1972年 日中国交正常化の陰で 台北に説明へ…針のむしろの大役 椎名悦三郎訪台団[2022/09/29 20:00]

1972年、昭和47年9月7日、当時、自民党副総裁だった椎名悦三郎氏が、大平正芳外務大臣を訪ねました。
日本と中国との国交正常化への動きが急ピッチで進む中、北京の中国政府と対立する国民政府、台湾に説明して理解を得るために、椎名氏が政府特使として派遣されることになっていました。
その打ち合わせです。
中国と国交を結んでも台湾との繋がりは今後もつづきます。
そのための特使ですが、日本が中国との国交回復へと動く中、日台関係は険悪になり、台湾側は特使の受け入れをなかなか認めませんでした。

日中国交回復の半月前、9月14日の朝、田中角栄総理大臣の中国訪問の先遣隊として、初めての自民党訪中団が北京へ向います。
団長は小坂善太郎氏。
自民党の大物で、外務大臣を経験したこともあります。
空港内で開かれた壮行会では大平正芳外務大臣もあいさつ。
橋本登美三郎自民党幹事長のほかに
日本にいる中国側のトップ、蕭向前氏の姿も見られました。
訪中団は江崎真澄氏、塚田十一郎氏ら23人の国会議員で構成されていました。
万歳で送り出されます。
見送る側は青いリボン、訪中団は赤いリボンを付けています。
二階堂進官房長官の顔が見えます。
そのほかにも豪華な顔ぶれが揃っています。
いよいよ出発です。
羽田発の日本航空特別機のタラップはギュウギュウ詰めです。
地ならしの大役を担い北京に向かう訪中団。みんなニコニコ。
見送る側もニコニコです。

訪中団に遅れること3日。
9月17日、ようやく椎名悦三郎自民党副総裁が台北に出発します。
自民党訪中団より前に台湾へ飛ぶ予定でしたが、台湾側が受け入れを渋っていたため、この日になりました。
こちらは17人。
壮行会も訪中団のときとくらべてちょっと寂しいですが、それでも大平正芳外務大臣があいさつ。
重責を担う椎名特使は緊張の面持ちに見えます。
田中総理の親書を携えての台北行きです。
乾杯の音頭は二階堂進官房長官が取りました。
見送る人数は少なくても、送る人の熱量は負けていないようです。
困難な任務に向かう一行へのエールでしょうか。

一行も笑顔で応えますが、台北では厳しい出迎えが待っていました。
到着するや、およそ1000人の学生に取り囲まれ、車を蹴られたり、ものを投げつけられたりしたのです。

9月19日夜、椎名悦三郎特使らが帰国しました。
橋本登美三郎自民党幹事長、大平正芳外務大臣、二階堂進官房長官らが難しい役目を果たした一行を出迎えます。

羽田空港近くのホテルで記者会見し、台湾側の蒋経国行政院長、沈昌煥外交部長らとの会談の内容を説明しました。
台湾滞在中は、レセプションなども一切なく、針のむしろに座るような滞在でした。

この10日後、9月29日に田中角栄総理らが北京で日中共同声明に署名。
大平外務大臣は日華条約の破棄と、台湾との国交断絶を明言しました。

2カ月後、台湾・国民政府の彭孟緝駐日大使です。
政界を引退したばかりの賀屋興宣元法務大臣と握手します。
日本との外交関係がなくなり、11月28日、羽田空港から日本を離れました。
大ぜいの人が見送ります。
彭大使も両手を振って応えます。
飛行機の中に入る直前まで別れを惜しむようにお辞儀をして、手を振り続けました。

翌々日の11月30日、残務処理で台湾に残っていた日本の宇山厚大使が帰国しました。
ゆっくりタラップを降りてきます。
報道陣へのサービスでしょうか、タラップで立ち止まりました。
出迎えの人びとと握手します。
宇山氏はこのあとブラジル大使、国連大使、イラン大使などを務めました。

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