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2026年2月27日 14:25

萩原聖人 15歳で俳優デビュー!木村拓哉とW主演した伝説のドラマ「若者のすべて」で不仲説が囁かれたが…

萩原聖人 15歳で俳優デビュー!木村拓哉とW主演した伝説のドラマ「若者のすべて」で不仲説が囁かれたが…
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1990年に放送された「はいすくーる落書2」(TBS系)の松岡直次郎役で圧倒的な存在感を放ち注目された萩原聖人さん。「若者のすべて」(フジテレビ系)、映画「マークスの山」(崔洋一監督)、映画「CURE」(黒沢清監督)などに出演。韓国ドラマ「冬のソナタ」のペ・ヨンジュン、アニメ「逆境無頼カイジ 破戒録篇」(日本テレビ系)のカイジ役など声優としても定評がある。2018年よりプロ雀士としても活躍。4月24日(金)に主演映画「月の犬」(横井健司監督)が公開される萩原聖人さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

■中3の時にアメリカ旅行で俳優になることを決意

神奈川県茅ヶ崎市で生まれ育った萩原さんは、3歳の時に両親が離婚。父親と暮らすことになるが、10歳の時に父親が亡くなり(父方の)祖父母に育てられたという。

「僕が10歳の時に父が心不全で急に亡くなって。その頃僕は父方の祖父母のところに預けられていたんですけど、離婚したということは知らなくて、母は東京で出稼ぎしているみたいなイメージだったんです。

父が亡くなった時に『実は離婚していたのよ』って言われて。母は東京に来ないかと言ったんですけど、その時の環境、学校の友だちと遊ぶのが楽しかったので、茅ヶ崎に残ることに。

それはもしかしたら母にとっては、かなりショックだったかもしれないな。でも、その時はそんなことは何も考えられなかったので、祖父と祖母のところに残って…という感じでしたね。

――麻雀を始めたのも中学生の頃だとか。早いですね

「そうです。中学校の友だちに誘われて。今のように娯楽はあまりなかったんですよ。ゲームもあまりなかった。

でも、中学生で麻雀は確かに早いかな。当時、僕は母と2,3カ月に1回くらい会っていたんです。茅ヶ崎と東京だったので、たまに東京に遊びに会いに行くみたいな感じで。

そうすると夜は必ず麻雀をやっていたんですよ、祖母と母と。ただ、あまりいいイメージがなくて、むしろネガティブなイメージの方が強かったんです。だから、わからないものですよね(笑)」

――アメリカに行かれたのは中学生の時ですか

「そうです。中学時代の僕があまり優良ではなかったんですね。今でこそ茅ヶ崎は、ちょっといいミッドタウンみたいになっていますけど、当時はまだ何もなかったし、いろいろ悪さをしていて。

と言っても可愛いものですけど、祖父と祖母はやっぱりショックを受けて。東京にいる母に、『父親も死んじゃったし、あの子はこのままだとヤクザになっちゃう。どうしよう?』って相談したらしいんですよね。

母は元々演劇とか映画、芸術や文化にすごく興味のある人だったから、そういった道に行かせたいという思いがあったみたいで、お金を貯めていてくれたんです。

それで、何か刺激を与えたいと、中学3年生の夏休みに海外旅行に行きなさいと言われてアメリカに行くことに。

母は一緒に行きたかったらしいんですけど、女親が鬱陶しい時期というか、思春期のそういう時期だったので、母の知り合いの版画家の方が保護者代わりみたいな感じでついてきてくれることになって。2人でアメリカ横断というか、ロス(ロサンゼルス)からサンフランシスコ、ラスベガス、ニューオーリンズ、最後はニューヨークへ。一番長く滞在しました。

その先生も演劇やミュージカル、映画を見るのが好きだったので、チケットが安く買える店に毎日通って見に行っていました。たくさんの映画や舞台を見るなかで徐々に俳優という仕事をやってみたいと思ったんです」

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■「あぶない刑事」で俳優デビュー!

萩原さんの母親は、新宿で居酒屋を経営していて、そこには映画やドラマ関係者が多く訪れていたという。

「当時、日本の映画界は『ビー・バップ・ハイスクール』(那須博之監督)という映画が爆発的にヒットしていたんですね。中高生のヤンキーのバイブルみたいな感じで(笑)。実写化されて仲村トオルさんと清水宏次朗さんが主演で、それに出たいって思っていたんですよ。

母が経営していた居酒屋に、その映画を作っていたセントラル・アーツという会社の社長やキャスティングプロデューサーがよく食事に来てくれていて、うちの母とか祖母と麻雀をしていたんですね。

僕は中学卒業後、役者をやりたいからと言って上京して母のお店でアルバイトをしていたんです。それで母がセントラル・アーツのスタッフさんに紹介してくれたんです。

たまたま母の店で『あぶない刑事』(日本テレビ系)のキャスティング会議をしていて、キャスティングプロデューサーの方が僕を見て、『お前は「ビー・バップ」はダメだな。顔が優しすぎるから、お前はこっちに出ろ』って、『あぶない刑事』の台本を渡されて16歳の少年の役をやることになって。

『あぶない刑事』に出ることになったのはいいけど、お芝居も何もやったことがないので、助監督の方に言われて日活撮影所に見学に行ったり、助監督の方が付き合ってくれてセリフの練習をしたり…。

何しろ浅野温子さんと(柴田)恭兵さんと舘(ひろし)さん、この3人とお芝居する役で、特に浅野さんとはすごくセリフを交わす役柄だったので、とても緊張しました。初めてだし事務所にも入っていなかったので、母のお店のお客さんだった芸能事務所の社長さんが現場にわざわざ来てくださって。

浅野さんも舘さんも恭兵さんもどこの事務所にも所属していない、よくわからない少年にめっちゃ優しくしてくれたんですね。今考えれば、もう亡くなっちゃった僕の恩人である黒澤満さんとかが、僕の気づかないところで気にかけてくれていたんだと思います。

それで撮影が終わって、みんなでオンエアを母のお店で見ようということになったんです。そこに昨年亡くなったアルファエージェンシー(事務所)の社長・万代博実さんがいて、オンエアを見た後、僕のマネジメントをしたいとお袋に言ってくれて。

撮影についてきてくれた社長の事務所というのが、有名な俳優さんが所属されていた事務所だったので、僕は子ども心にもそっちに行った方がいいんじゃないか、と思ったんです。

当時アルファエージェンシーは小さい事務所でしたし、オフィスも間借りしているような状態だったんですけど、母が『大きな事務所に行って、マネジャーに預けられるより、社長が直接マネジメントしたいと言ってくれている方がいいんじゃないか』ってアドバイスをくれて。母が万代さんをすごく信用していたんだと思うんですよね。それでお世話になることになりました」

――結果的に大正解でしたね

「人生何が正解かわからないですけど、本当に万代さんと一緒にいた時間が僕をかなり形成している部分があると思います。価値観とか仕事に対する考え方とか。亡くなって以降、大事なところでは必ず万代さんの声が聞こえますね。

すごい人でしたから。僕はずっと万代さんしか知らないですし、万代さんが作った事務所に40年在籍させてもらっているわけなので、万代イズムを叩(たた)きこまれたというか。助けてもらったことしかないですし、本当に父親、もしくは父親以上の距離感でずっと一緒にいさせてもらえたと思います。

去年亡くなりましたけど、不思議なもので、生きている時は素直に受け止められなかったことが、全て金言に変わるみたいな感じで。マインドというか、そこは改めて考えながら生きていこうと思っています」

――万代さんは、本当に役者さんたちに愛がある方でしたね

「常に役者の味方ですからね、何があっても。よく怒られもしましたけど、基本的には俳優の味方。クリエイターの味方というか、監督を含め、作品というものが大好きな人でしたね」

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■金髪スポーツ刈りの不良少年役で注目の存在に

1990年、「はいすくーる落書2」に出演。このドラマは、不良ばかりの高校に赴任した新米教師(斉藤由貴)の奮闘を描いたもの。萩原さんは、かつて伝説の不良といわれていた生徒・松岡直次郎役。演技力に加え、金髪を入れたスポーツ刈りも印象的だった。

「事務所に入ってからはオーディションに行きまくっていました。受かったり受からなかったり…という感じでしたね」

――「はいすくーる落書2」の萩原さんは、触れたら切れてしまうむき出しの刀みたいな感じでした

「本当にそうだったと思います。芝居に対しては今よりストイックだったし、負けず嫌いだったので。ライバルがいっぱいいるわけですよ。学園もののオーディションが多くて、行けば周り全員がライバルじゃないですか。事務所の大きさではまず負けているみたいに思ってしまうところもあって。

自分は野良だけど、演技で勝負してやるんだという意識が強かったから、より勉強したし、そういうとんがり方だったんですよね。別にむやみやたらに悪態ついていたわけじゃないんですよ(笑)」

――(「はいすくーる落書2」の)松岡役にぴったり合っていましたよね

「ありがとうございます。あれも不思議な縁というか、運というか…。あのオーディションがある前に、『遥かなる甲子園』(大澤豊監督)という映画で沖縄に撮影に行っていて。それで、『はいすくーる落書2』のオーディションがあると言われたんですけど、すでにスポーツ刈りにしてしまっていて。

(髪の毛は)少しだけ残っていたので、オーディション前に美容師さんに相談したら、『この長さでやれることはないな。とりあえず色を抜くか』となり、色を抜いて金髪になったら『これカッコいいじゃん、これで行こう』ってなったんですよね。

オーディションでは台本上に生徒A、B、C、Dって振られているんですよ。誰がAになるかBになるかわからない。

Aはゲスト主役、Bは準主役、Cは賑やかしで、Dはちょっとしか出ない役でしたが、何かありそうだなみたいな匂いがあって。そうしたらオーディションを兼ねたリハーサルの時にDをやってと振られたんですよね。

ラッキーと思っていたらさらに2話でバーンと出てきて、めっちゃカッコいい役だったので、本当にツイていました(笑)。

当時同世代の俳優が集まっていたし、チーマーとか若者文化が流行(はや)っていた時代だったんです。だけど僕は、ワチャワチャするのが苦手で。仲は良かったですけど、結構ひとりでいる時間が多かったと思います。そういうところをスタッフさんが見てくれていたのかも…」

――結果的に一番印象に残る役になって話題になりました

「『誰?』ってやっぱり思いますよね。だけど、あそこでああいういい役をもらったからと言って売れるかどうかは別だし、次の仕事に繋(つな)がるかどうかは別問題なので。

ただ、オンエア中にすごく人気が出ているという実感はありました。街を歩いていても、不良に絡まれるかと思いきや、『応援しています』とか『見ています』みたいな感じでしたから、かなりインパクトがあったんだなとは思いました」

――松岡くんを演じてご自身の中で変化はありました?

「イケるとかっていうよりかは、焦りでしたね。つまり、自分の人生プランとしては、30歳を過ぎるくらいまでは売れないだろうなって思っていたんです。いつ売れるかもわからなかったし、まさか10代で売れるなんて思ってなかった。ちょうど4年目ぐらいだったから19歳だったと思うんですね。

急に周りに背中を押されたというイメージで、『どうしよう?』みたいな。このまま順風満帆にいくほど実力もなければ、何の基礎もないわけですよね。

芝居は好きだったから10代はよく知り合いのアングラ劇団に出させてもらったりしていたんですけど、大手の事務所でもないのに売れるなんて、ちょっと特殊なケースだった気がするんですよね、当時は。

でも、そこでやっぱり出てくるのが結局万代さんで、調子に乗らないように、何でもかんでも仕事は引き受けない。自分がやらせたいと思うものしかやらせないみたいな感じでしたから、骨太の作品ばかりを選んできて。

10代で売れたことは計算外だったかもしれないですけど、やらせたいものというのは万代さんの中にはちゃんとあったんだと思います。要は芸能の仕事はさせないよと。『人気が出たからお金には繋がるかもしれない。その時うまくやればだけど、お前は役者だからな』ということは常に言い聞かされていましたね」

――事務所の俳優さんたちの生活が成り立つように声のお仕事やCMなども考えていらっしゃいましたよね

「そうですね。僕らが単純思考で、目先のこれをやった方がいいんじゃないとか、お金になるんじゃないかと思っても全くぶれなかった人でしたね。だから、本当に信頼できる人でした。それが僕にはわからない時期もあったので、ケンカをしたこともありました。

特に10代でワーッと出ると、全然ジャンルが違うところからもいろいろな話がくるんです。『歌を出しませんか』とか、『写真集を出しませんか』とか(笑)。

でも、僕もそれはやりたいと思わなかったんですよ。だからそこらへんは完全に万代さんと一致していました。僕も芝居をやりたいと思って始めたことだったので、そこは万代さんも『こいつはそれがわかっているはずだ』と思ってくれていたと思います」

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■伝説の青春群像ドラマに木村拓哉さんとW主演!

1994年、23歳の時に30年以上経った今でも語り継がれる伝説のドラマ「若者のすべて」(フジテレビ系)に木村拓哉さんとW主演。この作品は、川崎の下町を舞台に、亡き両親が遺した工場を営む哲生(萩原聖人)、ある事件を機に姿を消した武志(木村拓哉)ら幼馴染たち(武田真治・鈴木杏樹・深津絵里)が苦悩しながらも懸命に生き抜く姿を描いたもの。

「当時のトレンディードラマは、どの作品も出演者がすごかったですし、その中で、若者だけでやる作品だったじゃないですか。大人はほとんど出ないみたいな感じで。僕にとって連続ドラマ初主演でしたし、勝負だったんですよね」

当時、萩原さんが「役者は俺一人なんで、ほかのやつらはどんな芝居するかわかりません」と強気な発言をしたことが発端で、木村さんとの「不仲説」や「共演NG」などと報じられたこともあった。

「その時は、自分に自信もあったし、絶対にこれはとんでもないドラマにするっていう気しかなかったので、ああいう発言に繋がるわけですね。

本当に反省しています。当時の勢いもあって、自分の本音だったと思うんですけど、ただ、特定の誰かを傷つけるとか、そういうつもりで言ったわけじゃなかったんですけどね。こんなこと言わなきゃよかったって。愚かだったなって」

今年1月24日、木村さんが自身のYouTubeチャンネルで公開した動画が話題に。萩原さんが麻雀の対戦相手として紹介され、長きにわたり「不仲説」「犬猿の仲」と囁かれ続けてきた2人が、32年の時を経て当時のことを語り合い、熱い抱擁を交わす姿はまるで映画のようだった。

「自分が愚かな失礼な発言をしたと思っていたので、時間が経ちいつか再会した時に、こういう話ができればいいなとずっと思っていたんですよね」

――木村さんとは「華麗なる一族」(TBS系)や「BG〜身辺警護人〜」(テレビ朝日系)でも共演されていますね

「そうなんですよ。だから、『共演NG』って言われていたけど、共演しているからNGじゃないよねって(笑)。

拓哉とのエピソードで僕がすごく好きなのが、犬の散歩で出くわした時の話で。うちの犬はすごく小さいんですよ。それで犬の散歩をしていたら、向こうからでっかい犬が来て、どうしようと思っていたら、向こうの飼い主がうちの犬に気がついて方向転換して道を譲ってくれたんですよね。

良かったと思って見てみたら、拓哉だったんですよ。『あっ、拓哉だ』って言ったら、向こうも『聖人だ。ちっちぇえな』って言われて(笑)。だから『お前んとこはでっけえな』って言ったんですけど、それが2、3年前だったかな」

――木村さんがおっしゃっていましたが、萩原さんは「若者のすべて」の頃から麻雀の本を読んで勉強されていたのですね

「いろいろ研究していました。1番になろうと思っていましたから、僕は(笑)」

――それを見て木村さんは「麻雀とゴルフだけはやらない」と言っていたとか

「そうそう。そうなんですよ。やらないって言っていました。それが一緒に麻雀をやっているんですからね(笑)」

――お互い認め合っているから32年経ての熱い抱擁があったのでしょうね。「若者のすべて」の哲生と武志とオーバーラップしました

「本当にそうですね。だから拓哉のYouTubeに『聖人を呼ぼうよ』って言ってくれたのも、

僕は狙いとか一切あると思ってなくて。Mリーグ(麻雀プロリーグ戦)をやって頑張っているんだったらっていうこともあると思うし。何かお互い『若者のすべて』の時の哲生と武志の伏線回収がこういう感じでされていくというのは人生だなと思います」

――あれを見て、「若者のすべて」を見たいと思う若い人もいるでしょうね

「若い世代の人に見てほしい。ああいう工場地帯の将来を不安視する若者の時代背景と、今の時代背景はちょっと違うのかもしれないですけど、悩みの部分、ここからどういう大人になっていくんだろうとか、どういう仕事をしていくんだろうという部分で言えば、多分そんなに変わらないと思うんですよ。手前味噌ながら本当に名作だと思うので、見られる機会があればぜひ見て欲しいです」

「若者のすべて」で俳優としてさらなる注目の存在となった萩原さんは、翌年公開された映画「マークスの山」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞とブルーリボン賞助演男優賞を受賞。「ドリーム・スタジアム」(大森一樹監督)、「この世の外へ クラブ進駐軍」(阪本順治監督)など主演映画も続く。2003年には「冬のソナタ」で声優としても話題に。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※萩原聖人プロフィル

1971年生まれ。神奈川県出身。1987年の俳優デビュー以来、ドラマ、映画、舞台など幅広く活躍。93年の映画「学校」、映画「月はどっちに出ている」、映画「教祖誕生」(天間敏広監督)で日本アカデミー賞新人俳優賞、話題賞、95年「マークスの山」、97年「CURE」で同賞優秀助演男優賞他を受賞。近年の主な出演作に、「神の子はつぶやく」(NHK)、「ゴールデンカムイ-北海道刺青囚人争奪編-」(WOWOW)、「恋は闇」(日本テレビ系)、「北方謙三 水滸伝」(WOWOW)、「横浜ネイバーズ Season2」(WOWOW)、映画「Fukushima 50」(若松節朗監督)、映画「島守の塔」(五十嵐匠監督)、映画「海の沈黙」(若松節朗監督)、映画「長崎−閃光の影で−」(松本准平監督)、映画「栄光のバックホーム」(秋山純監督)、映画「ハローマイフレンド」(市井昌秀監督)など。待機作に映画「君が最後に遺した歌」(三木孝浩監督・3月20日公開)、映画「2126年、海の星をさがして」(金子修介監督・3月20日釧路にて先行上映)、主演を務める『月の犬』(4月24日公開)が控えている。3月29日より舞台「ケムリ研究室no.5『サボテンの微笑み』」(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)に出演。

ヘアメイク:小口あづさ(NANAN)

スタイリスト:中山浩一郎

衣装:1PIU1UGUALE3

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