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2025年11月25日 13:41

今陽子 「ピンキーとキラーズ」脱退後、ソロ活動、結婚、離婚を経て約2年間アメリカに留学!念願だったレビューショーも

今陽子 「ピンキーとキラーズ」脱退後、ソロ活動、結婚、離婚を経て約2年間アメリカに留学!念願だったレビューショーも
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1968年、山高帽にステッキがトレードマークの男女混成グループ「ピンキーとキラーズ」のボーカルとして人気を博した今陽子さん。デビュー曲の「恋の季節」をはじめ大ヒットを記録。1972年に脱退後はソロに転向。ダンス、歌、英会話等の勉強のため、単身ニューヨークへ留学。帰国後、ライブ、ミュージカル、映画、テレビに多数出演。映画「道草キッチン」(白羽弥仁監督)が公開中。(この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧になれます)

■普通の生活がしたくてイケメントップモデルと結婚

1972年に「ピンキーとキラーズ」を脱退後、ソロに転向した今さんだったが、ピンキーちゃんのイメージはなかなか抜けなかったという。そして、ソロになって2年後、185cmの長身でイケメントップモデルの男性と結婚。

「ピンキラの時に超多忙で睡眠時間もなくいろんなことをやって、何かもう普通の生活がしたくて。それで、カッコいいイケメンに出会っちゃったので(笑)。イケメン好きは母譲り。

それで、結婚もいいなと思って結婚に逃げたんですけど、元来仕事が好きだから無理ですよね。

結婚生活は約4年。3年8カ月だったんですけど、すごく優しくて本当にいい人だったから、今でも仲良しです。私はピンキラも4年、結婚も約4年だから、何かオリンピックの人みたいですね(笑)」

1981年、今さんは、ダンス、歌、演技、英会話を勉強するために、単身ニューヨークへ留学することに。

「28歳から30歳まで2年間留学していましたけど、準備に2年かかりました。留学するために事務所やレコード会社のことなど全部片付けたので。だって待っていられてもね。

どんな風になって帰って来るかわからないし、ちゃんと仕事ができるかどうかもわからないじゃないですか。私はそういうことに関してすごく臆病なんですよ。だから待っていてもらうと荷が重いので、レコード会社もプロダクションも全部白紙にして、全くひとりの女の子になって行きました」

――留学することについてご両親は?

「すごく心配していました。ニューヨークはものすごく怖いところというイメージだったし、ハーレムとかダウンタウンも危険だから、そんなところに20代の女の子がひとり行くなんて危ないって。

親としては、頼むからやめてくれですけど、それよりも私の希望が勝ったというか。やっぱり私はこういう道で一生やっていきたいし、私にはこれしかないから、そのためにはちゃんと本格的な勉強を今、30歳になる前にやっておきたいんだという気持ちを親がわかってくれました」

――勇気がありますよね

「そうですよね。今考えてもよくやったと思います。よくあんな怖いことをやったなあって。ひとりで向こうに誰も知っている人もいないのに。でも、私はやっぱり運が強い人なんですね(笑)。何にもツテなしで行ったんだけど、どんどんどんどんいろんな人に巡り合って、またその人から次に巡り合って…という感じで。

結局最終的にブロードウェイの『ミンスコフ劇場』のオーナーのミンスコフさんという、ものすごいお金持ちの大プロデューサーに見初められて。ブロードウェイのオーディションは受けるつもりはなかったのに、すごいチャンスが広がって。

『さよなら』というミュージカルをやるというので、オーディションを受けて主役も掴んだんですけど、その公演自体がなくなってしまって。テーマは国際結婚でストーリーが古いので。国際結婚なんて珍しくも何ともなかったですからね。

アメリカのエージェントから契約の話もありましたけど、それこそ英語が多少喋れたって、そういう契約書というのは全然違いますからね。日本語も英語もわかるきちんとした弁護士をつけないとえらいことになりますから。それと、ビザの関係で1年なんですよね。途中書き換えたりしていたけど、もう帰国しなきゃいけない時期で。

本当は3年ぐらい留学して大学にも行っていろいろ勉強したかったんですけど、28になって学生というのも難しいし、そうなるとビザもまた違うんですよ。それにもちろんお金もかかるし、日本で両親が心配して待っているし、結局2年間で日本に帰って来ました」

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■帰国後、ニューヨーク留学の成果を実感

約2年間の留学生活を終えて帰国した今さんは、念願だったレビューショーに出演することに。

「当時のマネジャーが、『あなたは絶対にまたやるから、絶対長くできる人だから僕は待っているから。期限を決めないで待っているからすぐ連絡して』と言って待っていてくれたんです。それで、約2年で戻ってきて」

――帰国されてからはどのように?

「オーディションというより、皆さんが準備して待っていてくれて。いきなり帰ってきてゴーというわけにはいかないので。

ブロードウェイのオーディションに受かったとか、いろんなお土産ができたので、日本で記者会見とか色々スタンバってくださって、新しい事務所の受け入れ体制ができた上で帰国しました」

――わりとすぐにお仕事に?

「そうです。ちょうどその頃、ホテル・ニューオータニが『ザ・クリスタル・ルーム』というお店を作って。私が一番やりたかった、後ろにダンサーをつけて歌って踊るレビューショーができるお店ができたんですよね。

それで、後ろにつけるのはラスベガスから来たダンサーとか、フランスの『ムーラン・ルージュ』から来たダンサーとか、願ってもないステージ、仕事を用意してくださったので、すごく生き生きとできましたね。本来やりたかったことが帰国してすぐ実現しました」

――ご自身でも留学前と違うという実感はありました?

「明らかに違いました。今でもこんなに声が出るのは、やっぱりニューヨークのブロードウェイのボイスコーチが素晴らしかったからです。本当にお釣りがくるぐらい勉強してきましたから。

やっぱり一度学んだものというのは、からだが覚えていますよね。発声法にしても教え方が全然日本と違うし、英語と日本語って、まず違いますから。

英語の発声をきちっと習ってきたので、今でも私はニューヨークのミュージシャンとか外国人と仕事をすると、私の英語は本格的だと皆さんに褒めてもらえるのは、その勉強のおかげだと思います」

――声帯は、普通は年齢とともに衰えていくと言われていますが、今さんの声量はパワフルで迫力がありますね

「私は、今が一番丈夫で、すごい声帯をしているって耳鼻咽喉科の先生が言っていました。70代とは信じられない声帯だって。もともと声帯が丈夫かもしれないけど、やっぱりニューヨークでの2年間のトレーニングのおかげだと思います。あの時に留学してなかったら、こんな発声にはなってないと思いますね、結果論ですけど。

留学で行っていたのは2年間ですけど、その前に10年ぐらい、年に一度は1カ月ぐらいずつアメリカには行っていたんですよね。アメリカが大好きで。

今だったら大谷くんがドジャーズにいるからL.A.の方が今盛り上がっているけど、こういう芸事は西の方がいいからよく行っていたんですよ。昔は叔母が国際結婚してサンフランシスコにいたんです。ニューヨークはツテがなかったけど、本当にラッキーでした」

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■ストリップ劇場で勉強してストリッパー役に挑戦!

1986年、映画「蕾の眺め」(田中登監督)に主演。この作品は、ストリッパー・ユンキ(今陽子)と彼女の舞台を追い続ける元小学校の教師・鯵沢(平田満)の姿を描いたもの。ヌード劇場の舞台で相手役をつとめていたケンゾ(佐藤浩市)が若いストリッパーと姿を消したため、鯵沢がユンキの相手役を務めることに…という展開。

「あれは名作だったんですよ。面白かったし、平田満ちゃんと佐藤浩市くん、加藤嘉さんとかすごい方たちが出演していたし、監督も2時間ドラマもいっぱい撮ってらっしゃる田中登さん」

――今回初配信で初めて拝見させていただきましたが、着物で登場するストリップショーのシーンが妖艶で印象的でした

「そうそう、ストリッパーの役でね。あれは、私じゃなきゃできない役だと思うんですよ。踊りもあるし、歌もあるし。あれはちゃんとストリップ劇場に勉強しに行ったんですよ。

浅草とか渋谷にまだストリップ劇場があった時代だったので、そういうところへちゃんと勉強に行きました。あの役をやるために。ストリッパーという職業を勝手に判断しちゃいけないなと思って。

実際に行ってみると、皆さん生活があって、子どもがいて、楽屋で子どもにお乳を飲ませながら踊っている方もいるし…いろいろ努力しているんですよね。いかにして見せるかということをものすごく真剣に考えている。

その現実を見て、この映画はいい映画だし文学作品だよなと思って。あの映画を撮ってだいぶ経ってから浩市くんに会ったら直立不動で挨拶してくれて。周りのみんなが、『佐藤浩市さんが直立不動で挨拶するなんて、今さんすごいんですね』って(笑)。

浩市くんすごいですよね。ビッグビッグ映画スターになっちゃって。最近会ってないですけど、よく浩市くんや平田さんが出てくれたなあって思います。

平田さんはずっと一緒でしたからね。平田さんもかなり悩んだと思いますよ。ストリップショーのステージに一緒に出て、最後は夫婦になりますしね(笑)。加藤嘉さんも、面白かったですね」

――今さんのヌードも綺麗でした

「いやいや、まあまあ。あの頃は写真集も出させていただいて。それもニューヨークで撮ったりなんかして、すごくいい写真集なんですけど、日本ってヌード写真集を出したりすると、すぐ、『もう脱いだ』とか、『ダメになった』とか、そういう風にしか取られないんですよね(笑)」

1987年には映画「別れぬ理由」(降旗康男監督)に出演。この作品は、医者の夫(津川雅彦)と雑誌記者の妻(三田佳子)。お互いに愛人のいることがわかり、揺れ動く男と女の心理を描いたもの。今さんは、三田佳子さん演じるヒロインの親友役。

「少ししか出てないんですけど、いい役がくるんですよね。三田さんの親友ですから。三田佳子さん、津川雅彦さん、古尾谷雅人くん、平尾昌晃さん…あれも豪華な出演者でした。

だから映画出演は少ないんですけど、結構いい役をいただいているんですよね。

でも、やっぱりメインはステージですからね、私は。ミュージカルのステージは本数多いです。プロフィルに書ききれないくらいたくさん出ていますよ」

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■舞台から2メートル下に転落するも翌日も出演

2005年、東京国際フォーラムのステージのフィナーレで舞台から2メートル下の床に転落し、救急車で病院に搬送されたこともあったという。

「仕事中に転んだり、落ちたり…というのは結構ありますけど、あれはびっくりしました。

高畑充希ちゃんのデビューの舞台で。ホリプロ創業45周年の『プレイバック・パート2〜屋上の天使〜』をやった時でした。

(山口)百恵ちゃんのナンバーばかりをやっているミュージカルで千秋楽の前日、舞台の後ろの2mのところから暗転で下に落っこちちゃって。ステージ下の後ろに入っていたバンドのドラムとギターの間に落ちたので、バンドのみんながびっくりしていました。突然おおきな物体が上から落ちてきたから。

そのあとカーテンコールなんですけど、出ようと思ったらスタッフがすぐに来て、「立っちゃダメですって言われて、そのまま救急車で搬送。お客さんはカーテンコールに私が出て行かなかったから『年末だから今陽子はディナーショーに行ったんじゃないか』って言っていたみたいだけど、それどころじゃない。

救急病院で診てもらったら肋骨は骨折してないし、ヒビも入ってなかったけど、みんな翌日の千秋楽に出るのは無理だと思っていたみたいですね。医者も無理だと思っていたみたい。

千秋楽の日、打撲した胸は紫色になっていたし、呼吸をしても痛かったですからね。でも、胸にギプスをして痛み止めを飲んで湿布をして、演出も変えないで千秋楽の舞台をやりました。ド根性で(笑)」

――すごいですね。でも、大事に至らずに良かったです

「やっぱり丈夫なんですよ、私。本当に体幹がものすごく丈夫なんです。だから74歳になりましたけど、今でも1時間ぐらいのライブ、必ず2回やるから2時間、一晩で2時間歌って、3日〜4日間ツアーに出るんですけど、どんどん良くなってきますからね。それと、やっぱり根っから好きなんです。好きじゃなきゃできないですよ(笑)」

2007年には、映画「魂萌え!」(阪本順治監督)に出演。この作品は、長年連れ添った夫(寺尾聰)の突然の他界で平穏だった生活は一変。古くからの付き合いの愛人(三田佳子)の存在も明らかに。

それをきっかけに自らの人生を見つめ直し第二の人生に踏み出していく女性・敏子(風吹ジュン)の姿を描いたもの。今さんは、敏子の学生時代からの友人3人の一人・山田栄子役を演じた。

「阪本監督にすごく鍛えられました。『あのね、映画の画面って大きいんだよ。君の演技だと飛び出ちゃうから、もっと声は10分の1ぐらいにしたい。表情もアクションも一切なし!』って言われて。

映像とステージ映えはまた別ですからね。でも、ステージばかりやっていると、確かに映像には向かないとか、いろいろありますよね。

だからスイッチをちゃんと切り替えないと。これはステージモード、これは映画モード、これはテレビモード、これは歌手のライブモードという風にチャンネルをいっぱい持っていて、自分で切り替えないと、私みたいに欲張りな人は非常に難しいです」

ミュージカル、ライブ、映画、テレビなど精力的に仕事を続けてきた今さんだったが、2017年、(当時)90歳になったお母さまが認知症を発症。それまでマネジャー的役割を

果たし、家事、確定申告等すべてをこなしていたお母さまの異変に介護のことなど全くわからず戸惑いの日々が続いたという。次回は、現在98歳になるお母さまの介護、公開中の映画「道草キッチン」も紹介。(津島令子)

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