1981年、「警視庁殺人課」(テレビ朝日系)で芸能界デビューし、「北アルプス山岳救助隊・柴門一鬼」シリーズ(テレビ東京系)、映画「森の向う側」(野村惠一監督)、バロック音楽劇「ヴィヴァルディ−四季−」などに出演。日本画家である父・大山忠作氏の作品を寄贈した「大山忠作美術館」の名誉館長としても活動。芸能界屈指の着物通としても知られ、2019年には「一色采子のきものスタイルBOOK 母のタンス、娘のセンス」(世界文化社)を出版。9月4日(木)〜9月8日(月)まで東京・三越劇場で上演される舞台「リア王2025」(演出:横内正)の舞台稽古中の一色采子さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■入室禁止の父の画室で美人画に魅せられ
現代日本画壇の重鎮として活躍した日本画家・大山忠作氏の長女として東京で生まれ育った一色さんは、毎日を着物で暮らしたお母さまの影響で、小さい頃から着物姿が好きだったという。
――お父さまが有名な画家だということは、いくつぐらいからわかっていたのですか?
「有名か無名かはわからなかったですけど、私が生まれたときから父は絵描きでしたから、一応新進気鋭というところだったのかな。
父は本当に絵が描きたくて描いていた人だったので、おそらく貧乏絵描きだったとしても、絵を描いていたと思いますし、うちの母は、父が貧乏絵描きだったとしても、父を尊敬していたと思います。
結果的に父は絵で成功したんだけど、私が子どもの頃はそういうことはわからなかった。ただ、普通にお勤めに出る家庭とは違うなという感じでしたね」
――アトリエはご自宅に?
「はい。2階に画室がありました。だから、夏休みで子どもの学校がお休みだから父の福島の実家に帰ろうかなんて、そういうセンスは全くないんですよ。画室にいるのが一番大好きな人なので、1年365日、画室にいました。母は、そんな父を尊敬する態度で接していたので、自然と子どもたちもそういう風になりますよね」
――そういう環境だと、小さいときから美的センスが磨かれますよね
「でも、画室に入っちゃいけないと言われていたので、父がいるときは入らなかったです
けど、父が留守のときにコッソリ上がっていくと、鏑木清方(かぶらき・きよかた=美人画家として有名な浮世絵師・日本画家)の画集があったりしてね。子ども心にも綺麗だなと思って見たりしていたので、多少はそういうのはあるのかもしれないですね。
あと、うちの父の実家は、田舎で染め物業を営んでいたんですね。だから、子どもの頃から色見本とか反物がたくさんあったので、そういうことが絵描きになることに影響したかもしれないなって父は言っていました。色に囲まれているということがね。私もそれと同じようなことでしょうか」
――小さいときから歌舞伎座にもよく行かれていたそうですね
「はい。父が歌舞伎座の筋書(公演のあらすじや配役、舞台写真、出演者などが掲載された冊子)の表紙をずっと描いていたので、そうすると歌舞伎座からチケットをいただくんですよね。だから、何を言っているのかもさっぱりわからないんだけど、よく行っていました。
私は、4歳から踊り(日本舞踊)のお稽古はしていたので、着物とか、そういうのが綺麗だなと思って。訳も分からず綺麗だなと思って見ていたんですよね」
――日本舞踊を習い始めたのはご自身の希望ですか?
「そうなんですって。まだ4歳だったから自分では覚えてなくて、気が付いたら習っていたという感じだったんですけど。生前母に聞いたら、『あなたがやりたいって言ったの』って言うんですよ。
私がお雛様が持っている檜扇(ひおうぎ)を手に取って回していたのを見ておばあちゃまが私にお扇子を買ってくれたんですって。そうしたら、いつもそれを手に持って回していたから『あなた、踊りをやってみる?』って言ったら、『やる!』って言ったんですって。全然覚えてないですけど(笑)。それで、気が付いたときには習っていたということなの(笑)。
私は左利きなので、お扇子を持つ方が右、逆だなって。母はお箸や字を書くのを右にさせようとはしなかったんです。せっかく何か書いていたりするのに左手で書いちゃいけないと言ったりすると、書くことの興味がなくなるといけないからって。
物心がついて、人と違うから恥ずかしいと思ったら自分で直すだろうって。でも、ちっとも恥ずかしいと思わなかったからそのままでしたけど、私の時代は、まだ左利きはちょっと変わり者扱いされるみたいなところはありましたね。
左手を使っちゃだめだって。お箸も。小学校1年の担任の先生がおばあちゃま先生だったんですね。その先生は私が左で書いていると授業中にも『采子ちゃん』っていつも怒るの。だから授業中だけは右で書いていたんですけど、家では叱られないから左でした」
■15歳で日本舞踊の名取に。日舞の発表会だけは父も来てくれて
お父さまは、学校の授業参観や運動会に行くことはなかったが、踊りの発表会だけには必ず行っていたという。
「きっと母が連れて来ていたのでしょうね。大人になって『道成寺』とか『鷺娘』を踊るようになったら、『自分の娘じゃないみたいだな』って言っていましたね。
坂東流は15歳からじゃないと名取になれないので、私が15歳で名取になって17歳のときに名披露目として『連獅子』をやったんですね。それを父が見て描きたくなっちゃったらしくて、描いた作品があります」
――幼い頃の一色さんを描いた作品もありますね
「はい。だから父は父なりに感動してくれていたというか。このチビが一生懸命踊っているって、親は親なりに思うところがあったんですかね。絵になっています」
――高校卒業後、短大に進まれたわけですが、その頃にはもう俳優になりたいと思っていたのですか?
「思っていました。漠然とですけどね。やっぱり子どもの頃から踊りの発表会とかに出ると、綺麗にお化粧をしてもらってお衣装をつけて、みんなに上手だの綺麗だの言われるわけじゃない?どうやらそういうことに味をしめたのかなって(笑)。だから、子どもの頃から漠然と、そういうことはしたかったですね。
10代のときに私は女子校、女子美にいたんですけど、慶応義塾大学付属の『8ミリクラブ』の人たちが男子ばかりで出演するヒロインがいなかったので、彼らと自主制作映画みたいなことをちょっとやっていたんです。
それで、“ぴあフィルムフェスティバル”の第1回か第2回に石井聰亙(現在は石井岳龍)さんとかと一緒にエントリーしていて、彼らを抑えて慶応の学生たちが賞を獲ったりしていたんですよ。その作品に私が出たりしていたの。
だから、世が世なら映画でもうちょっと…という感じなんですけど、そのときの慶応の学生たちはみんな大学を卒業するとちゃんとホワイトカラーになっちゃうんですよ。それで、一緒に遊んでくれる人がいなくなっちゃったわけ(笑)。
でも、OLになるという感じでもなかったし、養成所で勉強しようという気ではなかったんだけど、そういうことがしたいんだという意思表示にはなるじゃないですか。それで養成所に通うことに」
■デビュー作はNG連発で新人助監督にまで「こんな仕事辞めればいいんだ」と言われて
1981年、養成所に通い始めて10カ月あまり経ったとき、ドラマ「警視庁殺人課」に出演することに。このドラマは、NYPD(ニューヨーク市警)帰りの警部(菅原文太)を中心とした警視庁の「殺人課」を舞台に、特殊訓練を積んだ刑事たちの活躍を描いたもの。一色さんは、「殺人課」の紅一点、“エンジェル”こと眉村冴子刑事役を演じた。
――主演の菅原文太さんをはじめ、鶴田浩二さん、梅宮辰夫さん、三田村邦彦さん、ディック・ミネさんなど、そうそうたるメンバーでしたね
「そうそう。東映のすごい人たちばかりでした。まだその頃は、映画スターと、テレビスターはかなり違う時代で、映画スターの文太さんが初めて民放のテレビドラマのレギュラーをやるというので大騒ぎだったんですよね。
そこに右も左も何もわからない私が『ちょっとこういうドラマが始まるので出てもらえませんか』と言われて出ることになっちゃって」
――まだ22、3歳とは思えない大人っぽい雰囲気でしたね
「そうですね。大人っぽかったと思います。でも、何もわからない状態で。学生のときにちょっと自主映画をやっていたから、『このカットが終わったら次のカットはここからだな』ということぐらいはわかるんですけど、専門用語がわからなくて。
今でも覚えているんですけど、有楽町で横断歩道を挟んだ向かい側にカメラがあって、そこを文太さんと二人で横断するんですけど、カメラマンが向こうから『かぶる』って言うんですよね。『かぶるって何ですか?』って聞けばいいんだけど、スタッフは横断歩道の向こうにいるから聞けない。文太さんにも聞けないしね。それで、結局2回か3回やることになっちゃって。
私は文太さんと離れちゃいけないと思っていたからくっついて歩いていたんだけど、結局カメラから見ると文太さんの前に重なってしまう。そうしたら、さすがに何回目かのときに、文太さんが、『勘の悪いやつだ』って言ったのね。
そりゃそうだと思います。ポッと出の新人のために何回もやることになって。忘れもしないんだけど、ロケバスで衣装替えをするときに、監督に言われようが、文太さんに言われようが、『申し訳ありません』って言うしかないんだけど、そのときに初めて就いたみたいな新人の助監督、みんなからボコスカ言われている助監督に、『こんな仕事辞めればいいんだ』って言われたんですよね。
それでもう堪(こら)えていたものがダメでした。ロケバスで泣いた覚えがある。デビューはそんな感じでしたけど、泣いちゃうと今度は顔が腫れるから、次の場面がどうにもならなくてね。本当に切なかった」
――紅一点の華やかな存在でしたけど、舞台裏ではそういうことがあったのですね
「だから、デビューなんてそんなものです。それで、プロダクションのマネジャーとか、ちゃんとブレーンがついてやってくれていたらいいんですけど、私の場合はポッと拾われて出ちゃったから、マネジャーも先輩もいない。現場にひとりで行くし、聞く人もいなかったので、結構大変でした。
最初はよくわからないままやっていたという感じでしたよ。『脱げ』と言われたら脱がなきゃならない時代でしたしね。今と違いますものね」
――セクシーなシーンもありましたが、脱ぐことに関してご両親は?
「母は相当嫌だったと思いますよ、やっぱり。だけど、うちの父が、そもそもお国が軍国主義になる頃に絵を描こうとしていた人なので、自分は好きなことをしていたんだから、その子どもたちに、どうしろこうしろと言うことはできない。
子どもたちも好きなことをすればいいんだというのが父のポリシーだったので、父がそう言っている以上、母は何も言えないわけですよ。だから、母は嫌だったと思いますけど何も言いませんでしたね」
――いろいろな作品に出演されているのはお母さまもうれしかったのでは?
「結果的にね。いろいろ叱られて、悔しい思いもしたけれど、子どもの頃からやりたいと思っていたことをやっているわけですから喜んでくれていたと思います」
――はたから見るとすごくいいスタートですよね
「そうですね。『シンデレラガール』って言われました(笑)。2クール、26回で半年間。あれは最後全員死んだというか。死ねば視聴率が上がるだろうみたいな感じで(笑)。私も最終回で撃たれて死んじゃうんですけど」
――最初に大きな現場を経験されたことは大きかったでしょうね
「そうですね。結局、そこで出会った監督が次に2時間ドラマをやるときに使ってくれたりして、仕事を繋(つな)げていくことができたので、そういった意味ではやっぱり母体ですよね。そういう感じでボチボチとですね」
華やかな大人の魅力で人気を集め、映画「ビー・バップ・ハイスクール」、映画「行き止まりの挽歌 ブレイクアウト」、時代劇など多くの作品に出演。2005年にお母さまが逝去されると芸能活動を一時休止し、お父さまの創作活動を支えることに。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※一色采子(いっしき・さいこ)プロフィル
1958年10月1日生まれ。15歳で日本舞踊坂東流名取「坂東晃祿」に。「警視庁殺人課」でデビュー後、「古畑任三郎」(フジテレビ系)、連続テレビ小説「あぐり」(NHK)、
「北アルプス山岳救助隊・柴門一鬼シリーズ」、映画「ビー・バップ・ハイスクール」(那須博之監督)、映画「行き止まりの挽歌 ブレイクアウト」(村川透監督)、朗読劇「智恵子抄」などに出演。お母さま譲りの着物を今様に着こなす達人としても知られ、トークショーにも多数出演。9月4日(木)〜9月8日(月)、舞台「リア王2025」の上演が控えている。



