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2025年12月12日 13:17

芳本美代子 デビュー40周年!大人気アイドル歌手“みっちょん”から俳優、そして短大教授としての顔も…

芳本美代子 デビュー40周年!大人気アイドル歌手“みっちょん”から俳優、そして短大教授としての顔も…
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1985年、「白いバスケット・シューズ」でアイドル歌手としてデビューし、“みっちょん”というニックネームで人気を博した芳本美代子さん。1990年、ミュージカル「阿国」に出演し、第28回ゴールデン・アロー賞・演劇新人賞を受賞。芸能活動の主体を歌からテレビ、映画、舞台に切り替え「TRICK 劇場版」(堤幸彦監督)、土曜ワイド劇場「温泉おかみの殺人推理」(テレビ朝日系)、舞台「夏の夜の夢」などに出演。2023年から大阪芸術大学短期大学部メディア・芸術学科教授に就任。2026年1月23日(金)に映画「愛のごとく」(井土紀州監督)の公開が控えている芳本美代子さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

■友だちに誘われてオーディションを受けることに

山口県で生まれた芳本さんは、お父さまの仕事の都合で小学校3年生の時に広島県に、そして小学校5年生の時にまた山口県に戻ったという。

「父親の仕事の関係で転々としていたんですけど、小学校3年生の時に広島に引っ越した時、『ちびっこものまね歌合戦』に出て広島地区大会で優勝して、全国大会で初めて東京に来ました」

――その頃から歌手になりたいという夢はあったのですか?

「全然なかったです。その時は、親が全然知らない土地に姉と妹と私が引っ越したばかりだし、面白いのがあるからというので応募してオーディションを受けることになって。(親は)姉推しだったんです。私は付き添いみたいな感じのプラスアルファで行っているものだから、多分私の方が緊張してなかったんでしょうね。それで、受かって全国大会に出ることになって初めて東京に来ました」

――その時にスカウトされたのですか?

「いいえ、その時にはスカウトされたという形ではないですけど、渡辺プロダクションの広島校とか、いろいろレッスン場があって、広島にいる時に初めて歌のレッスンみたいなのに行きました。小学校3年生だったので、全然わからなかったですけど、音を鳴らして、『これは何の音?』って聞かれたり、声を出したり…全然ちんぷんかんぷんでしたけど、それでも楽しかったですね。毎週日曜日に母親と一緒に唯一お出かけするのが嬉(うれ)しかったです。

それで、広島のフラワーフェスティバルとかイベントで歌いませんかと言われて出させてもらったりしていたので、また山口に戻って転校した時には、ちょっと目立つ存在ではあったんです。中学2年生の終わりに、友だちに『福岡のオーディション番組を受けに行くから一緒に行こうよ。松田聖子さん、シブがき隊に会おうよ』って言われてノリで行くことになって(笑)。『福岡音楽祭』に出場して、グランプリは取れなかったのですが、テイチクレコードの福岡支社の方からスカウトのお話をいただいて、そこからはもうとんとん拍子でしたね」

1983年にスカウトされて84年に事務所も決まって上京。最初の3カ月間は事務所のスタッフ宅で生活していたという。

「上京してからは、単純に楽しかっただけですね。居候させていただきながら学校に通って、歌のレッスンと踊りのレッスンを受けていました。福岡でスカウトされてから半年ぐらいは歌や踊りのレッスンを受けていたんですけど、事務所を決めたりするために東京へはちょこちょこ来ていたりしていたので、『いよいよなのかな』という感じでした。事務所が決まってからは、本当にとんとん拍子という感じでしたね」

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■アイドル歌手“みっちょん”として大人気に

1985年、同じ事務所の先輩・石川秀美さんの妹分として「白いバスケット・シューズ」でデビュー。“アイドル豊作の年”と言われ、井森美幸さん、中山美穂さん、斉藤由貴さん、本田美奈子さん、おニャン子クラブ、松本典子さん、網浜直子さん、南野陽子さん、佐野量子さんなど、多くのアイドルが登場。明るい性格で大きな瞳と八重歯がチャームポイントの芳本さんは、“みっちょん”というニックネームで大人気に。

「親しみやすいニックネームをテイチクの方につけていただいて、今も『みっちょん』って言われているので、YouTubeも『みっちょんinポッシブル』にしました。最初は呼ばれたこともないニックネームだから、自分のことだとしっくり来るまで時間はかかりましたけど、今はどっちかというと、そっちの方が呼びやすいし、覚えていただくにも親しみやすいかなと思っています」

――結果的にレコードは19枚出されたのですね

「そうです。音楽で活動して6年で19枚出しました」

――当時は歌番組も多かったですし、すごいスケジュールだったでしょうね

「そうですね。デビューして3年間ぐらいはほとんど休みはなかったです。マネジャーさんに連れられて『はい次』、『はい移動』という感じでお仕事をしていたのであまり覚えていないんです。お仕事をしながら高校の夜学にも通っていたので睡眠時間は短かったですけど、移動中にすぐに寝られるようになりましたね(笑)。

でも、叩き上げというか、わからないながらもやって、失敗しながら育っていくという環境だったから今の自分があるなというのはすごく思いますね。もちろん事務所から守られている部分も絶対的に多かったんですけど、でも、それ以外の技術とか、そういうことを学ぶ場所って、デビューする前に歌のレッスンをやったり、踊りのレッスンをやったり…上手い下手は別として、デビューすることが先にもう決まっているものだから、それでデビューしていくじゃないですか。

そこからの伸びしろって、本当に恥ずかしながらも大失敗しながら覚えていくという積み重ねが多かったんですよね。でも、それは本当に叱られながらですけれども、今も続けてこられている。それはメンタル的な部分もそういう強さみたいなものは、やっぱりあの時代だったから鍛えられたのかなって思います。ほぼほぼ最後なんですよね。アイドルの全盛期と呼ばれるあの時代の。レコード会社と事務所をあげて新人賞レースとか色々としていただいたり…本当にいい経験値を与えていただいたなという風に思います」

――歌番組もいろいろありましたしね

「そうですね。ちょうどなくなっていくという頃だったんですけど、それでもまだまだありましたし、その後、バラエティー番組などで司会をやらせてもらったりとか、アイドルの働く場所(ジャンル)が変わっていった時期でもありましたね」

――85年は“アイドル豊作年”と言われましたね

「はい。すごくいっぱいいました。82年(デビュー)組(石川秀美さん、中森明菜さん、小泉今日子さん、早見優さん、原田知世さん、堀ちえみさん、三田寛子さんなど)もすごかったんですけど。ちょうどいい感じで先輩がいて、新人がいて…みたいな流れがすごく多かったので、番組もそういう形で出させていただくことが多かったですね。

その流れで同じ事務所の石川秀美さんの妹分的な感じで親しんでもらえて。あの時代、85年の番組の多さと、あとはお茶の間に顔を出している時間が多かった分、覚えていただけているという感じでしたね。事務所とレコード会社の方のおかげです」

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■初舞台「阿国」が転機に!マネジャーに引きずられるようにして稽古場へ

1990年、ミュージカル「阿国」に出演。この作品は、歌舞伎の創始者「出雲の阿国」の四条河原進出から、興行資本と若手に圧され、体制から抑圧されるまでの半生を描いたもの。芳本さんは、主人公・阿国(木の実ナナ)のライバルである若手の踊り子・お丹役を演じた。池畑慎之介さん演じる猪熊少将に恋をする役どころ。芳本さんはこの作品で、第28回ゴールデン・アロー賞・演劇新人賞を受賞した。

「ちょうどアイドルとしての転換期で、レコードが終わる終わらないぐらいの時ぐらいに、初舞台の『阿国』をやることになったんですけど、最初にこの話を聞いた時は『無理。できっこない』って思って。その時ぐらいからちょうど関川さん(現在のマネジャー)とご一緒しているんですけど、本当にそうだったんです。

キャストの顔ぶれもベテランのすごい方ばかりだし、難しい芝居じゃないですか。やっぱり怯みますよね。まだ21ぐらいで、ずっとアイドルでやってきて芝居なんて一つもしたことがないのに、いきなりあそこに放りこまれて。本当に素人の粋がっている私が新人としてあそこに入るのは、やっぱりすごく怖かった。『失敗したらどうしよう?』って怖くなっちゃって。稽古に行きたくなくて、マネジャーに引きずられるようにして行っていました。

最初は程度が知れないようにカマしていましたけど、でも、セリフを一言でも言えば大体のことはわかるじゃないですか(笑)。本の読み合わせをしたりしていくうちに、主役の(木の実)ナナさんはじめ、上條恒彦さん、池畑慎之介さん 、鷲尾真知子さんとかいらして、皆さんが見守ってくださっていたという感じですね。できるとか、できないというのは置いておいて。

ものすごい熱量だったんですよ。他の役者さんたちは、どんどん役を作り上げていくのに私だけ何もできない。こうなったらとにかく必死に先輩方の演技を見て何とか覚えようと。そして歌だけは周りの足を引っ張らないように頑張ろうと開き直りました。演出が栗山民也さんだったんですけど、手取り足取り教わったという感じで本当にお世話になりました」

――芳本さんは声量もありますし、溌剌(はつらつ)としていてとても合っていると思いました

「ありがとうございます。皆さんのおかげです。本当にお世話になりましたから。ピーター(池畑慎之介)さんにも可愛がっていただいて、ちょっと強い味方がいたりとかしたので嬉しかったですね。生き生きと最後はさせていただけるようになっていました。

そういうベテランの先輩たちが固めているお芝居に何もわからない新人で入れるという環境自体、なかなかないじゃないですか。背中を見て覚えるという状態を学ばせていただいたので、本当にありがたかったです」

――栗山さんの演出スタイルはいかがでした?

「多分本来はもっと細かく色々演出されるんでしょうけど、言ってもできないですからね。『こうやってみて』みたいな感じで、ほぼほぼ手取り足取り教えてもらいました。

もう眠れないですよ。稽古が始まっても眠れない。

セリフや動きを覚えることももちろんそうですし、演技をしながらセリフを言うというのは、歌を歌うのとは訳が違うので。ただ、自分の中で負担ばかり大きいと、いっぱい、いっぱいになっちゃって、手も足も出なくなっちゃうので、最終的には自分の中で歌だけは頑張ろうという風な腹のくくり方をしていましたね。アイドルとはいえ、一応歌手として皆さんにお届けできているので、歌だけは頑張ろうって、ちょっと開き直ってやり始めました」

――初日の舞台が終わった後はどうでした?

「もう号泣でした。やっぱり怖かったのと、『できた!』っていうのと、あとは楽しかったんでしょうね。興奮がすごくてなかなか冷めない状態でした。それで、そこからだんだんお客さんにも学ばせてもらえたりする中で、毎日少しずつ変わっていく部分があるじゃないですか。そういうのをだんだん楽しめるようにはなれました」

――千秋楽の後、燃え尽き症候群みたいになったのでは?

「そうですね。『もう、終わっちゃうのか』ってロス感が大きくて。自分の中で味わったことがないような感じのことが起きましたね。でも、それがあるから楽しいというか。コンサートはひとりの世界だけど、舞台は本当にみんなで作りあげていく。そこが面白いなあって。自分だけの力じゃどうにもできない。この世界はすごく私に向いていると思いました。

いつの間にか舞台の魅力に引き込まれていましたね」

――舞台はみんなで最初から作り上げていって、最終的に完成形になるので達成感が大きいですよね

「そうですね。あと、本当にお世話になりましたというね。どう言ったらいいんだろうな?自分もよく頑張りましたなんですけど、本当にお世話になりましたって思います。

もちろん反省点も毎回残りますけれども、それはまた次の段階への自分のチャレンジだと思っています」

芳本さんは、翌年シェイクスピアの「夏の夜の夢」に挑戦。「TRICK 劇場版」をはじめ、多くの映画、ドラマに出演。2009年には、劇団アクターズマップの旗揚げ舞台公演で演出にも初挑戦するなど活躍の場を広げていく。次回はエピソードなども紹介。(津島令子)

※芳本美代子プロフィル

1969年3月18日生まれ。山口県出身。1985年、「白いバスケット・シューズ」で歌手デビュー。シングル19枚、オリジナルアルバム8枚発売。ミュージカル「阿国」、「ママまっしぐら!」シリーズ(TBS系)、「同窓会」(テレビ朝日系)、大河ドラマ「花燃ゆ」(NHK)、「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY【劇場版】」(村石宏實監督)、映画「ゆずの葉ゆれて」(神園浩司監督)、映画「最果てリストランテ」(松田圭太監督)などに出演。近年は舞台の演出も手がけ若手育成にも尽力。大阪芸術大学短期大学部メディア・芸術学科教授。YouTube「みっちょんINポッシブル」の出演をきっかけに同期の網浜直子さん、松本典子さんとともにユニット「ID85」を結成。40周年記念ライブも話題に。12月24日(水)に「CHRISTMAS DINNERSHOW」(六本木BIRDLAND)を開催。2026年1月23日(金)に映画「愛のごとく」が公開される。

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