1980年、映画「ヒポクラテスたち」(大森一樹監督)で本格的に俳優デビューして46年、出演作が引きも切らない内藤剛志さん。「家なき子」(日本テレビ系)、「科捜研の女」シリーズ(テレビ朝日系)、「警視庁・捜査一課長〜ヒラから成り上がった最強の刑事!〜」シリーズ(テレビ朝日系)、映画「千と千尋の神隠し」(声の出演・宮崎駿監督)などに出演。1995年から2001年にかけて“27クール続けて連続ドラマ出演”という日本記録を打ち出し“連ドラの鉄人”と称される。5月8日(金)に映画「幕末ヒポクラテスたち」(緒方明監督)が公開される内藤剛志さんにインタビュー。(この記事は、全3回の前編)
■ミュージシャンになるために上京
大阪府で生まれ育った内藤さんは、小学校3年生の時に「NHK大阪児童劇団」に入り、中学1年生まで子役として活動したがミュージシャン志望で、小さい頃はピアノを習っていたという。
「音楽好きだったのでジャズ・ミュージシャンになりたかったですね。高校ぐらいの時からマジになろうと思っていて、サックスを吹いていたんです。それで、東京まで出てきて1年間は音楽関係の学校に行ったりしていましたけど、レベルの違いを痛感して諦めたんです。
でも、表現の仕事がしたかったので、音楽であっても演劇であっても、あるいは絵でも一緒だったかなと思いますけど。
それで、次の年に日芸(日本大学芸術学部)に入ったんですけど、そこで長崎(俊一)と出会って、自主映画の制作をするようになって。授業に出る意味がないなと思ったので、在籍期間は長いんですけど休学していたんですよね。
2年目に文学座に入ったので、そっちの方が忙しくなったというのもあるんですけど、
そこに何年かいて、もう仕事を始めていましたよね。
映画を作るのにフィルム代とかお金がかかり始めていたので、朝日新聞社でアルバイトしながら。(バイトは)原稿をバイクで届ける仕事でした。今のバイク即配みたいなものです。
芝居もやっていたので、20代前半の2年間ぐらいやっていました。撮影する時は休むので飛び飛びでしたけど、そんなやり方でした」
――1980年に映画「ヒポクラテスたち」で本格的に俳優デビューされることに
「そうです。当時はアパートに電話もない頃で、バイト先の朝日新聞社に大森さんから電話がかかってきて。『ちょっと映画撮るわ。出るか?』って言われたので、『わかりました。行きます』と返事をしました。電話を切った後、『お世話になりました』と言ってバイトを辞めてから一度もバイトはしていません」
大森さんとは自主映画をやっている時からです。引っ張ってくれていましたから。
それでバイトも辞めたんです。もういいかなと思って。
バイトって長くやると頼られるというか、主要メンバーになっていくし、頼られるとやっぱり応えたいと思うじゃないですか。なので、そういう意味で言うならば、あまりそこにいるべきじゃないなとちょっと思い始めていたんですよ。僕の本分はそこにないなって。だから、いいきっかけでしたね。長くいると良くないなとは思っていました」
■大森一樹監督が自らの体験をもとに描いた映画で本格デビュー
映画「ヒポクラテスたち」は、京都府立医科大学医学部を卒業した大森一樹監督が自らの体験をもとに、大学病院での臨床実習を通して、医術を身につけていく若者たちを描いたもの。
「監督が医学部出身なのはよく知っていたし、その前に『オレンジロード急行』という映画を撮っているけれども、一生涯のうちに1本はそういうもの、自分のことを撮るということを聞いたことがあるんですよ。
だから、これは大森さんにとってのその一本かなって思いました。当然そういうものをおやりになりたいんだろうなと思っていたから、『なるほど、こういう形なのか』と思って。
やっぱり医学生でありながら映画を撮るということの意味みたいなことがそこにあったんだろうしね。そういう意味で言うと、自分の人生の一番大事なものを映画化されるんだなと思って、それに参加させてもらうのはすごく嬉(うれ)しく思いました」
――医学部を卒業して映画監督になったということで話題になりましたね
「珍しいでしょうね。医学部に入ったけど途中でやめちゃうという人はいるんだけど、ちゃんと卒業して映画監督に…というのは、確かに異色ですよね。
手塚治虫さんは漫画を描かれていましたけど、やっぱりお医者さんですね。そういう方もいらっしゃいますけど、映画監督はあまり聞かないかもしれませんね。『ヒポクラテスたち』に手塚さんも小児科の教授役で出ていますけど」
――撮影はいかがでした?
「自主映画ではないけど、僕たちはずっと一緒にやっていたので、撮影の仕方は全く同じでした。この映画は、各界からの方たち、例えば演劇運動の小劇場の中からは柄本明さんだったり、国民的なアイドルである(伊藤)蘭ちゃんであったり、あるいは映画の中ですごくいいやつがいるということで古尾谷雅人とかが来ているんですよ。
だけど、それぞれの場所を代表してきている人だから、一色にならないんですね。そういうみんなで作っている感というのは非常にあって、他の方もそうです。
『劇団スーパー・エキセントリック・シアター』になる前の『劇団大江戸新喜劇』と言っていた頃の斎藤洋介、そういう風にみんな出自が違うから楽しくて。
全然違う人間が集まって、『みんなで作ろうぜ!』っていう感じだったから、非常に活気のある現場でしたね。京都の学生寮にみんなで泊まって、つまり衣食住ずっと一緒にいたんです。なので、合宿みたいな感じでしたね」
――内藤さんは、左翼社会運動に身を染める南田慎太郎役でしたね
「リベラル(自由主義者)ですごく個性の強いやつでした。僕の言動みたいなものがそういう風に見えたんでしょうね、大森さんには(笑)。
別にそういう思想的なことはないんですけど、どっちかというと反抗的な人だったと思うので、そういう役になったのかなって。『なるほど』ってちょっと思いました」
――「ヒポクラテスたち」に出演されたことで変化はありました?
「基本的にはあの映画がプロというか、本格的なデビュー作品になるわけで。もちろんテレビや自主映画には出ていましたけど、あの映画に出たことによって、いろんな方から声がかかるようになって。
事務所にも所属させてもらったので、プロの第1歩みたいな意味で言うならば、あの映画がその扉を開けてくれたんだと僕は思います」
■自主映画仲間・長崎俊一監督初の劇場用映画に主演!
1982年、映画「九月の冗談クラブバンド」(長崎俊一監督)に主演。長崎俊一監督の劇場用映画監督デビュー作となったこの作品は、走ることを止めた元暴走族のリーダーと、彼をとりまく昔の仲間たちの青春群像を描いたもの。
内藤さん演じる主人公は、かつては“ハマのリョウ”と呼ばれ、暴走族仲間に伝説的に語られる男。1年前に仲間の徹司が事故死して以来、バイクを捨て、「冗談クラブ」というスナックの雇われマスターをしていたが、徹司の一周忌にリョウの伝説は甦り…という展開。
――よくわからない部分もありましたが、ものすごい熱量を感じました
「ATG(日本アート・シアター・ギルド)ですよね。長崎のやりたいことがやっぱりあったんでしょうね。表現としては、わかりやすい表現ではないですけども、走ることをやめてしまった男と、今走ろうとしている古尾谷(雅人)がいて。その熱量はすごかったですよね。
長崎監督の初めての35ミリですから。
やっぱり長崎がいいなと思ったのは、全く変えてしまうこともできるわけじゃないですか。キャストにしてもね。でも、自分たちがやってきたことを証明していこうというような意識があって、全部変えることもできたと思うんですけど、そうしなかった。
そこはやっぱいいなと思いました。ちゃんとそれを通して、作品として作り上げているわけですから。自分たちがやってきたことが間違っていないし、自分たちでやってきたことを否定しないという意味で僕にとって大事な映画ですよね」
――この作品が27歳の時で、この年にご結婚されたのですか
「その頃です。正確に言うと結婚したのはその次の年かな。出会ったのは18歳ぐらいで、同棲したりしていたから、ほとんど結婚していたようなものでしたけど」
1993年、映画「悪役パパ」(鹿島勤監督)に主演。この作品は、初めて主役を演じることになった悪役専門のベテラン俳優の情熱と家族の絆を描いたもの。
ベテランの悪役俳優の芥田労(内藤剛志)は、妻を失くしてからは酒もやめて、ひたすら殺され役専門で奮闘しているが、娘たちはそんな姿を同級生から馬鹿にされ恥ずかしく思っている。そんなある日彼にも初主演のチャンスが巡ってくる…。
――悪役俳優に突然主演の話が舞い込むという設定が面白かったです。主演作品も多いですね
「もともと劇団もそうですし、主演なんですよね。だから、自分の立ち位置みたいなのはその感覚で、ワンシーン出てきてガツっとやるタイプじゃなくて。
今でもそうですけど、僕は主演することが、そんなに気分を変えるとか、気合を入れ直すとか、そういうのではないんですね。主役もそうじゃない時も特に変わったことはなく普通に、当たり前ですね。
1994年、「家なき子」(日本テレビ系)に出演。この作品は、酒浸りで暴力的な養父(内藤剛志)を殺そうと家に火を放った少女・すず(安達祐実)が、不遇な現実に立ち向かい自分の居場所を求めさまよう姿を描いたもの。安達祐実さんの「同情するなら金をくれ!」という劇中の台詞(セリフ)が、新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームになった。
内藤さんは、戸籍上はすずの養父・相沢悟志役。画家志望だったが、稀有(けう)な才能を怖れた画壇の陰謀によって画家の道を閉ざされて以来、粗暴な性格に変貌。深酒やギャンブルに興じ荒れた生活を送るようになり、すずを敵視し執拗な虐待を繰り返して犬猿の仲となるが、実はすずが実の娘だと知らされる。
――強烈なキャラで印象的でした
「皆さんそうおっしゃるけど、あれだけですよ。僕はあれしかないんです。ああいう役をそんなにやっているわけじゃないのに、やっぱりあの役が強烈だったというのはあります。2シリーズやりましたけど、その後、子どもをいじめるような役があるかというと、ないんですよ。もちろん犯人役はありましたけど。だから不思議ですよね」
――虐待シーンは撮影していていかがでした?
「全然。だって仕事ですから。僕は、役との距離感みたいなものが一緒なんですよ。それは今でもそう。今は、あまりそういう仕事はこなくなりましたけど、犯人だろうが、いい人だろうが、もっと言えば、ちょっとしか出ない役だろうが主役だろうが、僕は全部一緒なんです、役との距離みたいなものが。
なので、『家なき子』も単に要求されたことをみんなで一生懸命やっていただけで、ああいう要素が自分の中にあるとか、家族に対して恥ずかしいとか全くないですね。仕事ですから。嫌な思いをしたことはないです。だから、やっぱり見ている人の方が賢いんじゃないですか。
本当にそうだと思うんじゃなくて。
『家なき子2』から数年後には『科捜研の女』(テレビ朝日系)も始まりましたし、CMもめちゃくちゃ増えましたからね。なので、多分みんなの口に上るというか、みんなが知ることが、この仕事では大事なんでしょうね。
だって、本当に虐待する変な人だという風にはまず思わないし、演じる側としてもそこはちょっとコツがあってですね、本当にそう思われるとやっぱりダメなんですよね。思われないように演(や)るというのは大事なことだと思います。今でもそれは心がけていることですけど。
見ている方が感情じゃない、生理的なところで嫌だと思ったり、不快感みたいなものを抱いたら絶対ダメなんですよね。だから、それは今でも気を付けています」
――それはご自身でいろんな経験をされてきて身につけたわけですか
「そうだと僕は思います。僕なりの分析ですよ。こうした方がいいんじゃないかと誰かに習ったわけでもないし、その答えがあるわけでもないんです。
わかりやすく言うと、例えば生放送の番組で激高したりキレる人がいるじゃないですか。
そういうのを見て、ちょっとヒヤっとすることはありませんか?嫌な気になる時がありますよね、人によっては。
あれは、俳優も同じなんですよ。例えば演技だけど、誰かを怒鳴っているとか、誰かを叩(たた)くとかいう時に感じるものって、演技でやっているというのはあるんだけど、それを超えたところで嫌な気にさせてしまったら、そこはちょっと回復できないんだよね。ここがわかるかわからないかは結構大きな分かれ目だと思います。
でも、俳優というのは、それぞれが自分のやり方でやっていく個人事業主みたいなところがありますから、ほかの俳優を批判する気はないですけど、自分はそこに気を付けていますね。
それだけじゃないと思いますけど、人間って初めて会った人でも、どんな人かということを何となく想像しながら会うと思うので、変な形で印象付けると得じゃないと思う。
だから、初めの第一印象が悪かったら、映画やテレビもそうですけど、ダメなんですよね。
そこなんだと思います。これは別にコツというわけでもないけど、そこを意識するかどうかということだと思います」
確かに悪役を演じていても、劇中以外での嫌な感じは一切与えず、刑事ドラマを代表する存在として「科捜研の女」、「警視庁・捜査一課長〜ヒラから成り上がった最強の刑事!〜」、「警視庁強行犯係・樋口顕」シリーズ(テレビ東京系)など多くの刑事ドラマシリーズに出演。次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※内藤剛志(ないとう・たかし)プロフィル
1955年5月27日生まれ。大阪府出身。1980年、映画「ヒポクラテスたち」で本格デビュー。「科捜研の女」シリーズ、「警視庁強行犯係・樋口顕」シリーズ(テレビ東京系)、「十津川警部シリーズ」(TBS系)、「旅人検視官 道場修作」シリーズ(BS日テレ)、映画「瀬戸内海賊物語」(大森研一監督)、映画「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」(山田火砂子監督)、映画「闇打つ心臓 Heart beating in the dark」(長崎俊一監督)などに出演。5月8日(金)に映画「幕末ヒポクラテスたち」、6月12日(金)に「劇場版 旅人検視官 道場修作」(兼崎涼介監督)の公開が控えている。
ヘアメイク:長縄希穂〔MARVEE〕



