1981年、自主製作映画「教訓1」が「ぴあフィルムフェスティバル」に入選し、同年、映画「近頃なぜかチャールストン」(岡本喜八監督)で主演・共同脚本・助監督を務めた利重剛さん。俳優として多くの映画、ドラマに出演。89年、「ザジZAZIE」で劇場映画監督デビューを果たし、95年、映画「BeRLiN」で日本映画監督協会新人賞を受賞。5月1日(金)に「さよならドビュッシー」以来、13年ぶりとなる監督作「ラプソディ・ラプソディ」、6月20日(土)に出演作「おばあちゃんの秘密」(今関あきよし監督)が公開される利重剛さんにインタビュー。(この記事は、全3回の前編)
■高校は東京に出て映画を作りたい
「3年B組金八先生」(TBS系)をはじめ、多くのヒット作品で知られる脚本家・小山内美江子さんの長男として、神奈川県で生まれた利重さんは、小学生の頃から映画館に通っていたという。
「母は、僕が生まれた前後は編集をやっていたと思うんですね。その前はスクリプターで。家でできる仕事がいいということで、僕が生まれた後にシナリオライターになったんじゃないですかね」
――映画が好きになったのはいつ頃からですか?
「家の近所に映画館が二つあって、小学校5、6年の頃から友だちと見に行っていたんです。カンフー映画とか、アクション映画3本立てとか、みんなでワイワイしながら見ていました。
それとは別に、母が日比谷とか銀座にたまに連れて行ってくれて、ロードショーを見せてもらっていたんです。大きいスクリーンでロードショーを見たというのが映画好きになるきっかけだったかもしれないです」
――俳優、監督をお仕事に…と考えたのはいつ頃ですか?
「僕は、仕事として考えたのはかなり後なんですよね。鶴見で小学校6年まで過ごしたんですけど、中学の3年間は伊豆に移り住まなきゃいけなくなって近所に映画館がなく、映画が見られなくなっちゃったんです。
熱海までも単線で結構時間がかかるようなところだったし、熱海も小さい映画館が一つしかなかったので、急に見られなくなったから見たくなって。
それで、鶴見にいた親戚の家に土日泊まって映画を見て帰ったり、沼津まで見に行くということをしていたんですけど、ある時沼津に行って3本立ての映画を見たら3本とも驚くほど面白くなかったことがあってすごく腹が立ったんです(笑)。
『なんだこれ?こんなのだったら自分だって作れるよ』って思った時に、初めて『映画って作っている人がいるんだ』と思って。当時家に8ミリカメラがあったので、『これで映画が作れるんじゃないか?』って思い始めちゃって(笑)。
母に『高校は東京に出て映画を作りたい』って言って『映画研究部』がある高校を調べて。でも、当時の映画研究部って映画を鑑賞して感想を言うみたいなところが多かったんですけど、映画を作れるクラブはないか色々探したら何校かあったので、全部受けてみようと思って受けて、受かったのが成蹊高校だったんです。
今考えたらロクに勉強してなかったんだから無謀だったんだけど、映画を作りたいという一心で。でも、その時には映画監督になりたいという思いは全然なくて、ただ映画を作ってみたいというだけだったんです。
映画研究部に入ってみると、1年先輩が手塚治虫さんの息子さんの手塚眞さんで、同級生が2年ぐらい前に成蹊高校映画研究部時代の自伝的エピソードを映画化した『Single8』を撮った小中和哉。あと彼はウルトラマンの監督もしています。結構なメンバーが揃っちゃっていたんですよね、たまたま。
そこで1年の時は手塚眞さんの『FANTASTIC★PARTY』という8ミリ映画に吸血鬼の役で出たりとかして(笑)。人の作品に呼ばれて助監督をやるとか出演しないと、自分が撮る時に誰も手伝ってくれないというのがあって(笑)。
だから、全然役者をやる気はなかったけど、頼まれたら『わかった、やるやる』みたいな感じだったし、映画を作りたいと思っただけなので、映画監督になりたいとか役者になりたいなんて全然思っていなかったです」
1981年、利重さんは、小山内美江子さんが脚本を書いたドラマ「父母の誤算」(TBS系)で俳優デビューを果たし、キーパーソンである知能犯の不良少年・高井洋二役を演じて話題に。
■岡本喜八監督に長文のファンレターを書いて
俳優活動を始めた1981年、高校在学中に監督した8ミリ映画「教訓1」が「ぴあフィルムフェスティバル」に入選。この作品は、高校の中に徴兵制が敷かれて軍事訓練が始まって他の学校との戦争にまで発展するというブラックコメディ。
「(高校の)文化祭で上映したりしていたんですけど、ぴあフィルムフェスティバルに応募して入選したら池袋の文芸座で上映できることになって。僕が大好きだった岡本喜八監督にファンレターを書いたんです。
あなたの映画がどれだけすばらしいか、どれだけ好きか、特に『肉弾』が好きだと、ものすごく長い文章を書きました。あなたの映画は全て反戦映画だった。実は僕も映画を作っていて、僕の映画もある意味反戦映画なので、よかったら見ていただけませんかって書いたんです。
そうしたら見に行ってくださって連絡くださったんです。家に『岡本です』って電話がかかってきてビックリしました。『あの映画見たよ。面白かった。一度家に遊びに来ない?』って言われて。
何が何だかわからなかったけど、次の日曜日に空いていたらおいでと言われたので行って、それがきっかけで、岡本喜八監督の『近頃なぜかチャールストン』という作品に参加させてもらうことになったんです。映画監督になりたいとかいうんじゃなくて。
ただ、監督の家に行って、『面白かったよ』って言われて。『映画監督になりたいの?役者になりたいの?役者はもうやり始めているみたいだけど』って言われたから、『役者は頼まれれば出るだけで、人数が足りないから出るものだと思っています』って。
『役者は呼ばれればやっていますけど、俳優になりたいとは思っていないです。あと、映画監督になりたいなんておこがましいです。作りたい映画が何本か頭の中にあるだけで、それが作れたらもういいかなと思っているので』って言いました。
そうしたら監督が『役者はやっておいた方がいいよ。俺は15年東宝で助監督をやってようやく(映画が)撮れたけど、もうそういう撮影所システムは崩れている。これからは有名な人が映画を撮る時代が来るから、役者で有名になったら撮れるチャンスがあるかもよ。それに誰も撮らせてくれないにしても、ひょっとして俳優ですごいお金が手に入ったら、自分のお金で撮れるかもしれないしね』って。
あと、脚本を書けるようになりなさいって言われました。これからの監督は脚本が書けなかったら、『そろそろお前撮れ』って絶対に言われないからって。
『この本で、この脚本で映画撮りたいんですけどって言って回るためにも脚本が書けるようになりなさい。あと、助監督を15年やらなくていいから、1本だけでいいからやりなさい。君たちは僕らが半日で撮れるようなシーンを1週間、2週間かけて効率悪く撮っているはずだから。
何もプロのやり方をやれということじゃないけど、効率が悪いものを、こうやったら段取りよくできるんだと、ちょっと勉強だけしたらいい。そのあと、自主映画に戻るなり自分たちのノウハウを作るのはいいと思うけど、せめて1本だけは助監督やった方がいいよ』って言われたので『わかりました、ありがとうございます』って言ったら、『これを一緒にやろう』ってシノプシス(あらすじ)を渡されて。
『脚本を一緒に書いて出演もして、空いた時間に助監督をやれば、今言った三つが全部できるだろう』と言うのでやることになったのが『近頃なぜかチャールストン』。からだが空く
7月になったらおいでと言われたので、行ったら監督の家の離れがもう用意されていて。
『俺が後ろから追っかけるから先行して(脚本を)書け』と言われて、毎日泣きながら書いていました。だから自覚がないまま監督が僕を映画界に入れてくれてしまったので、それでここまで続いてきちゃっているという感じです(笑)」
――岡本監督は嬉(うれ)しかったのでしょうね。自分の作品が大好きだという若い利重さんにお手紙をもらって。有名になればなるほど怖れ多くて若い人が近づいてくることはあまりないと思うので
「そうですね。当時はわからなかったですけど、今、その気持ちがわかるようになりました。あの時は、アワアワしちゃって。巨匠にファンレターを書いただけなのに、遊びに来いと言われて行ったら一緒にやることになって。ただただ感謝しかないです。
僕が監督のお宅に行った時、監督は多分57、8歳ぐらいなんですよね。今、自分が60歳を過ぎて監督の気持ちがわかります。若い子に『あなたの映画が好きです』なんて言われたらめちゃめちゃ嬉しいし、『ちょっと一緒に何かやる?』ってなりますよね。
岡本監督は、すごく柔軟な考えを持っていて、若い人ともコミュニケーションを取って一緒に遊んでくれて、上下関係というよりは友だちみたいな感覚で付き合ってくれて、そういう感覚で自分をこの世界に入れてくださったので、いまだに近くにいる気がします」
――すごい出会いですよね
「本当にそうなんです。すごい出会いで、何度感謝しても足りないですね。だから今も映画を作る時に必ず横というか後ろに監督がいる気がします。『自由にやっているのか?本当にこの映画を撮りたいのか?』って、いつも突きつけられているような気がして」
――(監督として)ものすごく考え抜かれて作品を作られている感じがします。俳優さんとして忙しいということもあるのでしょうが
「もちろん作りたい映画はたくさんあります。ただ、やっぱり岡本喜八監督が言っていた『この映画を本当に作りたいのか』ということですよね。やっぱり簡単にできることはやっちゃいけないと思うし、どうしてもそういう風に考えてしまうところがあって。
どんどん作れればいいんですけど、自由にやること、そして、本当に作りたいと思った時に作るということは、監督の教えでもあるので」
■個性的なベテラン俳優陣を相手に
「近頃なぜかチャールストン」は、婦女暴行未遂で留置場に入れられた非行少年・小此木次郎が、そこで自分たちを独立国「ヤマタイ国」の国民と称する老人たちと出会い、奇妙な共同生活を送りながら成長していく様を描いたもの。
利重さんは、主人公・小此木次郎役。財津一郎さん、本田博太郎さん、小沢栄太郎さん、田中邦衛さん、今福将雄さん、殿山泰司さん、岸田森さんなど一癖も二癖もある個性派俳優たちが、体制に逆らうアナーキーな老人を演じていることも話題に。
「僕は19歳だったんですけど、本当にすごいベテランで癖のある個性的な俳優さんたちばかりで。その中でも岸田森さんと殿山泰司さんがすごく気さくに接してくださって、その後もお付き合いを続けてくれて、そこがやっぱり大きかったですね。
こっちも生意気だから、ちょっとやんちゃというか、ふざけたりするじゃないですか。
でも、ふざけても怒らないし、皆さんそうでした。そのありがたみがわかってきたのが、やっぱり年を取ってからですよね。撮っていた時は生意気だったと思います」
――スタッフも兼ねて本作りも一緒にやって主演を張った作品をご覧になった時はいかがでした?
「力足らずで申し訳ないという気持ちが大きかったです。脚本も僕が先に書いて、監督が追っかけていくからと言っても『追いつかれちゃう。追いつかれちゃう』と思いながら焦ってばかりで。
若者の感性を入れてほしいと言われて書くんですけど、とにかく、採用されないわけですよ。
僕が書いたセリフで使われたのは、2行ぐらいしかないんじゃないかな。それも申し訳なくて。
演技的にもやっぱり僕がずっと見ていた映画の俳優さんたちに比べると、全然ダメだというのもあったし、本当に申し訳ないという気持ちが大きかったですけど、監督は、『いいんだ。俺がOK出しているんだからOKなんだ』って言ってくださって。
脚本のことも『俺は、ずっと「肉弾」のあいつが今生きていたらこの世界を見てどう思うかな?みたいなところから脚本を始めたんだけど、すぐ詰まっちゃって書けなくなっちゃったんだ』と。
そうしたら僕からのファンレターが来て。作品を見てみたら高校の中に徴兵制が起きると。自分は東宝の中にいて、黒澤明さんという巨匠がいて、市川崑さんという天才がいて、自分の持ち味は何だろうと思った時に、変化球だと思っていたって。
どれだけ野放図にデタラメに映画を作れるか、自由に作れるかというのが自分の持ち味だと思っていたんだけど、君の映画を見たら本当にデタラメで、俺も丸くなっちゃったかなと思ったみたいな話をされたんです。
だから『いや、違います、違います。僕は作り方がわからないからデタラメになっちゃったんで、わざとデタラメにやっているのではないです』みたいな話をしたら、『いや、関係ない。映画が面白いかどうかで、僕が面白かったんだからそれでいいんだ。
それをわざとやろうが、偶然であろうが面白いことが大事で、それを見た時に、そうか、高校で徴兵制が起きてもいいんだったら、老人が一軒家を自分の国にしてもいいのかって、気が楽になったんだ。そうしたら、次の日から書けるようになったんだから、君がうちに来る前から、君はもう参加しているんだよ』って言ってくださったんです。
『だから一緒にやろうと思ったんだし、使う、使わないは別で。真っ白な原稿用紙に書くのはつらいだろう? でも、誰かが先に書いてくれれば、そう書くんだったらこう直せばいいやって思うから、そういう意味でも意味があるんだよ。だから使われないということでがっかりすることはないんだよ』って言っていただいて。
それで気が楽になったんだけど、でも、やっぱりもっと役に立ちたいじゃないですか。それはずっとそう思っていましたね。ただ、何十年か経って改めて作品を見直してみたら、すごく面白かった。『こんなに面白かったんだ』って思いました(笑)。
あんなに予算もなくて、家を抵当に入れて作ったのに、あんなに自由で。タイトルなんか2回も出てきちゃいますからね。2回出してもいいんだって(笑)。『もっと自由にやっていいんだよ、映画なんて』ということを教えていただいて。改めて見ると、本当にお金じゃなくてアイデアなんだなって思いました。
警察に外階段なんてあるはずがないのに、そこで撮って警察だということにしていたし、留置場のセットを作れないからと言って、スタッフルームに木の格子を組んで、そこを留置場のセットにしちゃったりとか(笑)。本当に工夫なんですよね、アイデア。
それは僕らがやっていた8ミリ映画とちょっと共通するところがあって。プロもこういう風に考えてやっているところは、僕らよりスケールがでかいというか、見事だなって。いろんなことをたくさん教えてくださいました」
――「近頃なぜかチャールストン」を撮った後は、俳優、そして監督もやっていこうと思いました?
「それがそうも思わなかったんですよね(笑)。先輩方にはちょっとこの企画書を書いてみなとか、この原作でやろうと思っているんだけど、第一稿を書かないかとか、振ってくださったので、そういうのをやっていたんですね。
でも、その時もどうやって生きていこうとか、そういうことは正直考えてなかったです。それは自主映画もそうだし、テレビの仕事もやれるものはどんどん行くという感じで、深く考えることなく進んでいっちゃっていましたね。
だから、40歳ぐらいになってからですよね、大丈夫なのかなって思ったのは(笑)。それまで仕事がある時はあるけど、ない時はない。なくなったらバイトしたっていいし、生きていければいいんだからみたいな考え方だったのが、子どもが生まれてからは、自分だけのことじゃないんだと。どうしたら家族を食べさせていけるんだろうって、ちゃんと考えたのは40歳になってからだと思います」
――ずっと途切れることなくテレビドラマか映画に出演されているイメージがあります
「そうですね。何回か役者はしばらくやめてみたりとか、煮詰まっちゃってアメリカで3カ月ブラブラしてみたりしたこともありました。バブルの時もおいしい思いをしたこともないけど、バブルが弾けた後も仕事がなくなったことはないんです。
要は波がずっとなく、誰かしらから話があって一緒にやろうよという感じで。何となくもうダメかなと思った時は誰かが手を差し伸べてくれて、ずっと続いてきちゃった感じです」
大河ドラマ「徳川家康」(NHK)、「青が散る」(TBS系)、「金田一少年の事件簿」(日本テレビ系)、映画「ひみつの花園」(矢口史靖監督)など多くの作品に出演。1989年に「ザジZAZIE」で劇場映画監督デビューを果たす。次回は、劇場映画監督デビュー、撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※利重剛(りじゅう・ごう)プロフィル
1962年7月31日生まれ。神奈川県出身。1981年、ドラマ「父母の誤算」で俳優デビュー。同年公開の映画「近頃なぜかチャールストン」(岡本喜八監督)で主演・共同脚本・助監督を務める。以降、俳優として多くの映画、ドラマに出演。1989年、「ザジZAZIE」で劇場映画監督デビューを果たし、1995年、映画「BeRLiN」、2002年、映画「クロエ」、2013年、映画「さよならドビュッシー」など監督として国内外で注目を集める。13年ぶりにメガホンをとった監督作「ラプソディ・ラプソディ」が5月1日(金)に公開。5月8日(金)に映画「未来」(瀬々敬久監督)、6月20日(土)に映画「おばあちゃんの秘密」(今関あきよし監督)の公開が控えている。



