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2025年11月14日 12:21

中江有里 15歳でデビューして9年目に決断!「このままでは自分が嫌になる!」とレールを降りることに…

中江有里 15歳でデビューして9年目に決断!「このままでは自分が嫌になる!」とレールを降りることに…
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15歳で芸能界デビューし、俳優、歌手、脚本家、作家、キャスター、情報番組のコメンテーターなど幅広い分野で活躍している中江有里さん。連続テレビ小説「走らんか!」(NHK)、映画「ひめゆりの塔」(神山征二郎監督)、映画「風の歌が聴きたい」(大林宣彦監督)、「週刊ブックレビュー」(NHK BS2)などに出演。2002年、初めて書いた脚本が「第23回BKラジオドラマ脚本賞」(NHK大阪放送局主催)で入選し、「FMシアター」(NHK-FM)で放送。11月22日(土)に主演映画「道草キッチン」(白羽弥仁監督)の公開が控えている。(この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧になれます)

■朝ドラのオーディションは本格的なセッティングで

1992年、「綺麗になりたい」(日本テレビ系)で連続ドラマ初主演も果たした中江さんは、1995年、連続テレビ小説「走らんか!」に出演。このドラマは、主人公・汐(三国一夫)がヒロインで同級生の美樹(中江有里)や真理(菅野美穂)をはじめとする周囲の人々と、進路や恋愛に悩みながらもともに成長していく姿を描いたもの。

中江さんは、阪神・淡路大震災で親友を失った悲しみを抱えて神戸から汐たちの通学する学校に転校して来た今宮美樹役を演じた。

――オーディションはどんな感じでした?

「台本をもらってワンシーン演じるのですが、セットを組んでカメラも数台セッティング

してやるんですよ。どういうシーンだったかはちょっと記憶にないですけど、朝ドラのオーディションって本番同様にやるんだなと思ったのを覚えています。

あの年は阪神・淡路大震災のあった年なんですね。『走らんか!』は大阪制作の朝ドラで、今だから明かしてもいいと思うんですけど、もともとは現代の関西が舞台の予定だったんです。

ただ、阪神・淡路大震災が起きて、撮影どころではありません。急遽(きゅうきょ)企画

変更したそうですが、それも後になってから聞かされたことです。

朝ドラは何年も前から企画します。急遽企画が変わり、舞台は現代の福岡に移りました。だけど震災について触れないのは不自然です。そこで私は被災地の神戸から転校して来たという設定になったんですよね」

――中江さんのお母さまと妹さんは、震災の時は大阪に?

「はい。母と妹はまだ大阪に住んでいました。でも、大阪は揺れたそうですが、そこまで被害は大きくなくて。ただ、被害が大きかった地域に住んでいる知り合いの方もいて、電車一本で行ける近さなのに、状況は全く違う。あちらには食料も何もないのに、こっちには普通にある…初めての震災の現実を見た母が話してくれました。

子どもの時から『関西では地震は起きない』って言われていたんですよ。それなのに震災は起きた。それも含めて誰もが衝撃を受けていたのだと思いますね。今考えれば関西だけ地震が起きないなんて、そんなわけはないのですが。

私は当時、『ひめゆりの塔』という映画を撮っていた時だったんです。それで、(映画の)ひめゆり学徒の中に、坂本九さんの長女で私と同じ年の大島花子さんがいて、花子ちゃんの妹さんが宝塚の学校に行ってらしたんです。花子ちゃんが、妹とまだ連絡が取れないと言っていたのはよく覚えています。3日ぐらいしてようやく連絡が取れたそうです。

坂本九さんは、(1985年 昭和60年)日本航空の123便(墜落事故)の被害者のおひとりですが、当時の私の音楽の先生も同じ便に乗っていて、亡くなりました。

花子ちゃんはお父さまを亡くされて、私は音楽の先生、それが同じ小学校6年生の時の出来事です。世界史上最悪の飛行機事故によって身近な人を失った経験をした同士でもあるんですね。

花子ちゃんとは、映画のずっと前から一緒にお芝居のレッスンも受けていたんです。俳優座の野中マリ子先生のところで」

――野中先生のところには、大作映画やドラマデビューが決まった方などが通っていましたね。『とりあえず野中先生に預けろ』と言われていたみたいで

「新人からベテランまで、多くの方がいらしていました」

――「ひめゆりの塔」で中江さんが演じた野里綾もリーダーというか、先生たちにも頼りにされる存在でしたね

「はい。そういう役を当てられるんですよね。あの映画は、CGを使ってないんです。だから、今考えたらすごいことだなと思って。朝から晩まで泥だらけになって撮影していました」

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■報道番組のキャスター、主演映画の公開

1997年、「サンデーモーニング」(TBS系)のキャスターに就任。1998年には、大林宣彦監督の映画「風の歌が聴きたい」に主演。

「生放送の報道番組は、それまでやってきた仕事と全く違ったので緊張しましたし、かなり戸惑いましたね。自分が無知で無力だということを思い知らされました」

映画「風の歌が聴きたい」は、聴覚障害者でありトライアスロン選手である実在の夫婦をモデルに、二人がさまざまな困難を乗り越えて絆を深めていく姿を描いたもの。

福島・郡山生まれの昌宏(天宮良)と、北海道・函館生まれの奈美子(中江有里)は文通を通して知り合う。就職で上京したふたりはやがて同棲を開始。トライアスロンで、絆をさらに深めていく…というストーリー。

――「風の歌が聴きたい」も長尺ですね。2時間41分

「こんなに長かったんだって私もびっくりしました(笑)。撮ったものは全部使っていました。これだけ長いと普通はカットして短くします。だけど大林監督は切らない人なんです」

――コンスタントにすごい勢いでお仕事をされていましたね

「いただいた仕事をしていただけなので、そんなに大変だとは思わなかったです。いつも来年の今頃自分が何をしているか、想像がつかなかった。

そういう生活を30年以上続けてきていると、不安に思っても仕方がないのですが、たとえ両手いっぱいに仕事を抱えていたとしても、常に不安は尽きないものです。

だからといってアウトプット(出力)ばかりだと自分が空っぽになりそうなので、インプット(入力)したい。それにやっぱり両手にたくさん抱えていると、逆に何も掴めないなって感じがするんですよ。

だから、いっぱい手放してみた時に初めて新しいものが掴めるんじゃないかなって。そういう風に考えるようになったら、あまり思い悩んでもしょうがないなと思うようになりました」

――報道番組のキャスター、主演映画の公開など経歴を拝見していると、空いた時期はあまりないですよね

「『風の歌が聴きたい』以降がしばらく空いています。2000年、24歳の時にそれまで所属していた事務所を辞めたんです。

私は、高校1年生、15歳の時から仕事を始めているので、モラトリアム(猶予期間)の時期って全くなかったんですよね。なので、そういう時期があってもいいんじゃないかなと思って、敢えて半年間何もしないで自分が何をしたいと思うのかを確認してみようと思って。半年間、本当に何もしませんでした。

(事務所を辞めた当時は)先のことは何も決めていませんでした。明日の不安よりも、自分がいろんなことが無知で、社会的経験もないまま30歳を迎えることが恐ろしいと思ったんです。

同級生たちが社会人となり、それぞれの道を歩み始めた時期ということもあったと思います。私自身は、早くに社会に出たけれども、何かすごくスカスカして、中身がないと感じていました。

もちろんいろんな得難い経験は仕事を通してやっているけれども、その一方で社会人としての自分には全く自信が持てなくて。このまま25歳になり、30歳になって…と思うと、その先の自分が恐ろしくなっちゃったので、私は一旦ここでこのレールを降りようと思ったんです。

事務所の方や、お世話になった仕事関係の方には申し訳ないと思いましたが、このままいったら自分のことが嫌になるなと思ったので、一旦リセットしたほうがいい、と思いきりました」

――すごい決断ですよね。仕事がなくなった時に…というのは聞きますが、順調な時に

というのは

「今考えたらそうかもしれないですね。その時はさすがに母も反対しました。若かったからできたことだとも思います。恥をかくなら若いうちがいい。年を重ねてから世間知らずになりたくない、と。でも辞めた後は、想像以上に大変でした」

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■フリーで活動!児玉清さんとの出会いが転機に

事務所を辞めた後、半年間いろいろ考えるうちに、仕事を続けたいという願望がどんどん大きくなっていったという中江さんは、どこにも所属せずフリーで活動することに。1年後、中江さんが自分の会社を構えると、大学を卒業したばかりの妹さんがマネジャー業を買って出てくれたという。

――妹さんはこの業界と全く関係なかったのにマネジメントを担当することに?

「そうなんです。大学を卒業して突然やってきて、急にマネジャーだとか言って(笑)。マネジャーをやったこともないのに」

――今現在もマネジメントをされているわけですから正解だったということですよね

「正解だったと思ってもらえればいいなと思っています。そうじゃないと妹に申し訳ないので」

――脚本や小説を書こうと思ったのは、フリーになった時ですか

「その前からずっと書きたいという気持ちは持っていたのですが、自分は俳優業から始めて、それも何か自分なりに納得してできていないのに、おこがましいような気がして書くというところには意識を向けられなかった。

ただ、私が脚本を初めて書いたのは28歳の時です。同年に主演映画の話が来て。しばらくキャリアが途絶えている中で、ようやく映画に出られることになり、やる気に満ちていました。衣装合わせもして、カメラテストもしたのにクランクイン1週間前に中止。幻の主演映画となりました。

結局撮影のための2カ月間、スケジュールの空白ができました。それまではポツポツと仕事をして、なんとか生活をしていましたが、映画も、入るはずのお金もなくなった。だけど泣き暮らすことはしたくなかった。

自分は一体何をやりたかったのかということを自問自答して。私は何か書きたいと言っていたのに、結局何も書いてないなと思ったので、『ここで書かなきゃいつ書くのか?』とようやく覚悟が決まったという感じでした。

その当時NHK大阪のラジオドラマ脚本懸賞の募集が始まったという記事を新聞で読み、それに照準を合わせて書き始めて応募したんです」

その時に中江さんが初めて書いて応募した脚本はNHK大阪放送局主催「第23回BKラジオドラマ脚本賞」で入選し「FMシアター」(NHK-FM)で放送。脚本家としても活動することに。

「脚本を書くのは初めてでしたけど、友人の脚本家の秦建日子さんに『脚本を書くというのは、やっぱり学校に行った方がいいのですか?』って聞いたら、『あなた何年女優やっているの?家にいっぱい台本があるでしょう?それを見直したらわかる』と言われたので『そうか!』と思って。

それで、今まで自分が演じてきた脚本を初めて、構造がどうなっているのかという風に見方を変えたんですよ。こういう風にオープニングがあって、こういう風にエンディングがあるんだとか、そういう風に読み方を変えたら、急に目の前がクリアになりました。これまで演じてきたことが、こんな形で役に立つとは思いませんでした」

――どれぐらいの期間をかけて書いたのですか

「映画を撮るはずだった2カ月間です。結構締め切りギリギリで出したのを覚えています」

――入選と聞いた時は?

「嬉しかったですね。私も嬉しかったけど、マネジャーをしてくれていた妹が喜んでくれたのが本当に嬉しかった。脚本を書くことを最初に相談したのは妹でした。そして『こんな話を書こうと思う』と話したら『すごく面白いと思う!』と背中を押してくれたのも妹でした」

2004年から俳優の児玉清さんがMCを務める「週刊ブックレビュー」(NHK-BS2)のサブMCに。この番組は、3人のゲストがそれぞれおすすめの本を持ち寄り、MC二人と感想を語り合うもの。

「『週刊ブックレビュー』には、最初はゲストで出たんです。私が出させていただいた時は、MCが児玉清さんの回ではなかったんですけど、他のゲストの方に圧倒されてしまい、何を話したか記憶にありません。二度と呼ばれることもないだろうと思っていたんです。

そうしたら、その後に『サブMCとして出ませんか』とオファーを頂きました。驚きましたが、挑戦してみようと出演を決めました。

この番組によってたくさんの本と出合い多くの作家の話を直接聞くことができました。しかし自分の本の知識の足りなさというのにも気づかされました。そこで文学について学ぼうと大学への進学を決めました」

中江さんは、35歳で法政大通信教育部の文学部日本文学科に進学。4年間で卒業した。入学の手続きで高校の卒業証明書を出した時「四つの高校に行って5年かかったけど、あの時、卒業していて本当に良かったと実感しました」と話す。

――児玉清さんはステキな方でしたね

「そうですね。児玉さんも独自の道を歩いてこられた方なので、児玉さんの姿というのは、ある意味私の非常に理想というか、目指すところでもあります」

――中江さんが作家活動もされていることについて児玉さんは何かおっしゃっていました?

「児玉さんには、私が小説を書いて最初に上梓した時にももちろん献上させていただきましたけど、2作目がなかなか書けなくて。しばらくそのままにしていたら、ある時児玉さんに『君は何がやりたいの?』って言われたので、『何でもやりたいと思っています』みたいな感じでちょっとおどけて答えたら、『君は中途半端に見えるよ』って言われて。

そういう風に言われたのがショックで、『これは書かなきゃいけない!』と思ってすぐに書き始めました。ただ、その後、児玉さんはお亡くなりになり、結局2作目をお渡しすることは叶わなかったんですけど、児玉さんの言葉があったから、ちゃんと続けて書こうと思えたし、今も書いていることにも繋がっているので、本当にありがたかったです」

小説、書評、エッセーなど執筆業もコンスタントに続け、「愛するということは」(新潮社)、「万葉と沙羅」(文藝春秋)など著書も多数。本にまつわる講演やエッセー、書評も多く手がけている。次回は歌手活動の再開、11月22日(土)に公開される主演映画「道草キッチン」も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:丸山智美

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