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2026年7月10日 14:33

風間トオル 5歳の時に両親が離婚、祖父母との極貧生活、ヤングケアラー生活を経て人気モデルに!

風間トオル 5歳の時に両親が離婚、祖父母との極貧生活、ヤングケアラー生活を経て人気モデルに!
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ファッション誌「MEN’S NON-NO メンズノンノ」(集英社)の専属モデルとして活躍し、端正なルックスと抜群のプロポーションで知られる風間トオルさん。1989年、「ハートに火をつけて!」(フジテレビ系)で俳優デビューし、多くのトレンディドラマに出演して話題に。映画「大誘拐RAINBOW KIDS」(岡本喜八監督)、大河ドラマ「毛利元就」(NHK)、「はみだし刑事情熱系」シリーズ(テレビ朝日系)、「科捜研の女」シリーズ(テレビ朝日系)などに出演。主演映画「おかえりの湯」(夏目大一朗監督)が公開中の風間トオルさんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

■小学校2年生の時に祖父が認知症に…

神奈川県で生まれ育った風間さんは、5歳の時に両親が離婚。父方の祖父母と3人で暮らすことになったという。

「5歳の時でしたけど、記憶はしっかりあります。おやじとおふくろが両脇にいて、『好きなほうに行きなさい』と言われたので、これはもしかしたらお別れなのかなという感じはしました。

母親の方に新しいパートナーがいたことは、子ども心に感じていたので、そういうことなんだって。おやじには内緒で、おふくろがその人に会う時に僕を連れて行ったりしていたので。

それで、それまで一緒に住んでいたおやじと祖父、祖母の3人がいる方に行った方がいいかなと思ってそっちに行ったんですけど、1週間ぐらいでおやじもいなくなってしまって。おやじにもパートナーがいたんじゃないですかね。

祖母は、『そのうち帰ってくるから大丈夫だよ』と言っていたんですけど、結局帰ってこなかったという感じで。でも、祖父と祖母が一緒に住んでいたので、そんなに寂しいということはなかったですね」

父親が家を出た後、小さな台所とトイレはあるがお風呂はない6畳1間のアパートに引っ越し、祖父母と3人で暮らすことに。収入は祖父母の年金のみで極貧生活だったが悲壮感はなかったという。

――2010年に初めて幼少期のことを「徹子の部屋」(テレビ朝日系)で話された時は驚きました

「そうでしょうね。なぜかお金持ちのボンボンだと思われていたみたいで。デビューしてインタビューとかで詳しく言うとすごく長く言わなきゃいけないので話してなかったですから。『徹子の部屋』に出た時に子ども時代の話になっていろいろ聞かれたので、ちゃんと話さないといけないと思って初めて話しました」

お腹(なか)がすいた時には、おやつ代わりに多摩川の草や花を食べたり、カマキリの足を食べてみたこともあったという。

――洗濯機がお風呂代わりだったとか

「そうです。固形石鹸を手に持って、両足を洗濯槽の壁に突っ張って。今考えると危ないですけど、着ているTシャツとかも一緒に洗えたので、これは一石二鳥だなんて思ってやっていました。冬は寒かったですけど(笑)。あっ!絶対に真似しないで下さいね」

――まだヤングケアラーという言葉がなかった時代にその経験もされていたのですね

「はい。小学校2年生ぐらいの時に祖父が、今でいうアルツハイマー気味になったので、それが大変だったぐらいですかね。でも、苦労というより、僕がやるしかないんだろうなと思っていたので。

みんなそうなっていくんだなっていう感覚でやっていましたので、『何で自分だけが?』というのはなかったですね。ただ、大変は大変でしたけど。

徘徊(はいかい)が、やっぱり皆さんに迷惑をかけるし、排泄(はいせつ)物を隣の家の壁に塗っちゃったりしていたので、それは大変でした。モップで洗い流していましたけど、全裸で出て行っちゃうんですよね。皆さんびっくりして。

祖父を連れ戻すと言っても、まだ子どもだったから力で引っ張っても無理で。『こっちだよ』って言うと、『いやだ』って逆方向に行くから逆方向に押してみたら手前に帰ってきたので、こうやってやれば家に戻れるなと思って。色々作戦を考えながらやっていました。

そんな風にいろいろ工夫するようになりましたね。家にはあまり物がなかったので、自分で作ったりしていました。だからいまだに工夫したりするのは好きですね」

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■原宿のカフェでアルバイト中にスカウトされてモデルデビュー

中学校に入る直前に祖父が亡くなったことで、収入は祖母の年金のみとなり、生活はさらに厳しくなったという。

「中学に入ると、唯一きちんとした食事だった給食がなくなってしまったので、ほとんど毎日昼食抜きでした。だから、ランチタイムはたいてい校庭で(食用可能な)葉っぱなどをつまみ食いしたりしていました。早く自分で稼げるようになりたいと思っていましたね」

中学を卒業後、県立高校に進学。学費と生活費はアルバイトを掛け持ちして自分で工面し、高校2年生ぐらいからは一人暮らしを始めたという。

「自分で稼ぐことができるから県立高校の学費と生活費は何とかなると思って進学することにしました。初めて給料もらった時は嬉(うれ)しかったですね。自分の好きなものをたらふく食べられるって。

でも、小学校の時に多摩川の河原を歩いていたら、ご夫婦でやられているホットドッグ屋さんがいたんですよ。ホットドッグ自体は知らなかったんですけど、すごくいい香りがするなと思って近くに寄って行ったら、そのご夫婦に『何をしているの?』って聞かれて。

『ちょっとぶらぶらしています』って言ったら、『じゃあ、アルバイトでキャベツの千切りとかできる?』って聞かれたので、『切ればいいんですよね?』って1時間ぐらいやったら、帰る時に給料じゃないけど、『これあげるよ』ってホットドッグを2個くれたんですよ。

こんなにもらえるんだと思って、食べたらめちゃくちゃうまくて。それが自分の中で初めてのアルバイト。そのご夫婦も多分、食べたいんだろうなってわかったんでしょうね。でも、ただであげるわけにはいかないから、そういうのをやらせてくれたのかなって、今思えばね。

そのちょっとしたアルバイト体験をしたことは自分にとって大きかったです。自分で働いて早くお金を儲けて美味しいものを食べたいなと思ったのはその頃からですね」

高校卒業後、東京デザイン専門学校に進学。中学時代、先輩に連れられて初めてサーフィンをやって以来、風間さんにとってサーフィンは、タダで楽しめるスポーツで、サーフボードのデザイナーになろうと思ったという。

「デザイン学校が原宿にあったので、アルバイトも原宿で探すようになって、働き始めたのが『キーウエストクラブ』というカフェバーでした。

そこで『Fine』(日之出出版)というサーフ雑誌の編集者の方から『モデルをやりませんか?』と声をかけられて。

同じぐらいの年代の男女がいっぱい出ていて、『海で遊んでいる風な写真を撮りたいので、普通に遊んでいてください』って言われたので、何て面白い仕事なんだろうって思いました(笑)」

――ご自身の写真が掲載されている雑誌をご覧になっていかがでした?

「何か変な感じがしましたよね。こういうのに載るんだって(笑)。ずっとやっていこうみたいな感じはなかったです。アルバイト感覚でやっていたのですが、友だちがモデルクラブに入っていて、名前だけでもって言われて軽い気持ちで入ったんです。

そうしたら、『MEN’S CLUB(メンズクラブ)』(ハースト婦人画報社)、『Hot-Dog PRESS(ホットドッグ・プレス)』(講談社)、『Checkmate(チェックメイト)』(講談社)などいろいろお声がけいただいて、すごく忙しくなったので、結局仕事になったという感じです。

専門学校卒業後、有名な先生のアトリエに行くはずだったんですけど、友だちからハワイのサーフ工場でサーフィンの板を作らないかという話があって。デザインをさせてくれるというので、それもいいなと思って、先生のアトリエに行く話を断ったんですよ。

それでハワイに行くつもりだったのですが、ギリギリになって友だちが、やっぱりやめたって言い出して。ハワイの方へ彼が連絡したら、『ひとりで来るとみんなホームシックで帰っちゃうからダメ。2人じゃないと取れない』って言われたので、結局ハワイには行けなくなってしまって。ちょうどモデルの仕事をいっぱいいただけるようになってきていたので、そっちを取ったという感じです」

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■「MEN’S NON-NOメンズノンノ」の専属モデルから俳優に

1986年、「メンズノンノ」が創刊され、専属モデルとして広く知られることに。ちょうどバブルに入る頃でもあり、夜になるとモデル仲間とクラブに通っていたという。

「モデルということでいろいろと融通利かせて下さってVIPルームに通していただき、ビュッフェスタイルでの食事もいただけましたからね。毎晩ご飯を食べに行っていました(笑)。そういう時代だったということですみません」

1989年、「ハートに火をつけて!」で俳優デビューすることに。このドラマは、「男女間の友情」をテーマに9人の男女が繰り広げるさまざまな恋愛模様を描いたもの。

風間さんは、主人公(浅野ゆう子)の会社と同じビルに入居しているプロモーター会社に勤務している志水亘役。

「『メンズノンノ』で、阿部寛くんと一緒に対談ページを持っていて、ゲストでお招きした浅野ゆう子さんが『今度、主演のドラマをやるので出てみませんか?』と声をかけてくださったのがきっかけでした。

演技なんてしたことがなかったし、全く考えてなかったので一度は断ったんですけど、お互いテニスをやることがわかって一緒にやりましょうってなって。対談から1カ月以内だったと思いますが、テニスをやりに行った時に『あの話どう?もう一回考えてみて』って誘っていただいたので、こんなに誘ってもらえるなんてありがたいことだし、やってみようかなという気になりました」

――主演の浅野ゆう子さんをはじめ、柳葉敏郎さん、かとうかず子さん、田中美佐子さん、鈴木保奈美さん、三浦洋一さん、布施博さん、高嶋政伸さんなど錚々(そうそう)たるキャストでしたね

「テレビ見てなかったので、俳優さんのことはあまり知らなかったんですよね。だからそういう緊張はなかったんですけど、右も左もわからないという状態。『どうやってやるんだろう?』、『どうしたらいいんだろう?』という感じでした」

――最初からセリフも結構ありましたね

「大変でした。どういう風に言えばいいのか、誰に言えばいいのかわからなくて思わずカメラを見ちゃったりして、カメラマンさんが『ダメ、カメラ見ちゃダメ!』って。そんなところから始まっていますからね(笑)」

――浅野さんは何かおっしゃっていました?

「『カメラを見ちゃダメだよ』とは言っていましたけど。でも、僕のセリフの相手役をやってくれたり、すごく良くしてくれましたね、皆さん。ゆう子さんだけじゃなくて、かとうかず子さんとか、みなさんもそういうのをやってくれて。空いている時間に。自分のセリフじゃないのに」

――皆さんも風間さんが初めてのドラマの現場だとわかっているわけですものね

「あと、皆さん早く帰りたいというのもあったと思います(笑)。僕が何十回もNGを出したりするので」

――それだけNGを出すと怒られました?

「いや、怒られなかったです。できないからしょうがないと思ったんでしょうね」

――放送されたドラマを初めてご自身でご覧になった時はいかがでした?

「何か僕だけ別物だなという感じがしましたね。セリフは棒読みだし、滑舌も悪くて。僕がセリフをなかなか言えてないところもあって、ゆう子さんがリピートしてくれているんですよ。僕のセリフが聞き取れないから、『今、〇〇って言ったよね?』という感じで。

ドラマを見たという知り合いからは『冷や汗が出た』とか、『倒れそうになった』って言われました(笑)」

初めてドラマの撮影を経験した風間さんは、俳優としてやっていくなら演技学校に通って学びたいと思ったが、スマートで端正なルックスで注目され、トレンディドラマに次々と出演することに。次回は撮影エピソード、本格的に俳優としてやっていく決意を固めたという映画「大誘拐RAINBOW KIDS」、1年間ピアノの猛特訓をして撮影に臨んだ主演映画「わが愛の譜 滝廉太郎物語」の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※風間トオル(かざま・とおる)プロフィル

1962年8月19日生まれ。神奈川県出身。1986年、「メンズノンノ」の専属モデルとして話題に。1989年、「ハートに火をつけて!」で俳優デビュー。「世界で一番君が好き! You are my favorite in the world」(フジテレビ系)、「逢いたい時にあなたはいない…」(フジテレビ系)など多くのトレンディドラマに出演。映画「わが愛の譜 滝廉太郎物語」(澤井信一郎監督)で日本アカデミー賞優秀主演男優賞受賞。現在、映画「ライフセーバー!」(児玉宜久監督)と主演映画「おかえりの湯」が公開中。

ヘアメイク:岩本郁美

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