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2025年11月21日 12:50

今陽子 「ピンキーとキラーズ」を結成し、「恋の季節」が大ヒットを記録!映画、ドラマにも引っ張りだこに…

今陽子 「ピンキーとキラーズ」を結成し、「恋の季節」が大ヒットを記録!映画、ドラマにも引っ張りだこに…
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15歳で作曲家・いずみたく氏に師事し、ソロデビューを経て16歳で男女混成グループ「ピンキーとキラーズ」を結成した今陽子さん。デビューシングル「恋の季節」が大ヒットを記録し、第10回日本レコード大賞新人賞を受賞。1972年に「ピンキーとキラーズ」を脱退後、ソロに転向。1981年、ダンス、歌、英会話等の勉強のため、単身ニューヨークへ留学。帰国後、ライブ、ミュージカル、映画、テレビに多数出演。2022年、お母さまの介護の日々を綴った著書「認知症の母が劇的回復を遂げるまで」(株式会社IDP出版)を出版。11月22日(土)に映画「道草キッチン」(白羽弥仁監督)が公開される今陽子さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

■中学2年生の時にスカウトされて

愛知県で生まれ育った今さんは、小さい頃から歌うことが大好きで、将来は宝塚音楽学校に入りたいと思っていたという。

「小さい頃から洋楽が好きで、ポップス系からジャズまでよく聴いていました。日本人ですけど、今でも洋楽派なので、ライブは今、ジャズミュージシャンとほとんどジャズメインでやっていますね」

――今さんのお母さまも歌がお上手でスカウトされたことがあるそうですね

「全然ジャンルは違うんですけどね。私はアルトだけど、母はソプラノだし、民謡、歌謡曲など和の方で。大昔ですけど、コロムビアののど自慢コンクールに出て優勝してコロムビアからも、NHKからもスカウトされたんですけど、やっぱり時代が悪いし、母の両親、(私の)祖父母が大反対だったので歌手になる夢は諦めたそうです。

なので、自分が歌手になれなかった分、ジャンルは違うけど、私にすごく期待していて一緒になって喜んでいる部分はありますよね」

――お父さまは歌謡ショーの司会もされていたそうですね

「はい。司会もしていましたけど、本職じゃないですよ。本職は中日新聞の嘱託でしたし、商業デザイナーで経営コンサルタントですね。ただ、昔はそういう職業の名前がなかったんですよ。だから自由業とかフリーというけど、フリーターという言葉もなかったので、学校に家族構成を出す時に父の職業を書くのに困りましたね。漫画家とか新聞社勤務って書いたりしていました。

父はすごく器用で漫談もやるし、司会もできたので、名古屋に石原裕次郎さんとか、当時の日活のスターとか、歌手の方が来ると現地調達で父が司会をしていたんですね。だから、当時17歳のいしだあゆみさんがイベントでいらした時に父が司会だったので、それがきっかけであゆみさんの当時のマネジャーにスカウトされて。14歳、中学2年生の時でした。

運が良かったのは、あゆみさんはいずみたく先生が一番可愛がっていた愛弟子だったんですけど、ちょうど先生のところを辞めるという時だったんですね。それで、先生があゆみさんの後釜になる10代の歌の上手い子を探していたんです。だから、タイミングがすごく良かった。そのマネジャーも当然、いずみたくプロダクションであゆみさんが辞めるのがわかっているからスカウトしてくれたんだと思います」

――今さんは宝塚(音楽学校)に行きたかったそうですね

「そうです。芸能界にスカウトされなかったら宝塚に入りたかった。中学を卒業したら行きたいと思っていました。

鳳蘭さんや大地真央さん、真矢ミキさん曰く、『今頃私たちよりトップの男役よ』って言ってくれます。でも、前からとにかく舞台に立ちたかったですから、宝塚ではないけど良かったかなと。宝塚だったら(舞台も)決まっちゃうけど、こうやって映画にも出られるし、いろんなことができるから結果論、私にとっては正解だったんじゃないですかね」

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■東京の中学校に転入、ソロ歌手デビューも決まったが…

1965年に東京へ移住し、翌年、いずみたくさんの内弟子となり住み込みで歌の勉強をすることに。東京の中学校に転入し、学校が終わると歌や踊りのレッスンに通う毎日だったという。

「踊りに歌、好きなことなのでつらくはなかったですよね。ただ、愛知県出身なので方言とまではいかないけど、多少イントネーションが違うんですよ。それを直さなきゃいけないから、『NHK日本語発音アクセント辞典』というのを買って、電車やバスに乗っても自分と違うイントネーションが聞こえるとすぐにアクセント辞典で調べて直していましたね。

学校でも国語の朗読とかやると、イントネーションが違うからクスクス笑われるんですよ。それが悔しくて、早く東京弁に慣れてやろうと思っていました」

――CMソングは割とすぐに歌うようになったのですか?

「そうです。今は10代のスターがいっぱいいますけど、あの当時は中学生で義務教育中に仕事をする子というのはほとんどいなかったんです。それで、CMソングなら声だけだからいいだろうということになって、画面には一切出ないで声だけ。CMソングは60曲くらい歌っていますよ。

風邪薬のCMでは、いしだあゆみさんが映像で私が歌とかね。自分は映像に出られなくて歌だけだから悔しくて、早く両方やりたいなと思っていました」

1967年、念願だったソロ歌手としてデビューを果たした今さんだったが、デビュー曲「甘ったれたいの」は全く売れなかったという。今さんは、この曲の路線には複雑な感情を抱いていたようだ。

「デビューが決まったことは嬉しかったんですけど、大っ嫌いな曲だったので、絶対に歌っていません。これはもうどこでも言っているんですけど、ひどい曲だった

いずみたく&岩谷時子という名コンビが、よくこんな曲を書いたなっていうぐらい本当に駄作だったので、売れなくて良かったですよ。歌いたい路線じゃなかったし、はっきり言って売れるわけがないんです。

あの当時、山本リンダさんの『こまっちゃうナ』がすごい売れていて、ミニスカートのツィギーが大人気だったから、15歳の私がミニスカートを履いて、『甘ったれたいの』っていう、『こまっちゃうナ』みたいな曲を歌うんですよ。ちょっと舌足らずで、可愛く歌え…みたいな。

大体、可愛く歌うというのは私の性分じゃないし、全てが私と真逆だったから、逆にそれは売れなくて本当に良かったと思った。普通は売れないとショックだったりするんですけど、売れなくてホッとしたという感じでしたね。でも、早くデビューして売れたかったから、そのチャンスをそんなことで逃したのはやっぱり悔しかったですけどね」

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■ソロ歌手から「ピンキーとキラーズ」に!

翌年、1968年、「ピンキーとキラーズ」を結成。トレードマークの山高帽とステッキも話題に。デビュー曲「恋の季節」はオリコンで17週連続1位となってミリオンセラーとなり、270万枚の大ヒットを記録。「第10回日本レコード大賞」新人賞(グループ部門)を獲得。「第19回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たす。

結局、いずみたく先生が色々考えたんでしょうね。この子は(背が)でかいし、ひとりでするよりもグループでやったほうがいいんじゃないかということであの4人と。

当時キャバレーやクラブで演奏していたバンドマンを探してきて、真ん中に可愛い女の子がいて4人のおっさんが囲んでいるという男女混成にして。あの時代にすごくセンセーショナルでしたからね。

あの後は結構男女混成グループがいっぱい出てきましたけど、ハシリなんですよね。ピンキラは紅白歌合戦も男女混成グループが赤組で出たという先駆者なので」

――「ピンキーとキラーズ」を結成して「恋の季節」でデビューと言われた時は?

「私はあくまでもソロでやりたかったから、『何でこんなおっちゃんたちとやらなきゃいけないのかな?』って、ものすごく不満でしたね。

『恋の季節』を歌うことになったのは、ピンキラを作ってからだいぶ後ですからね。ピンキラは、新宿小田急百貨店の展望レストランの『バルーン』というところで、ずっと1日4ステージのライブからスタートですから。

ビー・ジーズとかセルジオ・メンデス、カーペンターズなど、当時の洋楽をメインに歌っていました。あとは、ジャズスタンダード。私はどっちにしても洋楽ですよね。

当時、遠藤周作先生がやってらしたテレビ番組があって、パートナーとして出演していた倍賞美津子さんが、毎月“今月の歌”というのを歌っていて、全部いずみたく先生の作曲だったんです。

それで、『恋の5月』というタイトルで5月の歌になって、美津子さんがメロディーを歌って、私もピンキーとキラーズとしてバックコーラスやっていたんです。

その曲がなかなかいいということで、ちょっと手直しをして、『恋の季節』というタイトルに変えて私たちのデビュー曲になったんです。だから、本当だったら美津子さんが歌っていたんですよ」

――「恋の季節」はみんな好きでしたよね。大ヒットを記録しました

「結果論ですね。売れたから。真ん中に女の子がいて、周りに男の人たちがいてスティック持って…あれはやっぱりいずみたく先生夫妻のアイディアの勝利ですね。

売れっ子になりたいというのはずっと夢だったので、それは嬉しいんですけど、売れすぎるのもね(笑)。あの頃は、今みたいにスターが多くなかったので、1968年〜69年はもう本当に『ピンキーとキラーズ』オンステージでしたからね。

私の場合、0歳から99歳までという感じでファンの年齢層の幅が広かったんです。だから『ピンキーちゃんのように歯磨きしましょうね』という幼稚園児向けの本の表紙から、『週刊プレイボーイ』、『平凡パンチ』など男性雑誌から婦人雑誌、それから『セブンティーン』とか『少女フレンド』、『マーガレット』、そういうハイティーンの女の子の雑誌まで幅が広くて。

朝から晩まで1日中、早朝から夜中まで仕事をしていたので、全く睡眠時間が取れなくて、1時間半とか2時間。当時高1だったから学校に行かなきゃいけないんだけど全然行けないし。とにかく寝る暇ない、学校に行けない。

全然休んでないから声も出ないんですよ。歌番組に出て声が出ない状態で歌うというのもプロとしてすごく悔しいし…。そういうことで贅沢(ぜいたく)な悩みなんですけど、売れすぎちゃって大変でしたね。1日でテレビ20本ぐらい撮ったこともありました」

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■寝る時間もなくて点滴を打ちながら仕事に

大ヒットを記録した「恋の季節」(井上梅次監督)と「涙の季節」(丹野雄二監督)は映画化もされ、「青空にとび出せ!」(TBS系)など、映画、ドラマにも出演することになり、さらに多忙を極めることに。

「映画も主役をやったりしていたので、朝4時か5時に大船の撮影所に行って、そのあと調布の日活撮影所に行って、その間も明星や平凡の取材が入っていて、午後からはテレビ局で何本も撮って、夜8時からは生放送の歌番組に入って…という感じで。

夜中はコマーシャルの撮影とかもあったので、とにかく1日は24時間なのに、30時間か35時間ぐらいという感覚でした」

――今の時代と違って売れている人は寝る時間もなくて、点滴を打ちながら仕事をしていたとか

「私もしょっちゅうですよ。車で点滴を打ちながら移動していました。今だったら考えられないしハラスメントですよね。高市さんが『働いて、働いて、働いて』と言ったと大騒ぎになっていましたけど、そんなものじゃないぐらいやっていました。

『恋の季節』も『涙の季節』も映画になったし、そのちょっと後に、東宝で『恋の大冒険』という、当時日本には珍しいオリジナルミュージカル映画も羽仁進大監督で撮っていますしね。

『青空にとび出せ!』(TBS系)というドラマもあって。これは、自分たちだけの独立国を作るという夢を叶えるためにピンキラの5人が一台の特製キャンピングカーに乗って日本各地を旅していくというドラマ。

今はおっさんになっている当時の小学生の男の子が、『あのバスで、いつピンキーちゃんはうちの街に来るんだろう?』って、みんな待っていたらしいですよ(笑)。今と違って2クールでしたから26話やっていましたね。

だから、映画、歌、テレビドラマ、CMなど全部やっていましたね。おまけに16歳とか17歳でナイトクラブ、キャバレーで歌っていましたからね。

ファーストステージが夜の11時、セカンドステージが午前1時ですよ、夜中の。それを10代でやっていたんだから事務所は始末書を書かされていましたよ。もうああいう時代は来ないし、今の若い子たちは絶対にやらないと思う。私たちは、よくわからないから、そういうものだと思っていましたからね。次にどこに行くかもわからない。車に乗せられて次から次へ行って、『いつお風呂に入って寝られるんだろう?』という感じで。そういう毎日が3年続きました」

――あれだけ売れるとハードルが高くなってしまうのでは?

「そうですね。『恋の季節』が実質は300万枚って聞いていますし、そのあと『涙の季節』も150万枚いっているし、3曲目からも70〜80万枚、少なくても50万枚とかいっていますからね

今の時代からしたらすごいことですけど、しょうがないですよね。今はもうネットの時代だから時代が違いますけど。それにしても、あんなに売れちゃうとやっぱり次から次へいい曲を出しても、もう追いつかないからきついですよね。それと何もかも『恋の季節』のイメージで捉えられますから」

1972年、「ピンキーとキラーズ」を脱退。今さんはソロに転向し、歌手活動のほかにドラマ、舞台でも活動。結婚、離婚を経て、1981年にダンス、歌、英会話等の勉強のため、単身ニューヨークへ約2年間留学。帰国後、ミュージカルや映画、レビューショーなど留学の成果を発揮して活躍中。次回は留学生活、主演映画「蕾の眺め」(田中登監督)、映画「魂萌え!」(阪本順治監督)の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※今陽子(こん・ようこ)プロフィル

1951年11月1日生まれ。愛知県出身。15歳で作曲家・いずみたく氏に師事し、50曲あまりのCMソングを収録。ソロデビューを経て、1968年、「ピンキーとキラーズ」を結成。デビュー曲「恋の季節」がミリオンセラーに。1972年に脱退後、ソロに転身。1981年に単身渡米しニューヨークで歌・ミュージカルを学ぶ。帰国後、歌手活動の他、ドラマや舞台などでも活躍。1986年、映画「蕾の眺め」に主演。「別れぬ理由」(降籏康男監督)、映画「魂萌え!」などに出演。現在98歳になるお母さまの介護の日々を綴った著書「認知症の母が劇的回復を遂げるまで」を出版。11月22日(土)に映画「道草キッチン」の公開が控えている。

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