1982年に公開された映画「蒲田行進曲」(深作欣二監督)で大部屋俳優のヤス(村岡安治)役に抜擢され、広くその名を知られることになった平田満さん。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞をはじめ、多くの賞を受賞。映画「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」(山田洋次監督)、「タクシードライバーの推理日誌」シリーズ(テレビ朝日系)、連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)、映画「アンダーニンジャ」(福田雄一監督)、舞台「こんにちは、母さん」など多くの作品に出演。2026年1月23日(金)に映画「安楽死特区」(高橋伴明監督)の公開が控えている平田満さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)
■つかこうへいさんと衝撃的な出会い
愛知県で姉と兄のいる三人きょうだいの末っ子として生まれた平田さんは、小さい頃は大人しい子どもだったという。高校卒業後、早稲田大学に進学して上京。演劇には全く興味がなかったと話す。
「芝居がしたくて東京に来たわけでもないし、演劇を見たこともなかったし、戯曲も読んだこともなかった。そういう意味では全く知らない世界でした」
――お芝居をすることになったきっかけは?
「早稲田の演劇サークル『劇団 暫(しばらく)』が新入生歓迎公演みたいなのをやっていたのを見たというのがきっかけです。
千秋楽の公演の時にたまたま『タダでいいよ』って声をかけられて。タダで見せてもらったので、終演後、バラシ(舞台の大道具、小道具、照明、音響機材などの解体・撤去)を手伝うことになって、そのあとの打ち上げの宴会に新人たちと参加することになって。
そのまま新人たちとズルズルと入ることになって、稽古をして夏休み公演みたいなのがあったから出たんですけど、自分には向いてないなと思ったから辞めようと思っていたんです。
そうしたら座長が『今度面白い人と一緒にやるからそれに参加しなさい』って言うんですよ。それでやってきたのが、つかこうへいさん。僕は全然知らなかったんですけど、なぜかそこに参加することになって、あとはズルズルズルと(笑)。ある意味で運が良かったし、ある意味で運が悪かったっていうことでしょうね」
――つかさんの第一印象はどんな感じでした?
「当時は、貧乏学生が多いと言われた頃の早稲田だったので、周りはさほどの人はいなかったんですよ。言ってみればみんな苦学生みたいな感じで。つかさんは慶應で、今から思うと典型的な慶應ボーイという感じじゃないのに三つ揃いに革靴でね(笑)。
みんなジーパンとTシャツの時代にスリーピースで、サングラスではないけど、ちょっと色の入った眼鏡か何かして、両足を机にガンガンと乗せるんですよ。そんな人見たことないからね。すごい人なんだなって(笑)。
今から思えばポーズだったんでしょうけどね。素直に『すごい人がいるんだな』って、(つかさんの)狙い通りの反応をしたわけですね」
――そこで辞めるという選択ではなく、やることに?
「そう。向いてないから辞めようと思っていたのに、座長から『つかさんのところでやるから、嘘だと思ってちょっと参加しろよ』って言われて、『じゃあ、最後です』と言って入ったのが運のツキです(笑)」
■長髪をおかっぱ頭にさせられて
1974年、劇団「つかこうへい事務所」の旗揚げにも参加。「初級革命講座飛龍伝」、「熱海殺人事件」、「いつも心に太陽を」、「蒲田行進曲」などのほとんどの作品に出演する。
――当初は出る予定ではなかった舞台「郵便屋さんちょっと」にも出演することになったそうですね
「稽古はしていたんですね。実際に出るのは4、5人だったのに30人以上が稽古に参加したんです。それまでほとんど稽古をしない幽霊劇団だったので、歌ったり踊ったりもあるし、若い女優さんもいっぱいいらして『楽しいじゃん』っていう感じでやっていましたね(笑)。
つかさんの芝居は、稽古も皆さんご存知だと思いますけど、『口立て(くちだて)』という、脚本ナシでその場でせりふを与えるという独特の手法だから、常に変わっていて面白かったんですよね。
つかさんは、当時の僕たちに身近な言葉を使っていたし、僕なんかには想像もつかないような発想で面白いんですよ。人前で恥ずかしくても何かをやってみせる楽しさというのは、つかさんの稽古で教わりました。
そのまま何となく稽古して、舞台に出ることになって…という感じの流れに特別抗(あらが)うことなく。抗う人もいたかもしれないけど、僕は別に抗うこともせず、積極的も消極的も何もなく、そのまま流されて、あるいは流れていったみたいな感じです」
――「郵便屋さんちょっと」の時は結構長髪だったそうですね
「そう。長髪でしたけど、『切れ!』って言われて、ヘルメット頭というか、おかっぱ頭にさせられました。『サザエさん』のワカメちゃんみたいな頭です。面白いって言われて」
――おかっぱ頭はご自身ではどうでした?
「似合うも似合わないも何もないですね。おかっぱにする前の長髪も、今の人の長髪と違って単に理髪店に行かないだけの長髪でしたからね。伸びるがままの。周りで長髪が流行(はや)っていたけど、僕は本当に理髪店に行かないだけの長髪ですから、こだわりも何もなかったです」
――この舞台で奥さま・井上加奈子さんとご一緒になったそうですね
「そうです。何組かあったんですよ。僕の組もあれば、僕の妻の出た回もあるし、他の人の回も。すごいバリエーションでいっぱいありましたね」
――映画にも出演されることに
「映画は、最初が『限りなく透明に近いブルー』(村上龍監督)です。それはある方の代役だったんです。出られなくなった方がいて、その代役ということで。村上龍さんご自身が監督もされて。
たまたま村上龍さんが、つかさんの舞台を見ていたので、『あいつがいいだろう』ってなって。僕が映画というものに出たのはそれが初めてです」
――初めて行った映画の撮影現場はいかがでした?
「どうだったんでしょう。よく覚えてないけど、わりと映像主体に考える村上龍さんに
言われるがままにやっていました。
原作は村上龍さんが芥川賞を受賞した作品でしたけど、僕は役も知らなければ、ナンパもそんなヒッピーまがいの洒落たことも何も知らなかった。その時の助監督が相米(慎二)さんですからね。びっくりしますよね(笑)。
それで、次に東映で撮った『青春の門 自立篇』(蔵原惟繕監督)という映画があって。早稲田の学生みたいな役をやりました。これも『ここからここまでこう動いて』って言われる通りにやっていました」
■映画「蒲田行進曲」のヤス役で大ブレイク
1982年、「蒲田行進曲」でつかこうへいさんが直木賞を受賞。同年、深作欣二監督が映画化することに。この作品は、撮影所を舞台に、破天荒な花形スター・倉岡銀四郎(銀ちゃん=風間杜夫)と彼を慕う大部屋俳優・村岡安治(ヤス=平田満)の奇妙な友情、2人の間で揺れ動く女優・小夏(松坂慶子)の姿を描いたもの。
――映画出演3本目の「蒲田行進曲」でメインのひとり、ヤス役でと言われた時はどう思われました?
「舞台もそうなんですけど、『明日から稽古だからな』って言われたら行かなきゃいけない。
バイトが決まってようが何しようが行かないとダメなので、『どうもすみません。明日から稽古なのでバイトやめます』ということになって『だから学生はダメなんだよ』なんて言われて。
そんな感じでしたから、つかさんに『お前、今度、映画でヤス役な』って言われたら、『はい』って言うだけです。言われるがまま。それまで舞台でも『蒲田行進曲』はやっていましたけど、ヤス役は初めてでした」
――メインの役どころなので撮影はかなり大変だったのでは?
「体力的に今はできないでしょうね。深作さんは、夜が得意というか、夜テンションが上がる監督だったんです。でも、朝からまた行かなきゃいけないし、本当に『いつ寝ているんだろう?』っていうような人だったので、労働時間は長いですよね。
当時は若かったので、体力的には良かったですけど、やっていることはわけのわからないまま言われるがままでした。楽しかったことは楽しかったし、スタッフも含めてわりと新しいというか、そんなにいわゆるベテランの人がいつもの仕事をやるという感じじゃなかったので。それに大部屋俳優の話ですから、みんなの結束感というのもあって楽しかったですね」
――この作品で俳優としての人生が変わるという意識はありました?
「本当にこの世界を知らなかったので、例えばテレビとか映画は違う種類の俳優さんが出るものだと思っていたんです。僕らは小劇場ですから、いつまでできるかわからないし、テレビや映画に出る人たちとは違うと思っていて。全然知らないから、別にそれで役者の人生がどうのこうのとかいう考えはなかったです」
――風間さんともこの映画で俳優人生が変わるかもしれないというようなお話はされなかったですか?
「そういう話はしなかったですね。風間さんは、昔は子役もやっていたし、俳優としてもう引っ張りだこになっていましたけど、僕は続けられればいいかな…ぐらいにずっと思っていたので。
自分の俳優人生がどうなるかとか、そういうことはそんなに考えてなかったです。食っていくというのが大事ですからね。それで、別に他の仕事なんか絶対しないなんてこともない。困ったら、工事現場とかで肉体労働をやればいいだろうぐらいの気持ちでしたから」
――アルバイトは肉体労働のほかにもされていたのですか?
「『シティボーイズ』の斉木しげるさんが仕切っているラーメン屋の出前のバイトというのがあったんですよ。役者仲間が呼ばれちゃうの、ヘルプで。僕もヘルプでよく行きました。バブルの前だったから、とても待遇が良かったんです。
日当も良かったし、そこでラーメンも食えるし、終わるとタクシーで帰してくれたんですよ。
タクシー券をいっぱい配るような時代だったので。深夜のバイトだったから電車がなくてタクシーでしか帰れなかったというのもあるんですけど。
僕は困った時ぐらいでしたけど、ぬいぐるみの着ぐるみのバイトもやりましたね。今はもうちゃんと動けるすごい人でないとできないけど、当時は役者の卵みたいな人がいっぱいやっていて、結構日当も良かったんです。
今の着ぐるみのバイトと違うのは、当時の着ぐるみは重たかったんですよね(笑)。今の着ぐるみはいろいろ改良されてだいぶ軽くなったみたいですけど、当時はものすごく重くてね。今やったら絶対に首を傷めてしまいますよ。それで踊れって言うしね。大変でした(笑)」
――「蒲田行進曲」が公開されて広く知られるようになって鶴田浩二さんの主演ドラマや大河ドラマにも出演されることに
「そういうところに呼んでくださるようになって、『食べていけるな』って。世間を知らないから。どれぐらい大変なのか知らずに、たまたま仕事があって、ギャラが入ったからって、それで食っていけると思ったんですが、そんなわけないですよね(笑)。
つまり1本出たからといって、それが続かなきゃ無理じゃないですか。そんなこと何も考えてなかったですからね。別に就職したわけでも何でもないのに、そんな生活がずっと続くと思っていて。でも、運良く何とかここまでやってこられて本当に良かったなあって思います」
――「蒲田行進曲」で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞をはじめ、多くの賞を受賞されました
「あれは作品自体が良かったので、それもラッキーなことですよね」
――注目されたことでプレッシャーを感じることは?
「プレッシャーって言われたら、毎日がプレッシャーみたいなものです。新しい現場に行くたびに『いいのかな?』とかね(笑)。そんなのはもうしょっちゅうです。
今の若い俳優さんみたいに、『5年後、10年後はどうするのか』とか、『次の仕事はこういう風にしたい』というように計算する頭がないですからね。
今の若い俳優さんたちはしっかりしていますよね。『連ドラに出なきゃ』とかね。僕は何も考えてなかったなあ。その日にやることで、いっぱいいっぱいでした。
演技プランなどを考えたことがないし、計画が全くないままいつまでできるか分からないけれどやってみようという感じ。よくやってこられたなあって思います(笑)」
「蒲田行進曲」の演技が高く評価された平田さんは、山田太一さんが脚本で鶴田浩二さん主演のドラマ「シャツの店」(NHK)、大河ドラマ「独眼竜政宗」(NHK)などテレビドラマにも次々と出演することに。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※平田満(ひらた・みつる)プロフィル
1953年11月2日生まれ。愛知県出身。早稲田大学在学中、演劇サークル「暫」時代につかこうへいさんと出会い、劇団「つかこうへい事務所」旗揚げに参加。ほとんどの作品に出演。映画「蒲田行進曲」で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、報知映画賞最優秀主演男優賞を始め多くの映画賞を受賞。「はつ恋」(NHK)、「絶対零度〜未然犯罪潜入捜査〜」(フジテレビ系)、映画「浅田家!」(中野量太監督)映画「ショウタイムセブン」(渡辺一貴監督)などに出演。2014年、「海をゆく者」で第49回紀伊國屋演劇賞個人賞受賞。
2020年「THE NETHER」で第27回読売演劇大賞優秀男優賞受賞。2026年1月23日(金)に映画「安楽死特区」の公開が控え、1月28日(水)には舞台「ピグマリオン-PYGMALION-」(東京建物ブリリアホール・東京都)の公演が始まる。
ヘアメイク:板谷博美
スタイリスト:カワサキ タカフミ




