1980年、16歳の時に「3年B組金八先生(第二シリーズ)」(TBS系)の椎野一役でデビューしたひかる一平さん。翌年には「青空オンリー・ユー」(フォーライフ・レコード)で歌手デビューし、「レッツゴーヤング」(NHK)にレギュラー出演。17歳で「必殺仕事人III」(テレビ朝日系)にレギュラー出演することに。2012年、芸能プロダクション「株式会社スカイアイ・プロデュース」を設立し代表に就任。映画「ぼったくり家族」(松本了監督)が公開中。(この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧になれます)
■プロデューサーが激怒!13話で殺されるはずが…
1982年、金銭を貰って弱者の晴らせぬ恨みを晴らすために裏の仕事を遂行していく者たちの活躍と生き様を描く必殺シリーズ「必殺仕事人III」にレギュラー出演することに。
蘭方医である父の跡継ぎを目指し通っている医学塾の帰り道におりく(山田五十鈴)ら仕事人グループの殺し現場を偶然目撃してしまい、始末されるはずだったが仕事人の仲間になる西順之助役。
「本当に『金八先生』でも苦労したし、『必殺仕事人』に行っても苦労しました。でも、事務所的には、それまで京都で時代劇に出たことがなかったから、一応パイオニアみたいな感じですかね(笑)」
――出演されることになったのは?
「いろいろオーディションをしたらしいんですけど、誰もプロデューサーのイメージに合う子がいなかったみたいなんです。
それで、ある時、(必殺の)プロデューサーがたまたま『レッツゴーヤング』を見ていたら、ひとりだけワンテンポずれていたやつがいて。それが僕で(笑)。
踊れないのでセンターの(川崎)麻世さんの踊りを右目で見ながら踊れるように振付の先生が考えてくれたんですけど、どうしてもワンテンポ遅れるわけですよ。それを見て必殺のプロデューサーが『こいつだ!』って思ってくれたらしくて事務所に連絡があって。
でも、僕は『必殺シリーズ』なんて知りもしないし、『藤田まことさんって誰?』という状態で、全く知らなかったんですよ。レギュラーメンバーを聞かされても誰も知らない。中条きよしさんだけは、『「うそ」を歌っている人だ!』ってわかりましたけど。
そんな状態で出ることが決まって京都に行った時も全く台本を覚えてなかったので、ストーリーがわかってないんですよ。とりあえず、自分のところだけは覚えなきゃと思ってやっていたんですけど、のちに教えてもらったんですが、あの時プロデューサーが怒っちゃって、『13話目でお前(の役)を殺す』って本気で考えていたらしいのです」
――ひかるさんが演じた西順之助は、仕事人が仕事をしている姿を目撃してしまい、殺されるはずだったのが仕事人の仲間に
「12話ぐらいまで撮った時に、僕があまりにもできないから、『何か失敗して殺しちゃえ』って言っていたんですって。でも、最後にしてやろうと思っていた13話目、僕の話をメインでやった時、プロデューサーが(頭の中で)描いていたものと初めて合致したらしくて繋(つな)がって。僕はそんなことは何も分かってなかったんですけど。
第1話の時に僕は藤田さんを相手に38回NGを出したんですよ。よく付き合ってくれたなあって思います。『何とか横丁の何々ベエが企んでいる』なんて、そんなセリフが全然覚えられなくて。
その当時、監督さんもそれが愛情なんでしょうけど、台本で7ページか8ページもあって。僕はそれまでカット割りがあるものしかやってなかったんです。カット割りがないものは当然リハーサルがあると思っていたんですけど、それがなくて。
ワンカットで何時間かかったかなと思って。それで、結局最後は、『もうしょうがないからここで』ってなったんですけど、それからですかね。ちょっとずつ、『やばいな、ちゃんとやらなきゃ』って思ってやっていたら、そうやってうまくハマったみたいで、そのまま4年間ぐらいずっと使っていただきました」
――38回NGというのはすごいですね
「藤田さんもしょうがないなという感じだったんだと思います。アイドルを使っているわけだし、何か意図があるんだろうぐらいに思っていたんでしょうね」
――最初は憧れて仕事人になって、危なっかしかったのが、だんだん顔つきも違ってきて成長物語でもありましたね
「そうですね。歴代の仕事人で、殺し道具が変わったのは僕だけらしいです。最初はライデン瓶という電気だったんですけど、ドラマの中だけど10代の子が人を殺すというのはダメだということで、気絶させようということになって。
運がいいことに僕が入った時に視聴率が1番良かったんですね。だからいい状態で入ることができて。僕は(必殺仕事人)IIIからですけど、IIまでで徐々に視聴率が良くなってきていて。
そこで若手の男の子が入るという話になったらしく、入ってから(視聴率が)絶頂にいく時代だったので、(僕の)クビを切るにも簡単には切れなかったかもしれないですね。
でも、僕は本当に運が良かったと思います。金八先生は僕を世に出してくれたところだし、老若男女問わず名前を憶えて頂けたのは必殺のおかげだなって思います」
■事務所を退所「辞めなきゃ良かったと思った」
「必殺仕事人III」の撮影のため、京都通いが始まったひかるさん。新幹線の中は貴重な睡眠場所だったという。
「新幹線ではよく寝ていました。京都を通り越しちゃったこともありますし(笑)。最初の1年は必ずマネジャーと一緒に乗っていたので起こしてくれたんですけど、2年目から必殺のプロデューサーに役者として育ててやるからマネジャーを付けるなと。全部1人で来いと言われて、初めて電車の乗り方を知り、人としての大切なことをいろいろ学びました。
必殺ってそれぞれ全員が一緒に行動しない人たちだったんです。撮影が終わってもみんなで一緒にご飯に行こうということはなくてバラバラで。僕は唯一どこにでもへばりついていたので、藤田さんや三田村さんにもすごく良くしていただいていて。僕が、お金がないことを知っているので、誰かしらがご馳走してくれていました」
――仕事人のメンバーにひかるさんが加入して雰囲気もだいぶ変わりましたね
「そうですね。若い子たちにアピールするというのはやっぱり大きかったでしょうね。若い子にとって時代劇はちょっと敷居が高いみたいな感じがあったと思うんですけど、『必殺は時代劇の西部警察』みたいで、何でもありという感じでした。
ただ、視聴者層が広くなったということがわかって、一気に全く女性のエロみたいなのがゼロになりましたね。皆さんに可愛がってもらっていたし、2年目からはちゃんと勉強しなきゃいけないと思って、必ずカメラマンの横にいて、どういうサイズで撮っているか学ぶようにして。
現場に行って見て学ぶしかないから必ずそこにいて見ていて、自分なりに納得したりとか。
カメラマンからは、『楽屋でご飯を食べる時は鏡を見ながら食べなさい。自分がどういう表情をしているのかということがわかる状態になるまでやれ』と言われてやっていましたね。そのスタッフメンバーが好きだったから、そこにいたいというのもあったんですけど」
――今、子役の方たちの演技指導もされていますが、そういうご経験は活かされているでしょうね
「そうですね。自分の経験で最悪のパターンというのはわかっていますからね。でも、精神的には結構ね。いろんな方々から怒られたりしていたので、現場に行ったらみんなちゃんとお芝居をできる子にしておかないと本人がつらくなるし。僕はメンタルが強かったのと、欲がなかったから良かったのかもしれないですけど。
この世界に入りたくてって考えている人だったら、色々余計なことを考えたかもしれないけど、僕の場合はそれがなくて、スポッと入っちゃったから、どこにでも対応できたのかもしれないですね」
「必殺仕事人」シリーズに出演していることもあり、2時間ドラマや映画など多くの作品にいいポジションで出演が続いていたひかるさんは、1985年に事務所を退所する。
「事務所をやめたのは21歳ぐらいだったと思います。役者としてやっていくことにしたし、自分でもできると思っちゃったんですね。でも、やっぱりガード力とかそういうのは全然違うし、看板って大事だなと思いました。多分調子こいていたんですよ。
必殺以外にもドラマの仕事も結構いただいていたので、いけるだろうぐらいに思っていて。それには大きな看板があるからだということに、その時は気が付かなかったんです。だから、そのあと、やめなきゃ良かったって思ったことが何度もありましたね。
最初の頃は、事務所をやめても必殺は続いていたし、必殺のプロデューサーが、「じゃあ次にこういうドラマがあるから、お前出るか?」という感じで、事務所がなくても、ある意味個人交渉みたいな状態でできていたので、安心していたんですよね。でも、やっぱり看板はでかいです。変な話、自分でも本当にあの事務所にいたのかなってクエスチョンだし。
事務所をやめる時、新しい事務所を紹介するよって言われたんですけど、自分で探しますってカッコつけちゃって。そんなこと言わなきゃ良かったなあって思いました」
■俳優以外の仕事にもチャレンジしたが…
1994年、俳優の仕事だけで生活できていたが、将来のことを考えて俳優以外の新しい生活に携わることに。
「30歳ぐらいの時に多少の余力があって。2時間ドラマとか舞台とか結構やっていたんですけど、この仕事って間が空いたりするじゃないですか。それで、今のうちだったら何か地に足をつけたことができるやんと思って知り合いに相談したら、あの当時100円ショップが流行(はや)りたての頃だったんですよ。
『今なら何のノウハウもいらないよ、資金だけ集めればできるから』って知って。そうか、簡単かなと思ってやってみたら、2年は成功したんですけど、3年目には同じ駅のところに大手の100円ショップが3店舗ぐらいできちゃって。これはもうやめようと思ってやめたんです。
そこから今度は雑貨屋みたいなことをやって。服屋とかいろいろやったんですけど、お金を出しているだけで、実際には人任せにしていたのが失敗の元で。裏で多少やっていたけど、ほとんど人に任せているから、何もわからないし、売り上げすらわからない状態で。
都内だったので家賃が高かったんですよ。だから、家賃しんどいなと思って、たまたま知り合いが空き店舗があるというからそっちに行ってみたいな。人を雇っちゃっていたから何とか続けたかったんですよね。
でも、結局、赤字になって終わるという感じで。自分でやらないと何にもならないということですよね。結局は自分が出てないから何もできず…。今はもう芸能事務所と東邦音楽大学で講師をやっていますが、やっぱり自分が培(つちか)ったこと以外はやっちゃいけないなって思いますね」
1995年、オリジナルビデオ「女とむらい師 べに孔雀」(津島勝監督)に出演。この作品は、紅の孔雀の刺青を背中に入れ、昼は“とむらい屋(葬儀店)”、夜は悪人を成敗する“仕置人”という二つの顔を持つ女性が主人公のセクシー時代劇。必殺シリーズのスタッフが参加したことも話題に。
――処罰するほうではなく処罰される悪役で驚きました
「何でも受けていたので、何にも考えてなかったですよね、あの頃は。だから頂いた仕事は何でもやるみたいな感じでした。それに必殺のスタッフに言われたらイエスしかないので。
ただ、悪役でしたけど、やっていて嫌なことは全然なかったですね。色々勉強してちゃんとやらなきゃいけないと思ってからは、全てが新鮮で、色々やっていますね。
『ライオン丸G』(テレビ東京系)もすごく有名な大根仁監督ですからね。大根監督がオマージュを作品に入れたいと考えたみたいで、金八先生のシチュエーションを入れたんです。
金八先生では有名なスナックZの当時はバイト役でしたが、この作品ではマスター役で、深夜の放送枠だから結構下ネタやギャグが満載でしたが凄(すご)い作品でしたしワイヤーアクションシーンも初めてやらせて頂きました。
本数的には13本あるんだけど、僕は店のマスター役なので、数日でまとめて全部撮るからって言ってくれて。大根監督は発想が面白い監督でしたけど、見た目と違ってめちゃくちゃ優しくもあり、厳しい監督でした」
俳優としてだけでなく、さまざまな経験を経て、ひかるさんは、2004年にかねてから後輩にお願いされていた子役事務所の演技指導を始めることに。8年間指導を続け、2012年、芸能プロダクション「スカイアイ・プロデュース」を立ち上げて代表に就任。次回は芸能プロダクションの社長、2025年に公開された主演映画「還暦高校生」、公開中の映画「ぼったくり家族」も紹介。(津島令子)



