1987年、「金子信雄の楽しい夕食」(テレビ朝日系)に初代アシスタントとして出演し、キュートなルックスと抜群の対応力で話題を集めた東ちづるさん。司会、俳優、コメンテーター、講演、執筆、CM、プロデュ―サーなど多方面で活躍し著書も多数。骨髄バンクやドイツ国際平和村など様々なボランティア活動を続けていることでも知られている。9月25日(木)〜10月1日(水)まで京王百貨店聖蹟桜ヶ丘店で「東ちづるポップアート〜妖怪まぜこぜ原画展〜」を開催、2026年1月に映画「愛のごとく」(井土紀州監督)が公開される東ちづるさんのインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■21歳で私を産んだ母は「子どもが子どもを産んだ」と言われないように独自の「英才教育」を試した
自然豊かな広島県因島で生まれ育った東さんは、小さい頃から里山で遊んだり、海で泳いだり活動的だったという。
「一般的に女の子たちが好きなお人形さん遊びとか、ままごととかは一切してないです。とても活動的でアウトドアが好きなんだけれども、本の虫でもありました。どちらかというとひとりの方が好きでしたね」
――太陽のような明るいイメージで人が集まる雰囲気がありますね
「どうなんだろう?母の育て方が明るい人にしたかったので、それをなぞっていたと思いますね。同じ年頃の中では身長も高くて、顔も大人っぽくてしっかりしている風に見えたので、小学校6年間、全部1学期は学級委員をやっているんですね。そういう意味では、人が集まるタイプだったと思います」
――勉強は好きでした?
「途中まではそうですね。勉強は好きでした。最初はすごく好きでした。小学校入学時の知能テストで学年で1位になって。だから先生たちも注目するんですよね。そういう意味では期待には応えていたんだと思います」
――お母さまが教育に関しては随分厳しかったとか
「厳しいというか、母は20歳で私を妊娠して、21歳のときに産んでいるので、右も左もわからなくて。『子どもが子どもを産んだ』と言われないように独自の英才教育的なことを試みたみたいですね。
育児書や教育書を何冊も読んで、あれもこれも取り入れて。厳しいというよりは、真面目でした。ちょっと変わっているんですよね。勉強しなさいというわりには、学校を休んで家族旅行に連れて行ったりしていました。社会的な知識も豊かに広い意味での立派な人に育てようと思っていたみたいです」
――東さんは成績もかなり優秀だったそうですね
「高1ぐらいまでは優秀でした。高2ぐらいからもずっと勉強はそれなりにはしていましたけど、やる意味もわからなくなって。中学生ぐらいまでは、知らないことをどんどん知っていくということが楽しかったんです。
でも、高校になってからは、受験して進学すると因島から出るわけですけど、今みたいに橋がかかっていなかったので、かなり離れる、独り立ちするという意識があって、混沌(こんとん)としていました。
どういう学校を選べばいいのか、なぜ大学に行くのか、因島を出て私はひとりでどうすればいいのか。期待とか楽しいというよりも不安のほうが大きかった。みんながそうするからそうするというぐらいの答えしかなかったんですよね。なので、勉強は全く楽しくなかったです。ほとんど記憶がないですから」
――それは、お母さまが考えていた大学の受験に落ちたことが大きかったですか
「大きかったみたいですね。だから、高校時代のことはあまり覚えていない。でも、どこかホッとした自分もいました。ある意味母の呪縛が解けたというか。見えない呪縛がくっきりした瞬間だったのかもしれないです」
■まだ“女性”が働き辛かった会社員時代、人間関係のストレスで「十二指腸潰瘍」になって…やっぱり「組織」は向いてないな
短大に進学した東さんは卒業後、就職して4年間勤めたという。
「PRの仕事をしていたので、新商品が出るたびに勉強をして、販促のためにその商品を使ったり、イベントの企画や映像制作をしたりだとか、そういうことは仕事としてかじってはいたんですね。アイドルやタレントさんを呼んでイベントをしたりしていたんですよ、全く裏方で。
当時はバブルで、私は、スキー、テニス、ウィンドサーフィンをしていたんですけど、『組織』というものが合わなくて。男女雇用機会均等法(性別を理由とする差別を禁止した法律)が制定されたばかりだったんです。
別に企業が悪いわけではないんだけれども、まだ社会が未成熟だったので、女性が仕事をする環境が整っていなかった。それは私にとっては生きづらかった。
こんなに仕事を頑張ってプロジェクトのチーフとかサブチーフをしているのに、後から入ってきた男性が私たちをひょいと追い抜いていく。それがやっぱり理不尽ですよね。理不尽だけど、それが普通だった。
バリバリ仕事をしている上司の女性に『女を捨てている』という陰口を叩く人たちもいて。当時は、セクハラという言葉もパワハラという言葉もなかったので、それもスルーするというのが大人の対応だったんですよね。
そんなこんなで十二指腸潰瘍になって、やっぱり私には組織は向いてないなって思って。私も若くて青かったので、私ひとりが辞めたぐらいでどうってことないんですよ。私ひとりが辞めてどうにかなるような組織だったら、もう危うくて危なくていられないはずなのに、本当に考えが甘かったので、『季節労働者』になりたいと思って辞めちゃったんです。
失業保険とか、ちょっとしたお手伝いのアルバイトみたいな感じでのんびりやっていたんですけど、タレントオーディションを見に行くことになって。
当時はバブルだったので、私はすごい派手だったんです。その頃の写真を見たら、『コイツ勘違いしてんな!』って感じなんですよ(笑)」
――可愛いし、目立ちますよね
「人生で1番ナンパされたときでした(笑)。目立っていたのでステージにあげられちゃって。これはシラケさせてはいけないというサービス精神で盛り上げたんですよ。そうしたら、芸能界の道ができてしまったんです。
審査員の皆さんがテレビ局とか制作会社のプロデューサーだったので、この子面白いって言ってすぐにテレビ番組のリポーターの話が来て。次の雪が降るまでと思って、本当にアルバイト感覚で始めたという感じです」
■「猛獣使いでお願いします」って(笑)
1987年、「金子信雄の楽しい夕食」に初代アシスタントとして出演して大ブレイク。「ゲーム数字でQ」(NHK)、「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)、映画「必殺!主水死す」(貞永方久監督)、「温泉若おかみの殺人推理」シリーズ(テレビ朝日系)などに出演。主演ドラマだけで100本以上になる。
――デビューされてからすごい勢いでいろいろな番組に出演されることに
「はい。それまで裏方的な仕事をしていたので、最初のリポーターの仕事は淡路島だったんですけど、淡路島のガイドブックを3冊買って読破しました。要は何を伝えたいか、それにどういうアクセサリーをつけて、遊びの部分をつけるか考えてリポートしたら、初めてとは思えないと言われて仕事が仕事を呼ぶことに」
――その頃から、プロデュース能力があったのですね
「会社員時代がプロデューサーという名じゃないけれども、企画を出さないと査定に響いたんですよ。女子社員もコピーとかお茶くみをしちゃダメ、企画を出しなさいっていう会社だったんです」
――翌年には「金子信雄の楽しい夕食」に出演されて
「そうですね。その前にも、西日本の帯番組、月曜から金曜までの全国放送の番組の司会に抜擢されてしまっているんですよね。なので、勉強する暇なく、どんどんテレビに出てしまったという感じでした」
――毎週月曜日から金曜日まで放送の15分間の帯番組で、キュートなルックスと、ちょっときわどいことを言われても臨機応変に対応する様が話題になりました
「『猛獣使い』って言われました(笑)。あの番組は台本もなかったんですけど、『オープニングで笑いを取って。よろしく!』とか、本当にたくましく育てられて。
マネジャーはつけてもらえなかったので、ロケにもひとりで行っていたし、全てが研修みたいな感じだったんですよね。本当にすごい鍛えられました。だから、ロケ先でも撮影機材を
運んだり…それが当たり前だと思っていました。みんなで一つのVTRを作るという感じで育ったので」
――金子さんとの番組は、月金の帯でしたが、どのように収録していたのですか
「月に2回で10本撮りをしていました。朝から晩まで作って食べる、作って食べるという感じで。私なんて無名なのに番組で料理を紹介したり、金子先生とやり取りをするので、これでウケなかったら辞めてやると本当に思っていました。
私の味方は誰もいなかったので、カメラに向かって視聴者の皆さんに問いかける、これでやっていくしかないなっていう感じでしたね」
――結果的にその思いが視聴者の皆さんに伝わってブレイクして、多くの番組に
出演されることに
「そうですね、すごくありがたかったです。台本はあるけれども、読んでくれない大御所タレントさんたちばかりだったので、本当に『猛獣使い』って言われたんですよ。『今日も大スターさんにはのびのびと遊んでもらうよう仕切ってください』、『猛獣使いでお願いします』って(笑)」
――拝見していて臨機応変、すごく勘のいい方だなと思いました
「怖さを知らなかったんですね、多分」
――「お嫁さんにしたい女優No.1」と称されていたことについてはいかがでした?
「28とか29歳だったんですよね。あの時代、28、9でそういうふうにキャッチーな言葉をつけてもらうというのは不思議な感じがしました。複雑でしたね。
そういうキャッチーなコピーをつけていただいたことはとてもありがたいけれども、『お嫁さんになりたい人がこの業界に入ってるわけがないじゃん』って思っていました(笑)。『お嫁さんって何だろう?』って。だったら、“妻”とか“パートナー”って言われる方がうれしいなって」
――バラエティー番組、報道番組、ドラマなど幅広いジャンルで活動されていますね
「そうですね。なので、『肩書きはどうしますか?』って聞かれていつも困っていました。すべてにおいて、そんな大それた肩書きは言えないと私は思っていたんですね。
女優にしても俳優にしても、MCだとか…本当に肩書きはご自由にお願いしますって言っていたんです。何か全てのジャンルに申し訳ないっていう気持ちでした」
――バラエティー番組や情報番組も複数年ですし、ドラマもシリーズ化されている作品も多いので、どのジャンルもちゃんとやられていて
「一生懸命やっていたんだけど、器用貧乏になるというか。搾取されて、使い捨てにされてカスカスになるんじゃないのかなって。空っぽになるんじゃないのかなという恐怖がありましたね」
東さんの不安をよそに仕事のオファーは続き、常に複数の台本を抱えている状態に。次回は撮影エピソード、30年以上続けている社会活動なども紹介。(津島令子)
※東ちづるプロフィル
広島県出身。俳優・タレントとして多くのドラマ、映画、情報番組、バラエティー番組に出演。2012年、エンタメを通じて誰も排除しない“まぜこぜの社会”を目指す、一般社団法人「Get in touch」を設立。2021年、オリンピックパラリンピック公式映像「MAZEKOZE アイランドツアー」を総指揮。2024年、映画「まぜこぜ一座殺人事件〜まつりのあとのあとのまつり〜」(齊藤雄基監督)を企画・構成・プロデュース・出演(Amazonプライム他で配信中)。9月25日(木)〜10月1日(水)まで京王百貨店聖蹟桜ヶ丘店で「東ちづるポップアート〜妖怪まぜこぜ原画展〜」を開催。自ら描いた妖怪61体を社会風刺豊かに解説した著書「妖怪魔混大百科」を基に、ドイツのぬいぐるみブランドNICIとコラボした妖怪マスコットを発売中。2026年1月に映画「愛のごとく」の公開が控えている。
ヘアメイク:島田万貴子