めなかったのは、初めて受けた中3のときに、ホリプロの方から『君はタッパ(身長)があるし、今回落ちたけど、もし東京に来ることがあったら尋ねておいで』って名刺をいただいたんです。

田舎者ですから、もうその時点で『私は素質があるんだ』って思っちゃって(笑)。落ちたんですけど、その日の帰りの景色が違って見えました。『もう私は芸能界に入るんだ』って思い込んじゃって。だから、諦めずに受け続けてグランプリに受かったときは『ヨッシャー、ここからだ!』という感じでした」

――ご両親はオーディションについて何かおっしゃっていました?

「父は反対していたんですけど、母は芸能界が好きだったみたいで応援してくれていました。父は口もきいてくれなかったです。しばらく口もきかず、私は家と言っても狭いアパートですけど、自分の思いを全部手紙に書いて、付き添いの母と一緒に東京に来て。

当時はオーディションがテレビで生放送されていたので、父は家で見ていたんですけど、まさか受かると思っていないわけですよ。『うちの娘が芸能界になんて…』って思って見ていたから『受かっちゃったよ。どうしよう?』みたいな感じで。

でも、決まった瞬間からすぐ知り合いから電話がかかってくるじゃないですか。あのときの父の思いはどうだったのか…今父がいたら本当に聞いてみたいなって思います。もうどうしようもなくなっちゃったんですよね。いろんな電話かかってくるし、近所の人にも『逸美ちゃんは芸能人になるんだね』って言われて」

――グランプリの自信はありました?

「全くなかったです。周りの子はみんな可愛いし、第一候補がいたんですよ。前年度のグランプリの堀ちえみさんに雰囲気もそっくりで、親衛隊もすでにいる本当に可愛い子がいて。

のちにその子は他の事務所からデビューされていますけど、一緒に出ていた私たちの誰もがグランプリはその子だと思っていたんです。

でも、生放送中の決戦大会で12人から最後の5人に絞られて、ドラムロールが流れて優勝者にスポットライトが当たって発表されるんですけど、スポットライトが当たる数秒前に『来る!私だ!』って何か急に降りてきて。

私は別に霊感とか何かが見えたりはしないですけど、何かフッとライトが当たるという感じがしたんですね。だから、パッとライトが当たったときにあまり驚きもなく、『ありがとうございます』という感じで、とにかくちゃんと歌おうって思っていました。

その当時の司会は高島忠夫さんと片平なぎささんで、高島さんにのちに『グランプリを受賞して泣かなかったのは君だけだよ』って言われました。今でも覚えていますけど、何か不思議な光景でしたね。すごく冷静でした。

堀ちえみちゃんにソックリの子が決まるだろうと思っていたので、ちょっと諦めていたのもあったのかもしれません。だから私はとにかくちゃんと歌おうって」

――グランプリに決まってからは怒涛(どとう)の展開だったと思いますが

「今思うとそうですね。その当時はそういうものだと思って動いていたんですけど、すぐにいつ東京に出て来るのかという話になってくるわけですよ。3日ぐらい東京にそのまま残って会社にも挨拶に行ったりして。

北海道に帰ると高校の2学期が始まっていて学園祭だったんですけど大変でした。他校の人も入れるから、すでにもうライブ状態。先輩から『歌え、歌え』と言われて歌って、もうサインもしていましたから(笑)。本当に人生がコロッと変わりましたね」

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■芸能界に入って、とにかくお金を稼いで親に楽をさせたい

約1カ月後、学校の手続きや引っ越しの準備などを済ませて上京することに。

「父に千歳空港まで送ってもらって、同級生も千歳空港まで来てくれてバイバイして飛行機にひとりで乗って上京しました。全く後ろ髪を引かれず。飛行機に乗る前に、搭乗口のところで父が、飛行機の中で読みなさいって手紙をくれて。何の会話もないんですよ。

嫁入り前みたいに、『お父さま、お母さま、お世話になりました』も何もなく。あのときに母が一緒に空港まで行かなかったのはちょっと謎なんですけど。父の手紙には『ホリプロさんの言うことを聞きなさいね。今日からお前はもううちの子じゃないよ』って書いてありました。

だから余計ですね。『よっしゃー、頑張るぞ!』って思いました。そもそも私が芸能界に入ろうと思ったのは、『ピンク・レディーになりたい』がきっかけでしたけど、その後、山口百恵さんに憧れて、ホリプロという会社にもすごく憧れていたので、その夢が叶って。

私は芸能界に入って、とにかくお金を稼いで親に楽をさせたいと思っていたんです。歌が好きということは二の次で、正直なところ、飛行機に乗ったときから『稼ぐぞ』って。ずっとアパートで暮らしていたので、両親を一軒家に住まわせたかったんです」

――まだ16歳という若さでしたが、しっかりしていましたね

「そうだと思います。だから、今仲良くしている同期もみんな『いっちゃんは、みんなと違っていた。もうプロだった』って言っていました。

今回の舞台『リア王2025』にも繋がりますけど、『よし、上り詰めてやるぞ!』という思いが東京に来るときからあったんだと思います。要するに芸能人として成功しないと稼げないので」

――「ホリプロタレントスカウトキャラバン」のグランプリは、第1回の榊原郁恵さんをはじめ、いろいろな方がいらっしゃいますが、プレッシャーは?

「プレッシャーはなかったです。ラッキーだったのは、やっぱり寮生活ですぐに皆さんと接することができて、そこでまず距離感が縮んだので。そうじゃないと、やっぱり『あっ、郁恵ちゃんだ』とか『(堀)ちえみちゃんだ』ってなるじゃないですか。でも、寮生活でそういうのがすぐになくなったので」

――上京されてからの毎日は?

「すぐに発声練習と、ダンスレッスンが始まりました。あと学校も。私は、歴代のアイドルさんがみんな堀越学園の制服姿で『週刊平凡』とか『明星』に出ていたので、堀越学園の制服に憧れていて。

私もあの制服が着られると思って、そのつもりで写真のポーズまで考えていたんですけど、『君は明大中野高校の夜間部、定時制ね』って言われて。制服じゃなくて私服なんですよ。夢は砕け散りましたね(笑)。学校は夜間なので、日中は発声練習やダンスレッスンが始まりました」

1983年、「ジェームス・ディーンみたいな女の子」(テイチクレコード)でデビュー。「男装の麗人」、「ポスト山口百恵」などと称された。

「9月末に東京に来て、12月にはもうレコードができていたので、早かったですね。でも、これが当たり前なんだという感じで、ひとつひとつに感動したり驚いたりしている暇がなく、忙しい毎日だった感じがします。

そのときのマネジャーさんがとにかく厳しい方で怖かったんです。北海道から出て来て初めてお会いしたときに、『それで君はどうしたいんだ?』みたいな話になって。話しているときについうっかり『うん』なんて言うと『“うん”じゃない、“はい”だろ!』って怒られて。特別厳しいマネジャーさんだったので。

でも、(堀)ちえみさんとか歴代の皆さんもその方が最初のマネジャーさんだったので、寮母さんに『逸美ちゃん、大丈夫よ。あの人がマネジャーさんの皆さんはみんな立派になったんだから』って言われました(笑)」

――お芝居がしたいという思いはあったのですか?

「(山口)百恵さんが好きだったので、お芝居にも興味はありましたけど、最初はとにかく歌手デビューが目標ですから。日々与えられることに一生懸命だったという感じです」

――初めて歌番組に出演されたときのことは覚えていますか?

「はい。覚えています。あのときの緊張感は一生忘れられないです。本当に心臓が口から飛び出しそうでした(笑)。でも、緊張したのは、多分その1回きりです。そのあとは全く緊張しなかったですね」

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■4年ぶりのレコードを病床の父親が枕元でずっと聴いてくれた

アイドル歌手としての活動と並行してドラマにも出演するようになった大沢さんは、「ヤヌスの鏡」に野獣会会長役で出演することに。

「ドラマと並行するようになってからは本当に目まぐるしい毎日でした。83年に初めてドラマに出たんですけど、百恵さんとか、皆さんが映画やドラマに出ているから自分も…という感じで、そういうものなんだろうなと思っていました。

歌番組の中のドラマなどは、その前からちょっとやったりしていたんですけど、本格的にドラマをやるようになったら、寝る時間がほぼなくなりましたね。時間も不規則で」

――当時のアイドルの人たちは移動時間の車の中で睡眠をとっていたと言いますね

「本当そうです。キャンペーンなどでよく地方にキャンペーンに行っていたので、寝るのもご飯を食べるのも全部車の中という感じでした。でも、やっぱり若いし、憧れていた世界だということで日々充実していたのでしょうね」

1985年に放送されたドラマ「ヤヌスの鏡」は、真面目でおとなしい優等生・小沢裕美(杉浦幸)が、厳しい祖母(初井言栄)の虐待が原因で、突然別人格である凶悪な不良少女・大沼ユミ(杉浦幸)になり、夜の繁華街を闊歩し、暴走族などを相手に大暴れする様を描いたもの。大沢さんは、ユミと敵対する暴走族「野獣会」会長・東涼子役を演じた。

「大映テレビのドラマは『ヤヌスの鏡』の前からやっていたんですけど、不良的な役は初めてだったと思います。原作の漫画は高校生のときに読んでいたので、「おーっ、ヤヌスだ」って(笑)」

――ドラマの内容も衝撃的でしたが、大沢さんが演じた野獣会の会長もインパクトがありましたね

「そうですね。ヤヌスのときは、どこ行っても『会長』って声をかけられていました(笑)。チェーンを振り回したりしてアクションシーンも結構ありましたけど、私は子どものときに病弱だったこともあって運動神経が鈍いんですよ。

そうは見えないみたいなんですけど、見かけ倒しで(笑)。できそうに見えるのでそういう役も回ってくるじゃないですか。ヤヌスではチェーンを振り回して、そのあと時代劇では岡っ引きの役だったのでロープみたいなものを振り回したり…。

とりあえず、できるとかできないということよりも、どう見せるのかを殺陣師さんに教えていただいて何とかやっていたという感じです」

――歌手活動と並行してのドラマ撮影はかなりハードだったのでは?

「ヤヌスもそうですけど、当時のドラマは結構2クール(26回)というのが多かったので、結構ハードでした。わりとコンスタントに大映テレビのドラマはやらせていただいていたし、時代劇や刑事ドラマもやるようになったので。

デビューして2年目までは普通に年に3枚レコードを出していたのですが、歌がヒットしなかったこともあってドラマの仕事が多くなってきて、演じることに興味を持つようになりました」

俳優としてドラマ、映画で多忙な日々を送る中、ひとり娘だった大沢さんはご両親に一緒に東京で暮らそうと提案したが、父親に反対されたため、1991年、札幌市内の大きな部屋と庭がある一軒家を借りたという。

「東京で一緒に暮らそうと何度言っても父が、『東京は住むところじゃない。北海道がいい』と言うので、札幌で家を借りたんですけど、引っ越して間もなく風邪をひいて入院して膵臓ガンが見つかって…。3カ月くらいで亡くなってしまいました。

ちょうどそのときに関西テレビの『わんぱく天使』というドラマを撮っていて、4年ぶりにそのドラマの主題歌と挿入歌を新曲として出したんです。

父はトラックの運転手だったので、ラジオでいつも歌を聴いていて、歌が大好きだったんです。私のドラマや映画も見てくれていましたけど、私が歌っているのが好きで。4年ぶりの新曲だったので、病室の枕元でずっと聴いていたと聞きました。それが最後のレコードだったのですが、父に聴かせてあげることができて本当に良かったって思いました」

悲しみに耐えながら大沢さんは、残されたお母さまと一緒に東京で暮らすことにするが、聴神経腫瘍(しゅよう)、白内障、糖尿病、リュウマチなどさまざまな病気に苦しむお母さまは入退院を繰り返すことに。次回は母娘二人の生活、主演昼帯ドラマ「約束の夏」(フジテレビ系)、赤坂コルドンブルーでのレビュー、写真集、主演映画「セラフィムの夜」の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※大沢逸美(おおさわ・いつみ)プロフィル

1966年3月23日生まれ。北海道出身。1983年、「ジェームス・ディーンみたいな女の子」でデビュー。「ヤヌスの鏡」、「江戸を斬るVII」(TBSテレビ系)、「仮面ライダーW」(テレビ朝日系)、映画「極道の妻たち 赫い絆」(関本郁夫監督)、映画「復讐 運命の訪問者」(黒沢清監督)、オリジナルビデオ「KILL-キル-」(佐々木浩久監督)、「AnotherXX狂愛(ファナティック・ラブ)」(片岡修二監督)などに出演。9月4日(木)〜9月8日(月)まで「リア王2025」(演出:横内正)に出演。

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