1989年に芸能界デビューし、俳優、歌手、脚本家、作家、情報番組のコメンテーターなど幅広い分野で活躍している中江有里さん。映画「ふたり」(大林宣彦監督)、映画「ひめゆりの塔」(神山征二郎監督)、連続テレビ小説「走らんか!」(NHK)、「サンデーモーニング」(TBS系)などに出演。映画「風の歌が聴きたい」(大林宣彦監督)以来、26年ぶりとなる主演映画「道草キッチン」(白羽弥仁監督)が11月22日(土)に公開される中江有里さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■母が毎晩9時にかけてくれる電話に支えられ
大阪で生まれ育った中江さんは、小さい頃は内向的で大人しい子どもで本読むことが大好きだったという。
「昔から文字があると読まずにいられないというようなところがあって、それが高じて本を読むようになって、それで書くようになったというか。本を読むうちに、自分もこういうのを書いてみたいなという欲求が出てきて。自分もこういうことができたらいいなって思うようになりました」
――お芝居がしたいとか、俳優になりたいという思いは?
「なかったですね。私は、人前に出るのがすごく苦手だったんです。声が出なくなっちゃうんですよ。だから、なるべく目立たないようにしていたいと思っていました」
――学芸会などではどのようにされていたのですか?
「通行人Aとか影絵の犬を動かすだけというようなことをやっていました(笑)。本当に苦手だったんですよ、そういうところに出るのが。でも、創ることは好きだったので憧れはありました」
小学校4年生の時に両親が離婚。中江さんは、お母さまと四つ下の妹さんと暮らすことに。
「世の中ではありふれたことですけれども、まさか自分の身の上に起きるとは想像しませんでした。家族が別れるということは大変なことですよね。父と暮らすのか、母と暮らすのかと聞かれても、そんなのすぐには決められないという感じでしたからね、その時は」
――オーディションに最初に応募されたのは?
「伯母です。うちの伯母は、女優になりたかった人なので応募しても別におかしくはないなと思いましたけど。そのオーディションで最終選考まで残ると思ってなかったので、その時に初めて自分もそういう可能性があるのかなって思いました。
それがきっかけですね。それからちょっと自分でオーディションを応募してみたんです。何か今のこの人生を変えるのだったら、そういうことが一つの手段になるのかなと思って」
――実際の年齢より早く大人になったというか、自立することに
「そうですね。早く自立したいという気持ちはありました。あまり母に負担をかけたくないというのもあったので、私が自立すれば随分楽にはなるだろうなと思っていました」
1989年、アイドル雑誌の美少女コンテストで優勝したことをきっかけに、高校1年生だった15歳の時に単身、大阪から上京することに。
――まだ15歳の子どもにとって大阪から東京は遠いですよね
「遠いです。今よりずっと遠く感じましたね。連絡だって今みたいにLINEとか、そういうのがあるわけじゃないから、電話代もすごく高くて、毎晩9時に電話がかかってきていました。9時になると割引になって値段が下がるので、9時になると電話かかってくるという、そんな感じの毎日でしたね」
――上京されてすぐにいろいろな作品に出演されるようになったのだと思っていましたが、そうではなかったのですね
「全然です。オーディションを受けては落ちていました。最初の半年近くは全然受からなくて。事務所の人も失敗したと思っていたんじゃないかなって(笑)。
そもそもあまり自分は人前に出る仕事に向いてないんじゃないかなと思っていた部分はあるんですよね。だから、どこかで自信がないんですよ、ずっと。自信がないから、そりゃしょうがないよなっていう気持ちもあって。オーディションに行く人たちは、みんなやっぱりやる気に満ちていましたから」
――ガツガツしていたという感じですか?
「そうですね。ガツガツという言葉がふさわしいのかもしれないです。やっぱり作り手としてはそっちの方がアピール度も高いだろうなと思いましたけど、私はそういうことが全然できなかったので。
ただ、このままいったら大阪に帰されちゃうかもしれないなって。野球で言うと、来季戦力外みたいになっちゃうとまずいなとは思っていました」
■尾道での撮影は楽しい夏休みのようだった
1991年、映画「ふたり」、映画「リトル・シンドバッド 小さな冒険者たち」(花田深監督)に出演。さらに「花をください」で歌手デビューも果たす。
映画「ふたり」は、尾道を舞台に、亡き姉・千津子(中嶋朋子)の幽霊に見守られながら成長していく14歳の少女・実加(石田ひかり)の姿を描いたもの。中江さんは、実加のクラスメイトの前野万里子役を演じた。
「公開は『ふたり』が先なんですけど、最初に撮ったのは『リトル・シンドバッド〜』でした。その後に『ふたり』のオーディションに受かって。結果的にはスクリーンデビューは『ふたり』という形になりました」
――大林監督のオーディションはいかがでした?
「それまでも色々なオーディションには行っていたのですが、それまでとは全然違うオーディションでした。セリフを読むわけでもなく、自己紹介するとか、そういう何かをやれということもなくて。ただ、会議室の中で助監督さんと喋っているだけなんです。
監督は周りをグルグル回りながら見ているんです。横顔とかいろいろ全部見ていて。何で見られているのかよくわからなかったんですけど、助監督さんと何か話をして、『じゃあ、はい、大丈夫です』みたいな感じで。
それで帰る時に、監督が『どうもありがとう』と言って握手をしてくださったんですね。監督はいつも握手をされるんですけど。決まったと知らされたのは、割とすぐでした。
オーディションの前から、周りの方に、『大林さんに会わせたらどう?』というアドバイスはマネジャーさん経由であったみたいなんですけど、私が大林監督の映画を見たことがなかったんです。何も知らないのに会いに行ったので、今考えたら本当に失礼でした」
――撮影はいかがでした?
「楽しかったです。困ったことがほとんど何もなくて、暑かったことぐらいですね。石田ひかりちゃんとか中嶋朋子さん、同世代の女の子たちと一緒にひと夏楽しく修学旅行をしていたら、すごい映画が出来上がっていた…みたいな感じでした。
完成披露試写会の時にスクリーンで見て、『何かすごいところに出てしまった』と思って衝撃を受けたのは覚えています」
――中江さんは石田さんのクラスメイトで優等生の役でしたね
「はい。でも、裏側はみんなめっちゃ楽しくやっていたので、全然撮影自体の記憶がないです(笑)。ただただ楽しくやっていたというか、みんな仲良くしていて。
監督もすごく優しかったから全然怒られたこともなくて。そういう意味で、本当に楽しい夏休みを尾道で過ごしたら、すごい映画ができていて、『どうしよう?』という感じでした(笑)」
――それから割とすぐに歌手デビューもされましたね
「そうですね。『ふたり』の時には歌手デビューが決まっていたので、何かいきなり動き出すものなんだなという感じでした。それまでほとんど何もやってなかったのに、突然という感じですよね。目まぐるしかったです」
――歌手デビューのお話を聞いた時はどう思いました?
「嬉しかったです。歌はもともと好きだったので、歌ってみたいという気持ちはありました。
ただ、それが仕事として歌うのと、ただ歌うのは全然違うものなので、歌手として歌うということがこんなに大変なのかという現実にぶつかって。
東京に出てきた時からずっとお芝居と歌のレッスンは続けていたのですが、ただ好きに歌うのと、歌手として歌うのは全然違うということは分かっていましたし、そんなすぐにその機会が来るとは思っていませんでした。でも、うちの母は、昔歌手になりたかった人なのですごく喜んでいました」
――歌番組にも結構出演されたのですか
「私がデビューした年ぐらいからだんだん歌番組がなくなってきたんですよ。それこそ『ザ・ベストテン』(TBS系)が終わった年で、『歌のトップテン』(日本テレビ系)も次の年に終わって。
『冬の時代』ってよく言われるんですよ。その当時はそんなこと感じてなかったけど、今振り返ると確かに冬の時代と言われるものかもしれません。だから歌番組で歌った記憶というのはあまりないです。何回かはありますけど、すごく少ないです」
■初主演の連続ドラマクランクアップ後、入院することに
歌手活動と並行して、「綺麗になりたい」(日本テレビ系)で連続ドラマ初主演。挿入歌も歌うことに。このドラマは、新米エステティシャン・朝山風子(中江有里)が幼少期に別れた父(鹿賀丈史)の経営するエステサロンで働くことになり、仲間からのいじめや客からのいびりに耐えながら成長していく様を描いたもの。
「17〜19歳の頃は、全然休みがなかったです。当時は高校生でしたけど、高校になかなか行けなくて。『奇跡の山さよなら、名犬平治』(水島総監督)という映画に出た時は、大分の九重連山ロケで本当に高校に行けなくて。
結果的には、留年システムがない学校だったので退学することになるのですが、大阪時代から含めて三つ目の高校だったんですよね。女子校、夜間、昼間の定時制という三つの高校を経て、最後の望みをかけて通信制に編入して。そこに週に1回行くことになったのですが、その週1回行くのが大変でした、その時は。
いっそ高校を諦めてしまえば楽になれるし、周りにも迷惑かけなくて済むなと思う一方で、学校に行くというか、学生である時間を自ら放棄したらいけないんじゃないかなって、どこかでそういう意地があったんですよね。
なので、とにかく可能性がある限りは頑張って行ってみようと思いました。試験は絶対に受けなきゃいけなかったので、どうしても試験だけ受けさせてほしいと言ったんですけど、撮影は待ってくれません。
そこでマネジャーさんが交渉して試験の前に撮影したんですよ(笑)。朝5時頃集合して撮影をして、ちょうど7時、8時前ぐらいに撮影が終わって、そのまま電車に乗って学校に行くという感じで。
帰る時にスタッフの方が、『今日は何でこんなに早いんだ?』と言っているのが聞こえてきて、申し訳ないな、私のせいですと思いながら、満員電車に乗って学校に向かって試験を受けて、そのおかげで何とか卒業できました」
――皆さん協力してくれて良かったですよね
「本当に助かりました。無理をしないと卒業できなかったと思います。ある意味意地もあって、何とか卒業したいという気持ちもあって、結果的には5年かかって卒業しました。
結構大変でしたけど、そういうことは全然無駄にならないんですよね。四つの高校に行って5年もかけて卒業するなんて、滅多にできる経験じゃないから、そんなに悲観してなかったですね」
――「綺麗になりたい」をクランクアップしてから急性胃腸炎で入院されたとか
「その当時は、年末になると1年の疲れが出て急に気が緩むみたいで、毎年胃痛でダウンしました。入院したのは1回ですけど、実は病院に運ばれたことは、それ以外に2回ぐらいあります。毎年、年末に実家に帰ったらそのままお腹(なか)が痛くなって病院に…みたいな(笑)。だから、当時は年末が怖かったですね」
――それだけものすごく無理して頑張っていたのでしょうね
「そうですね。若かったから何とか乗り越えられたのだと思います」
■西田敏行さんは本当に先生のようだった
1993年、映画「学校」(山田洋次監督)に出演。この作品は、東京・下町の夜間中学校を舞台に様々な境遇を持つ生徒たちと先生(西田敏行)との交流を描いたもの。中江さんは、
元登校拒否児だったが、テレビのCMで夜間中学のことを知り、自ら入学を希望した三宅江利子役。以前は無口で暗い女の子だったが、あかるく優しい優等生タイプに変わっていく。
――いろいろな経験は無駄にならないとおっしゃっていましたが、「学校」では夜間中学校が舞台でそこに通う生徒役でしたね
「そうです。夜間高校もそうですし、通信制高校もすごいいろんな方がいるんですよ。全日制の高校に行くのとは全然違う体験というか、いろんな人との出会いがあるので、そこは本当に自分が実生活で経験していたことというのは、その役柄を演じる時にもすごく参考になりました」
――主人公の先生役は西田敏行さん。現場ではどのような感じでした?
「西田さんは、撮影以外でも本当に先生のようで包み込んでくれるような方でした。考えてみたらご一緒させていただいた時は、今の私より少し若いぐらいの年齢で40代だったんですよね。この映画に対する意気込みも持っていらっしゃいました。複雑な背景がある生徒を受け持つ先生ですから。
生徒役は、私も含め、萩原聖人さん、裕木奈江さんや他の少人数ですからね。奈良に修学旅行のシーンで行った時は、親睦を深めようということで、西田さんが小さなお店を貸し切ってくださって。
スタッフとか監督じゃなくて、生徒たちと(先生役の)竹下景子さんもいらっしゃったと思うんですけど、集まって役者だけで会合をしていただいて。そこで西田さんが『もしもピアノが弾けたなら』を歌って下さったことは、もう生涯忘れられないです。生で聞かせてもらいました。西田さんは本当にあったかくて優しい方でしたね」
――西田さんとお仕事をされた方は皆さん西田さんのことが大好きになりますね
「そうですね。みんなが好きになっちゃうのがとてもよくわかります。西田さんのお別れ会にも参列させていただきました。私は、西田さんとは『学校』の後に、大河ドラマ『葵 〜徳川三代〜』(NHK)でほんの少しだけご一緒させていただいて。
ここ20年ほどお目にかかる機会はなかったのですが、案内状を送って下さって。そういうところが西田さんも含め、西田さんの周りの方々も本当に義理堅いなと思いました。お別れはちゃんとしたいなと思って伺わせていただきましたけど、まだ信じられないです」
1995年、連続テレビ小説「走らんか!」、映画「ひめゆりの塔」などに出演。1997年、「サンデーモーニング」(TBS系)のキャスターに就任。2002年には、初めて書いた脚本が「第23回BKラジオドラマ脚本賞」(NHK大阪放送局主催)で入選し「FMシアター」で放送。脚本家としても活動することになり、活躍の場が広がって行くことに。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※中江有里(なかえ・ゆり)プロフィル
俳優・作家・歌手。1973年大阪府生まれ。法政大学卒。1989年芸能界デビュー。NHK朝の連続テレビ小説「走らんか!」ヒロイン、映画「学校」などに出演。「週刊ブックレビュー」(NHK BS2)で長年司会を務めた。著書に「水の月」(潮出版社)、「愛するということは」(新潮社)、「万葉と沙羅」(文藝春秋)などがある。読書好きで知られ、本にまつわる講演やエッセー、書評を多く手がける。歌手としては、松本俊明氏とのユニット「スピン」を結成、2025年7月に「それぞれの地図」を配信リリース。2025年11月22日(土)より主演映画「道草キッチン」が公開。文化庁文化審議会委員。
ヘアメイク:丸山智美





