「なぜ真実認めない」ミャンマー邦人記者死亡 15年目の遺族の思い[2022/10/10 11:00]

 15年前、ミャンマー・ヤンゴンで日本人のジャーナリストが銃撃され、死亡した。その瞬間を撮影したビデオ映像や日本の警察の捜査は、近くにいたミャンマー軍兵士による銃撃だと示すが、ミャンマー政府は今も「流れ弾による事故だった」との主張を変えていない。「なぜ真実を認めないのか」。残された遺族は、そんな思いを長年抱き続けている。(テレビ朝日報道局 染田屋竜太)

■倒れても兵士に向け続けたカメラ

 長井健司さん(当時50歳)は2007年9月27日、ミャンマー・ヤンゴンで銃弾に倒れ、亡くなった。2021年2月の軍のクーデターで軍政に戻ったミャンマーは1988〜2013年、長らく軍事政権が続いていた。そんな中、若者らが中心となった「サフラン革命」と呼ばれる民主化運動が起きていた。

 民主化運動のきっかけは軍政の暴走だ。8月、国民に何の説明もせず燃料費を数倍にした。初めは若い民主運動家らがデモを率いたが、「サフラン革命」が特別なのは、デモに多数の僧侶が参加したことだ。

 ミャンマーは国民の約9割が仏教徒。僧侶は市民の尊敬の対象だ。私がミャンマーに赴任していた時、同僚スタッフに促され、僧侶より1段低い場所で正座でインタビューしたのを思い出す。そんな僧侶が政府に反旗を翻すというのは、ミャンマーでは重大なことだ。

 2007年9月、デモは日増しに膨れ上がり、ヤンゴンでは1万を超える人が、政治をもてあそぶ軍政に反対するデモを繰り返していた。長井さんがミャンマーに入ったのは、まさにそんな時だった。

 軍の兵士に迫られ、デモの人たちが逃げ出そうとする中、カメラで兵士らを映していた長井さんは、跳ねるように地面に倒れ、近くの兵士の銃からは白い煙が上がっていた。映像は、倒れてもなお、カメラを兵士の方向に向ける長井さんの姿をとらえていた。

 長井さんの名前が世界を駆け巡ったのは、銃撃の一部始終が映像に収められていたからだ。撮影したのは、ミャンマーメディアの「民主ビルマの声(Democratic Voice of Burma)」のカメラマンだ。「デモ取材中に邦人ジャーナリスト殺害」のニュースは日本でも連日大きく報じられた。 

■口数の少ない兄 テレビに現れたのは…

 「基本的にすごくおとなしい、口数の少ない兄でした」。長井さんの妹の小川典子さん(62)はそう振り返る。

 高校を出た後、故郷の愛媛県今治市から東京に出た長井さん。「報道に携わっているというのはきいていましたが、あまり連絡がこなくなって。テレビをつけたらいきなり(ニュースステーションの)久米宏さんの隣に座っていてびっくりしたこともありました」。今でも今治市に暮らす小川さんは言う。

 長井さんはパレスチナ戦争、アフガン戦争など現場にこだわった取材を続けてきた。両親を心配させないために危険地に行くと伝えなかったのではないか。小川さんはそう、兄の気持ちを推し量っている。

テレビ出演はもちろん、自らも映像作品をつくっていた長井さん。銃撃事件当時は日本の通信社、APF通信社に所属していた。

 長井さんがミャンマーに入っていたことも、「全く知らなかった」と小川さんは言う。兄の死を知らせたのは、外務省から両親のところにかかってきた電話だった。「テレビをつけたら、いきなり兄の横たわった写真ですかね、画面にいっぱいに映って……」。その横顔に、兄だと確信したという。

 両親らと長井さんの遺体を迎えるために東京に向かった。「いろんな気持ちが混ざり合って、当時のことをほとんど覚えていない」と小川さんはいう。

 だが、心に刻まれたことが一つある。

■「あれは事故だ」責任認めないミャンマー政府

 「あれは意図的な銃撃ではない。流れ弾による事故だ」

 ミャンマー政府のこんな主張だ。世界に流れた映像とは全く異なる。「通り過ぎる兵士が発砲して白煙が上がってというの(映像)は何回も繰り返し見ていましたから、当然あの人が至近距離から銃撃したんだろうと思っていました」。小川さんはそう話す。

 日本の刑法は、国外で日本人が殺人などの犯罪に巻き込まれた場合にも適用される。警視庁中野署に捜査本部が置かれた。

 だが、捜査は国家主権にかかわり、外国での犯罪で日本警察が主導権を持つのは実質的に不可能だ。ましてや軍政下で軍が加害者とみられる件の捜査が許されるはずはなかった。

 ミャンマー側は「意図的な銃殺」を認めず、一切引き下がらなかった。

 外務省は小川さんたちに2回、日本・ミャンマー両政府のやりとりを詳細に説明した。「写真などをとらないで」といわれたため、典子さんの夫の太さんが必死で書き留めたノートが残されている。

日本側 「事故ではなく故意で撃っている」
ミャンマー側 「故意ではない」
日本側 「ビデオの映像、司法解剖から至近距離からの発砲は間違いない」
ミャンマー側 「日本側が提出したビデオ、写真はトラップの可能性がある。偽造である」
日本側 「司法解剖などから至近距離の発砲は間違いない」
ミャンマー側 「事情聴取から、30~40ヤード(27~36メートル)で撃ったものである」
日本側 「ミャンマーの主張を裏付けるビデオはあるか」
ミャンマー側 「ない。情況から判断した」

 ミャンマー軍政側の論理構成がいかにめちゃくちゃか、わかると思う。銃撃事件で、「証拠を否定し、事情聴取だけで射撃距離を特定」などという話はきいたことがない。

 小川さんは、「兄の命がいい加減に扱われ、人権が踏みにじられているような気がする」と憤りを隠さない。ミャンマー政府が返してきた長井さんの「遺品」には、長井さんが最期まで手にしていたカメラは含まれていなかった。「何か不都合なものが映っていたんだろう」と小川さんは考えている。

■「死の真相を……」届かぬ遺族の思い

 事件から数年たつと、外務省からの連絡の回数も大きく減った。日本政府は今でも、公文書では「長井健司死亡事件」と表現し、「殺害」だとは認定していない。「日本政府にはお世話にもなったからあまり言いたくないけれど……」。小川さんは「国交を考えてミャンマー側に気を遣いすぎているのではないか」とこぼす。

 ミャンマーでは2016年、軍政時代に民主化運動の先頭に立ってきたアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が政権をとったが、事態は動かなかった。小川さんのもとには、スーチー氏の側近から「お気持ちはわかるが、過去にとらわれず、将来を向いて進まなければならない」と、問題追及に後ろ向きの手紙が届けられた。

 2017年、事件から10年目。私は記者としてミャンマーに赴任する機会を得た。赴任直前に愛媛県で小川夫妻にお会いし、事件から節目の年に記事を書こうと取材を続けた。調べれば調べるほど、ミャンマー政府の主張がおかしいことがわかってきた。

 「なぜNLD政権は長井さんの件で軍を追及しないのか」。日本政府関係者に尋ねた。「NLDの中には、軍との関係を悪くすれば、民主化自体が進まなくなるという慎重な意見がある」と教えられた。
 「民主化をうたった政権が軍を怖がるのか」。当時は疑問に思った。だが、2021年にクーデターを起こし、積み上げた民主政治を壊したミャンマー国軍の異常さをみた今なら、その思いもより理解できる。国軍に有利な憲法をかえるには、国軍の賛成が必要というねじれた状況で、アウンサンスーチー氏らも強気の姿勢はとりづらかったようだ。

■「真実」を知るために必要な取材は

 2017年、私はヤンゴンで、長井さん銃撃の瞬間を映した「民主ビルマの声」のミャンマー人カメラマンに取材をした。

 長井さんの姿をカメラに収めた時、彼は現場から少し離れた歩道橋から撮影していたという。「間違いない。あれは後ろにいた兵士が撃った」。インタビューでそう、証言した。決死の覚悟で撮ったテープを海外にいる編集部に届けるため、軍から身を隠しながらヤンゴンを疾走。空港で待っていた仲間の手に渡った映像は、世界に発信された。

 「あなたの映像がなかったら、長井さんの死は闇に葬られていたかもしれない」。お礼を言うとカメラマンは、「そういわれるのはありがたいが、ミャンマー軍が今でも彼の死の責任を認めないのは、納得がいかない」と感情を押し殺したような声で話した。

 当時、私にはもう一人、話を聴こうとした人がいた。日本で長井さんの遺体を解剖した法医学者だ。小川さんの手元には、解剖医の名前が記された書類が残っていた。杏林大の佐藤喜宣教授(当時)だ。

 ヤンゴンから、日本にいる佐藤教授の携帯に国際電話をかけると、「長井さんの件は忘れられません」という。取材をお願いしたが、「捜査の一環として解剖を引き受けた。簡単に公にはできません」。丁寧だが決意を持った言葉は、その後の説得にも動かなかった。

「ただ、一つ言えることは、あれは間違いなく至近距離からの銃撃だということです。あなたが映像で見たものが事実と考えてもらっていい」

 今年、長井さん事件から15年を迎えた。事件を報じるニュースは激減した。ただ、「事件から15年」だけではニュースにならない。今まで出ていない話を報じることはできないか。

 私は5年前の取材メモをひっくり返し、もう一度、佐藤氏に連絡をとることにした。

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