俳優デビュー4年目となる1970年、ブームになっていたカンフー映画へと転身し、香港映画デビューを果たした倉田保昭さん。サモ・ハン・キンポー(現:サモ・ハン)、ジャッキー・チェン、ドニー・イェンら名だたる人気スターと共演し、“和製ドラゴン”と称され日本に凱旋。「Gメン‘75」に4年間レギュラー出演し、映画ファン以外にも広く知られることに。俳優デビュー60周年を迎え、自ら企画・製作総指揮を務め、スタントマンなしでアクションシーンを披露している主演映画「夢物語 The Living Dragon」(坂本浩一監督・下村勇二監督・谷垣健治監督)が全国順次公開中。(この記事は全3回の中編。前編は記事下のリンクからご覧になれます)
■アクション映画がやりたくて「Gメン‘75」を降板
1975年から「Gメン‘75」にレギュラー出演。「Gメン」とは、FBI捜査官を指す俗語で、丹波哲郎さん演じる指揮官・黒木警視を筆頭に警視庁から独立した特別潜入捜査官たちがさまざまな事件を解決していく様を描いたもの。
重厚な物語に加え、国内外で敢行した大規模なロケや本格アクション、深作欣二監督、佐藤純彌監督など劇場映画に匹敵する迫力の演出で話題に。
倉田さんは、草野泰明刑事役で4年間出演。8月1日(土)には、「Gメン’75全話HDリマスターBlu-ray BOX1975年編」の発売を記念して草野刑事最終回であり、全話中最高峰の人気を誇る「Gメン対香港カラテ軍団」201話&202話を上映するイベントも開催された。
「当時は、50年後に香港編を上映するなんてことを誰も思いもしませんでした。50年後に上映して、涙を流してくれる人がいるなんて想像さえもしないですよね」
――香港カラテシリーズでは、通訳をはじめ、主導的な役割を担っていたそうですね
「そうです。プロデューサーから香港ロケの提案があった時に『ぜひやりましょう。僕が全部責任持ちます!』と言って。役者、キャスティング、殺陣(たて)、ロケーションの確保、通訳や食事の手配まで全部僕がやりました。香港編でやっと僕の本領が発揮できたという感じでした」
――皆さんカッコ良かったですね。丹波哲郎さんも貫禄があって
「あの番組は、やっぱり丹波さんが大黒柱ですからね。あの方が、そこにドンと座っていないとGメンじゃないですから。そういう面では、やっぱり大黒柱というのは違うんだなって思いました」
――倉田さんならではのスピード感あふれるアクションで大人気でしたが、ご自身で降板することに?
「そうです。当時、いろいろなアイデアを出しても『テレビドラマというのは1週間である程度流れ作業的に消えていくものだから、そんなにいちいち凝ったり、こだわってやっているものじゃないよ』みたいなことを言われることもあって。
『テレビドラマは消耗品だ』みたいなところがありましたからね。その中でもGメンは凝って作っていましたけどね、丁寧に。現場のスタッフは素晴らしかったんですよ。
でも、人気番組ではあるんだけど、フラストレーションが溜まっていました。やっぱり香港映画のアクションをもう1回やってみたいと思うようになって。このままGメンをやっていたら多分ある程度は続くだろうけど、この番組が終わったら自分は、その先はどうなるんだろうと考えるようになりました。
丹波さんも止めてくださったり、プロデューサーにも考え直せと言われたんですけど、これじゃあダメだなと思って降板しました」
■仕事がなくて日光浴ばかりしていた時に…
1979年、「Gメン‘75」を降板後は苦戦を強いられ、仕事がない状態が続くことになったという。
「当時、32,3歳ぐらいかな?本当に仕事がなくて、家を建てたばかりだったし、どうしようと思いながら日光浴ばかりしていましたよ。
仕事がほぼないから自宅の屋上で日光浴をしていたら、撮影で来日したジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーに新宿のヒルトン東京に呼び出されて。行ったらジャッキーとサモ・ハンとユン・ピョウがお茶を飲んでいたんですよ。香港映画界を牽引する3人が。
香港では彼らの大ブレイク前から親しくしていたから事情を打ち明けると、サモ・ハンが『もったいないよ、俺たちとやろうよ』って言ってくれて。その場で映画を3本契約してくれて、本当にありがたかったですね。うれしくて、涙があふれました」
それから数カ月後、倉田さんは再び香港へ渡り、香港映画への復帰作「七福星」に出演。この作品は、サモ・ハン・キンポー監督・主演で麻薬密輸組織を追う特捜隊の刑事の活躍を描くシリーズ第3弾。倉田さんは、ジャッキー・チェンと壮絶なアクションを繰り広げ、ジャッキーが珍しくバトルで負けるというストーリーになっていて話題に。
「あれはジャッキー・チェンが負けたという唯一の作品なんですって。僕がジャッキーと最初に会ったのは、彼がまだ売れる前でしたけど、『七福星』の時にはもうスーパースターでしたからね。
『七福星』の撮影当時『ポリス・ストーリー 香港国際警察』(ジャッキー・チェン監督)と『ファースト・ミッション』(サモ・ハン・キンポー監督)と掛け持ちしていて、非常に過密なスケジュールで睡眠時間がとれなかったらしいんですよね。
それで、移動中の車内や撮影の合間などに仮眠をとっていたのですが、疲労の限界に達したんでしょうね。
ジャッキーは、今でも会うと言うんですよ。『お前ね、俺はスターになってから戦いで負けて終わったのは、あの映画しかないんだからね』って(笑)。
ジャッキーは、『ポリス・ストーリー〜』を同時期に撮っていたんですよね。それで僕がその撮影現場へ遊びに行ったら、『ちょっと、そのエスカレーター上がって行って』って言われて。僕は知らなかったんだけど、それを撮っていて、僕の後ろ姿が『ポリス・ストーリー〜』で使われていたって(笑)」
――倉田さん、ジャッキーさん、サモ・ハンさん、皆さん今もアクションもやられていてすごいですね
「僕の場合は、今振り返ると、努力した云々じゃなくて『運』ですよ。運が良かったんだと思います」
――でも、香港映画のオーディションもご自分で選択されているわけじゃないですか。ご自身で道を切り開いて
「もともと僕は父親の影響もあって、海外で仕事をしたいという思いがあったものですから、別に映画じゃなくても海外だったら良かったというのもあります」
――日本と違って、危険なこともあったのでは?
「もうそういうことばかりですよ。特に台湾時代の10カ月というのは、脅かされたり、日本刀で切りつけられたこともありました。
現場ではスタッフ同士がものすごいケンカをしているし、『こんなところで撮影をしていてどうなるの?』みたいなことがよくありましたね。何かあってもどうしようもないんです」
――本当によくご無事で…という感じですよね
「そうですね。毎日絡まれたり、脅かされたりしていましたね」
――イヤになって辞めようと思ったことはありました?
「それはないです。やっぱりカメラの前に立てる喜びが大きかったですから。自分では日本へ帰ってもカメラの前に立てる状況ではないわけですからね。
香港、台湾なら毎日毎日、嫌でも大きなカメラの前でアクションができるわけですから、脅かされようが、多少危険な目に遭おうが楽しいですよね」
――香港、台湾などでは事務所みたいなところを通して仕事していたのですか?
「全部自分で判断して受けていました。ですから、半分以上は騙(だま)されるんですよね。作品によってはギャラを払ってくれないということもありました。
特に向こうは、契約はするけど確証はない。契約した時にギャラを3分の1、それで撮影の真ん中で3分の1、残りの3分の1は撮影が終わってから支払うことになっていたんです。
この終わってからの3分の1が問題なんですよ。撮影が終わっちゃうわけですから、終わったらもう知らんぷり。払ってくれない。3分の2で終わりなんです。そういうことがいっぱいありましたよ(笑)。それでもやっぱり続ける魅力があります。カメラの前に立つのは楽しい。
いろんなことがありましたよ。『取れなかったギャラを取ってやるよ』っていうから頼んだら、僕は知らなかったんだけど、それが黒社会の人だったとかね。
その黒社会の人が映画会社の社長を殴ってギャラを受け取ったんだけど、僕には『あいつ払わなかったよ』って言ってネコババされて。おまけに僕が黒社会の人を雇って金を取りに行かせたということにされたりとかね。
実際には台湾でギャラを受け取っていないのに所得税の請求だけは来たりね。音声さんと照明さんが違う組の人間で殴り合いのケンカをしているなんていうこともしょっちゅうで、血だらけになっているんですよ」
――恐ろしい世界ですよね。今も向こうに行って仕事をされたりしていますが、だいぶ変わりました?
「今の時代はそういうやり方は通じませんからね。昔とは全然違います。今は本当にクリアになったと思いますよ(笑)」
後進の育成にも尽力しており門下生は約2万人。現在80歳、俳優生活60周年を記念して愛弟子である坂本浩一監督、下村勇二監督、谷垣健治監督による三つのストーリーが展開する最新主演映画「夢物語 The Living Dragon」が全国順次公開中。次回はその撮影エピソードなども紹介。(津島令子)


