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2025年10月31日 13:24

ダイアモンド☆ユカイ 音楽にハマったのは野球で骨折したのがきっかけ「男の長髪なんて嫌いだったんだよね(笑)」

ダイアモンド☆ユカイ 音楽にハマったのは野球で骨折したのがきっかけ「男の長髪なんて嫌いだったんだよね(笑)」
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1985年、伝説のロックバンド「RED WARRIORS(レッド・ウォーリアーズ)」のボーカルとしてデビューしたダイアモンド☆ユカイさん。1987年にはハリウッド映画「TOKYO POP」(フラン・ルーベル・クズイ監督)に主演。バンド解散後はソロ活動も開始し、バラエティ番組、映画など幅広い分野で活躍。2011年、体外受精によって長女と双子の息子を授かったことを公表。自身の不妊治療の体験を綴った「タネナシ。」(講談社)を出版して話題に。11月14日(金)より主演ロックミュージカル「劇場版 ロッキンミュージカル シン・シャドウブラウン&ブラックパイレーツの冒険」が全国順次公開されるダイアモンド☆ユカイさんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

■ザ・ビートルズを聴いて稲妻に打たれた

東京で生まれ育ったユカイさんは、中学時代は野球部に所属していたが、2年生の時にデッドボールでかかとを骨折。友だちがクイーン、ディープ・パープル、ザ・ビートルズなどのレコードをお見舞いに持って来てくれたことが音楽との出会いだったという。

「それまで音楽に興味がないわけじゃないけど、こういった類の音楽には全然触れてなかった。だから野球で骨折したおかげで、音楽との出会いがあって…本当に縁だなっていうか。自分では音楽だと思ってなかったからね、ロックは。

俺たちの時代は歌謡曲が全盛の時代で、レコード大賞受賞曲とかは、みんなソラで歌えるような時代だったから、そういうのは見ていたけどね。

当時はもうビートルズも解散していて、巷では、クイーンとかKISS、ベイ・シティ・ローラーズなんかが流行(はや)っていて、多感な人はそういう音楽を聴いていたんだよね。

俺は全く興味がなかったから野球をやっていたんだけど、骨折して野球ができなくなって、

その時に、近所のちょっと不良っぽい友だちがレコードをいっぱい持って来てくれました。当時はレコードだったからLPレコードを抱えて持ってきてくれて。その中にビートルズとかクイーン、KISS、ディープ・パープルとかが入っていたんだけどさ。俺は長髪が嫌いだったんだよね(笑)。気持ち悪いって」

――長髪はユカイさんのトレードマークじゃないですか

「そう。今やね(笑)。でも、当時は男が長髪なんて…という感じでロックミュージックとは無縁の少年だったんだよね。

ビートルズも髪の毛は長いんだけど、『クイーン』とか『KISS』のように野獣みたいな長さとは別で爽やかだったから、これだったら聞いてもいいなって思って。聴いたら稲妻に打たれた。最初は(骨折して)暇だったから聴いていたんだけど、聴いているうちに体が弾んできちゃってさ、『何だ?これは楽しいな』みたいな(笑)。

で、最後、ジョン・レノンのシャウトになった時に、『何だ?叫んでいるよ、この音楽』って思って。そこから学校から帰って来ると毎日ビートルズを聴くようになって…ハマっちゃった。何か楽しそうじゃない?

それで、俺もやってみたいなと思って、おふくろにギターを買ってもらって見様見真似でやりだしたんだけど、おふくろが買ってくれたギターは、ガットギター、クラシックギターだったんだよね(笑)。

近所にギターが弾けるお兄ちゃんがいて、どうやれば弾けるのか教えてもらったら、それがガットギターをやっているお兄ちゃんでさ、『禁じられた遊び』とか、そういうのを弾くわけよ。『アルハンブラの思い出』とかね。

確かにいいんだけどさ、これは俺のやりたい音楽じゃないなと思って(笑)。そんなお門違いのところから始まった。そのぐらい音楽に疎(うと)かったんだよね。そういうのが好きな友だちとかも周りに何人かしかいなかったけど、出会って弾き方を覚えていって」

――骨折が治っても、もう野球どころじゃないという感じですか?

「そうだね。もう『ビートルズになりたい』みたいな。ガラッと人生が変わったね。中学の時にバンドを組もうと思ったんだけど、なかなかそういういいメンバーがいなくてさ。

ギターを持っているやつもいたんだけど、そういうやつらはもっと長けていたというか。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドとか、キャロルとか、割とエレキギターを弾いて、不良リーゼントにして…というのがいたわけで。俺はそこまで不良じゃなかったから、そこには混じれないし。

それと、今度はフォーク、かぐや姫とか、吉田拓郎とか、そういう類の人たちが集まっていて、それも楽しそうなんだけど、自分のやりたい音楽じゃないな…みたいな。しょうがないから、ひとりでアコースティックギターでいろいろやっていたね」

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■ミュージシャンになることは考えていなかった

中学時代に音楽と出会い、高校時代からバンドを組んだりしていたが、ミュージシャンになることは考えていなかったという。

「全然なかった。俺たちの中学時代は今と違って、いい高校、いい大学に入って、いいところに就職して一丁上がり…みたいな感じだったからさ。そこから外れる人間はみんなアウトロー、そんな時代だったからね。俺の両親は二人とも公務員で、俺はひとりっ子だったから、公務員になることが一番幸せなんだみたいな感じで」

――「徹子の部屋」(テレビ朝日系)でお写真を拝見しましたが、お父さまは、作家の先生みたいですよね。

「そうそう。文壇のね(笑)。カッコだけはいいんだよ。でも、無口で神経質で、ある意味変わった人だったよ。

おやじとは年齢がめちゃくちゃ離れていて。俺も自分の子どもたちと離れているんだけどね、40代の時にできた子だからさ。でも、当時としてみれば、やっぱりおじいさんみたいな感覚だよね。大正生まれだったし。おやじはふんどしを締めていたからね。

あまりおやじの素性とかは聞いてなかったんだけど、うちはおじいさんの代よりずっと前から『能』の先生で、おやじも習っていたみたい。跡継ぎを決めるために、兄弟みんな習わされていたみたいなんだよね。

おやじは『サザエさん』のマスオさんみたいなタイプなんだけど、俺が高校の時、無口で静かなおやじが突然、謡(うたい=能の声楽)みたいなのを謡ってくれてさ、めちゃくちゃ上手くてね。すごいなあと思ってビックリした」

――ユカイさんの声の良さとか音域の広さは、お父さま譲りなのでしょうね

「どうだろうね。おじいさんには似ているって言われたけどね。どっちかというと、おやじはもっとか細い感じ。音楽は、バイオリンもやったことがあったようなことを後で聞いたけど、そういった過去のことは一切話してくれなかったね」

――ユカイさんがお家でギターを弾いたりすることに関しては?

「時々、『もっと足でこうやってリズムをとって、ギターを弾いたほうがいいよ』なんて言うんだけど、『何も知らないのに何を言っているんだよ、おやじは』って感じだったよね(笑)」

――ロックをやられる方はよく学生時代不良だったとおっしゃいますが

「そうだよね。俺はそれと180度違うんだよ。逆のパターン。ロックをやって不良になった感じだね(笑)。大体は、悪かったやつが音楽に目覚めて更生していくと言ったらおかしいけど、ミュージシャンになっていくというイメージがあったよね。

ロックのカッコいいところが、ちょっと不良っぽいところっていうかね。そういうのを感じるものがあったのかな。だから、今思うと、その決められていた不良っぽいところっていうカテゴリーを全部ぶち壊していくというか、そういった無謀なところを見てカッコいいと思っていたんだろうね。表面的なカッコよさみたいなのも、もちろん重要だけどね」

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■ロックバンド「RED WARRIORS」結成!デビュー2年目で武道館公演も

1985年、ロックバンド「RED WARRIORS」を結成し、1986年にデビュー。1988年には初の日本武道館公演を行い話題に。

――デビューして2年で武道館公演もされました

「どこから数えるかということなんだけど、中学2年の時にこれだと思って雷に打たれてさ。でも、自分で気づかずに高校生になってバンドを組んで、『バンドいいな』みたいな。

で、大学にも行っているからね、5年も(笑)。そう考えると、高校でバンドを組んで8年ぐらい、ずっとウダウダしていたのよ。『俺って何をやればいいんだろう?』みたいな感じで。

それで、『やっぱりバンドだよな』って思ったのが、約10年後ぐらいだからさ。そう思うと、10年間無駄な時を過ごしていたということになるのかもしれないね。

そういうのがあって、『RED WARRIORS』としてデビューだから、結構長い道のりだった。親には感謝なんだけどさ。何も働かないで勝手なことができたからね。でも、普通の生活をやっていくのが、自分にとってはものすごく苦痛だったね。

好きな音楽をやっていただけだから恵まれていたんだよね。家はちゃんとあるし、ある意味パラサイトみたいなものだよ。家に帰ればうなぎも食えるしさ。おやじは俺がデビューする前に亡くなっちゃったけど、自由にしていられたというか。

そこは今思うと感謝だね。恵まれた状況にあって好きな音楽をやっていられたわけだから。あと、不器用だったというのがあった。あれもこれもみたいなのはできないっていうかさ」

――ユカイさんは、いろんなことができる方というイメージがありますけど

「いろんなことをやっているだけで、実はできていないんだよ。楽しんではやっているけど、どれもこれも全然ね。不器用ですよ。しんどいことも多々あった。バンドでデビューする前におやじが亡くなって。それだけでも自分の中では大きなショックだったけどね、22歳の時だったから。

そこから夢が叶って。一気に武道館とかバーッとやってさ。俺たちのやりたい音楽をやっているだけなのにこんなにいっぱい人が来て…全然実感はなかったけど、気がついたらロックスターになっていてさ。ロックの時代がやって来ていたんだよね。

そこで多くを求めないというかさ。何だかそれが自然な感じで、ずっとそのまままた生きちゃってね。でも、つらいことが多かったね、バンドが成功しても。それはどうしてかというと、今振り返っていきなり究極の答えになっちゃうんだけどさ、自分がいつも自虐的だったからなんだよ」

――それはどうしてですか?

「何でだろうね?自分をいつも肯定できないというか、自己肯定感が薄っぺらい男っていうか。あまり満足していない。それはずっと、何十年も気づかずに『こんなに恵まれているのに、何で俺は苦しいんだろう?』って。その中でも、いろんな問題が起きたりとかするわけじゃない。だから苦しかった、本当に」

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■日米合作ハリウッド映画に主演することに

「RED WARRIORS」のボーカルとしてデビューした翌年には、ハリウッド映画「TOKYO POP」(フラン・ルーベル・クズイ監督)に主演。この作品は、音楽を中心にアメリカ人の女性・ウエンディー(キャリー・ハミルトン)とロックバンドのボーカルの日本人青年・ヒロ(田所豊=現:ダイアモンド☆ユカイ)との交流がラブストーリーに発展していく様を描いたもの。

「あれも縁なんだけど、今でも付き合いがあって、『ニューヨークのママ』って呼んでいる

フランさんが、日本人の旦那さんと出会うことによって日本という国の素晴らしさみたいなのを知って。

映画人だからその自分のストーリーの映画をいつか作ってみたいと思ってずっと温めていた企画で、それが実現するという時期で、主演になる男の子をずっと探していたみたいで。

色んな人たちがいたみたいだよ。当時結構売れていたアイドルとかが候補だった中で、海のものとも山のものともつかないような、まだアマチュアだった『RED WARRIORS』のライブを見に来て決めてくれて。縁だよね」

――いきなりハリウッド映画の主演だと聞いた時はどうでした?

「全然実感はないんだけど、面白そうだね…みたいなさ(笑)。アメリカ映画と言ってもインディペンデント映画。日本と比べると規模はでかかったけどね。みんなすごいパワーがあるスタッフの人たちで、外国のスタッフはジム・ジャームッシュ監督とかと仕事をしていて、片や日本はそれこそ松田優作さんの映画を作っているようなスタッフで、『頭を蹴っ飛ばされた』とか話している。

そういうスタッフたちが混合になって作っているから、映画ってすごく人間的な作り方をしているんだなあって。でも、人間同士のエネルギーの爆発というか、すごく楽しかったね。

相手役の女の子、キャリー・ハミルトンはもう亡くなっちゃったけど、ふだつきな不良だったらしい。お母さんは、キャロル・バーネットというアメリカではものすごく有名な女優で今も92歳で健在なんだけどね。

その娘で、『アメリカの積木くずし』と呼ばれていたくらいドラッグとかもバンバンやりまくっていた不良だったんだけど、更生して女優になったって。でも、実は女優よりもミュージシャンになりたいって言って、背中にデカいユリのタトゥーをしていたからね。そんなような子だよ。

撮影は東京で2カ月ぐらいやっていたんだけど、その間ずっと一緒だったから、仲良くなってアメリカ人の文化へのカルチャーショックとアーティスティックな姿勢にものすごく影響を受けた」

――俳優業に関してはどのように思っていました?

「好きだったからね。当時日本では、型にはまった演技みたいなのが主流だったんだけど、ニューヨークの方はメソッド演技が主流になってきていて、そういうことをイチからフラン(監督)が教えてくれた。

もっと自然に喋るように、普通に話しているような会話、みんなそういう演技をするんだよって。だから、演技をしている感覚はなかった。相手役のキャリーも、全部導いてくれるんだよね。

英語と日本語の両方使うんだけど、普段一緒にいる時から会話しているからさ。それの延長みたいな感じですごく評判が良かったみたい。だから、今でも『TOKYO POP』は幻の映画じゃないけど、去年もアメリカで上映されたりして文化的な映画になっちゃったみたいね」

――俳優としての最初の作品がその映画で良かったですね

「そうだね。日本はロックミュージシャンで役者になる人っていっぱいいるじゃない。だから、俺もその道に行くのかなって思ったけど、俺は行けなかったね。映画とかには何本か出ているけどね」

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■「RED WARRIORS」解散!自分が好きなことを勝手にできると思っていたが…

デビューして3年目、1989年に「RED WARRIORS」が解散。ソロで活動することに。

「おやじが死んでからバンドを組んで、あれよあれよという間に人気が出ていったんだけど、俺は雲の上を歩いているような感じで現実感は全くなかった。毎日かなり忙しかったけど、雲の上にいてこなしていた感じ。

40年前ぐらいからずっとそんな感じだね。あまり現実の中に生きている感覚は未だにないかもしれない。ずっと夢の中を生きているような感覚だね。だから解散した時は、『なるほど、解散か』みたいな感じで」

――3年で解散というのは早かったですね

「そうだね。でも、いいバンドはみんな早く解散するというのもあるから、いいバンドだったのか…みたいなね」

――ある意味、それで伝説になるみたいなところもあったりしますが

「どうなんだろうね。うまくいけばそうなのかもしれないね。でも、俺たちの場合はロックが好きでさ。自分の思惑とはまた違うところで日本のエンターテインメントとの戦いみたいなのはずっとあったね」

――解散後はすぐにソロでと考えていたのですか

「そうだね。バンドを解散した後、これで自分が好きなことを勝手にできるのかと思って。

やっぱりバンドだとメンバーもいるから、自分の思う通りにはいかない部分があるって思っていたんだけどね。いざ蓋(ふた)を開けてみると、ソロの方が大変だったというか。

自分で何でもやろうとすると求められるものも多いしね。だから、自分で何でもやろうとしちゃったんだよね。曲も作るし、アレンジもするし、プロデュースも考える。全部自分でやろう、それがソロだ…みたいなね。

矢沢永吉さんみたいなのが、やっぱり一番理想なのかなって思っていたんだけど、実際にやってみると大きな勘違いだったよね。曲もろくに作れないし、プロデュースなんか金勘定が全くわからないし…ソロって大変だなって」

解散した翌年、1990年には「I’M THE BEST -世界の女は俺のもの-」でソロデビュー。1996年には、SABU監督デビュー映画「弾丸ランナー」に出演。ミュージシャンとしてだけでなく、俳優、声優、ナレーター、タレントとして活動の場を広げていく。次回は撮影エピソード、バラエティ番組出演、不妊治療についても紹介。(津島令子)

※ダイアモンド☆ユカイプロフィル

1962年3月12日生まれ。東京都出身。1986年、ロックバンド「RED WARRIORS」のボーカルとしてデビュー。1989年、「RED WARRIORS」解散後、ソロとして活動。映画「ハートブレイカー 弾丸より愛をこめて」(小松壮一郎監督)、映画「弾丸ランナー」、映画「ロスト・イン・トランスレーション」(ソフィア・コッポラ監督)、舞台「ミス・サイゴン」などに出演。不妊治療を受けて2男1女に恵まれたことも話題に。自身の体験を記した著書「タネナシ。」も出版。男性不妊治療の啓発活動も積極的に展開している。主演ロックミュージカル「劇場版 ロッキンミュージカル シン・シャドウブラウン&ブラックパイレーツの冒険」の公開が11月14日(金)に控えている。

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