ウクライナで倒れたフランス人記者(32)が遺したもの「私たちのためにその場所に…」[2023/05/26 19:00]

5月25日、ひとりのジャーナリストの遺体が家族の住むフランス・レンヌに戻ってきた。
市内では、生前に撮影した映像が流され、誰でも記帳ができる追悼スペースが設けられている。

約1年にわたり苛烈な攻防が続き、ロシアのウクライナ侵攻で最大の激戦地となっている東部バフムトの近郊で9日に死亡した映像ジャーナリスト、アルマン・ソルディン氏。フランス国籍の32歳。

彼の死はフランス国内だけではなく、世界中で大きく報じられた。
ソルディン記者はサラエボ生まれ。ユーゴスラビア紛争のさなかに一家でフランスに移住し、一時はプロを目指した元サッカー少年だった。

「太陽のようだ」と仲間から慕われていたソルディン氏は、なぜウクライナに向かったのか。そして、命を懸けた報道は若い人たちに何を届けたのだろうか。

■戦場記者が伝えたこと そしてその死

侵攻直後、ウクライナの首都キーウの近郊、イルピンで崩れた橋から列をなして脱出する市民、炎上する我が家を前になす術もなく頭を抱える女性、シェルターの地下鉄で涙を流して抱き合う男女…。
ソルディン氏はウクライナ軍に従軍しながら前線を取材し、戦時下の人々を映像で世界に発信し続けた。

先週、キーウで同僚のAFP通信の記者らによるソルディン記者の追悼集会が開かれ、その様子がYouTubeでライブ配信された。集会では戦場でソルディン氏が撮影した数々の映像のほかに、犬や猫とたわむれる姿、仲間とふざけあうシーンも流れ参加者の涙を誘った。
また、ソルディン氏がロシア軍の砲撃でできた穴の中で死にかけていたハリネズミを助けた動画がツイッターで話題になったことにも触れられた。ある同僚は「この場に、あのハリネズミはいないが、彼(ハリネズミ)も本当にありがとうと言っているはずだ」と心優しい人柄をしのんだ。

AFP通信によると、ウクライナ東部バフムト近郊、チャシウヤルで、現地時間の9日午後4時半ごろ、ウクライナ軍の部隊を取材していたクルーが、ロシア軍の多連装ロケット砲BM21「Grad」による攻撃を受けたという。
伏せていた場所の近くにロケット弾が着弾し、ソルディン氏は死亡した。近くにいた他の取材班のメンバー4人は無事だった。

ソルディン氏は、去年2月24日にロシアが侵攻を始めてから、ウクライナに最初に派遣されたAFP取材班の一員で、9月からはウクライナに拠点を置き、映像取材班を率いる立場として、定期的に東部と南部の前線へと赴いていた。

■同僚の記者 「永遠に若く」に込めた思い

ソルディン氏と一緒にウクライナで取材したAFP通信の同僚ダフネ・ルソー記者は、ソルディン氏の死の翌日、ツイッターにある動画を投稿している。それは去年4月、戦闘が激しいドンバス地方へ車で向かう途中、軍用ラジオから流れてくるドイツの音楽グループ、アルファヴィルの“Forever Young”を歌うソルディン氏の姿だった。

ソルディン氏は「I want to be forever young(永遠に若くありたい)」と全身を揺らし、声を張り上げて笑顔で歌っていた。

ルソー記者は、「最もプロフェッショナルで最も人間味があった」とのメッセージとともに、“Forever Young”のサビの前の歌詞も投稿していた。

 最高を望み 最悪を予期する
 君は爆弾を落とすのかい?落とさないのかい?
 若くして死なせるか さもなければ永遠に生きさせて
 僕らには力はないけれど あきらめはしない
 砂場で座っている 人生は短い旅路
 (筆者訳)

■紛争地で生まれ…「ボスニア出身を誇りにしていた」

ソルディン氏は1991年3月にユーゴスラビア紛争の緊張が高まるサラエボで生まれた。翌年、サラエボへの包囲が激しくなる中、ソルディン氏の家族はフランスに亡命する。
家族は、フランスに退避する第一陣を乗せた輸送機に搭乗した。機内には当時のミッテラン大統領も同乗していたという。母親の胸に抱かれて退避したソルディン氏は1歳だった。

ソルディン氏はフランスで幼少期の6年を過ごしたのち、一度家族とともに、独立したボスニア・ヘルツェゴビナの首都となったサラエボに戻った。
しかし、両親の離婚をきっかけに、2002年に再びフランスに移住。ブルターニュ地方でサッカーに情熱を注いだ。努力は実り、国内1部リーグのスタッド・レンヌにユース選手として所属するほどの実力をつけ、一時はプロ選手を目指した。

訃報を受けて14日の試合開始前、スタッド・レンヌのスタジアムのモニターに少年時代のソルディン氏の写真が投影された。場内に「紛争の現実をその勇気で現場から伝え続けました。彼は2006年から2008年まで私たちの赤と黒のユニフォームを着ていました」とアナウンスされた。すると、サポーターから大きな拍手が沸き起こった。

結局、ソルディン氏はプロサッカー選手への夢はあきらめた。しかし、サッカーへの思いは捨てなかった。フランス公共放送は、フランス代表が2010年9月にボスニア・ヘルツェゴビナ代表と対戦した際に、ソルディン氏がフランスのローラン・ブラン代表監督(当時)の通訳を務めたと伝えている。

2015年からAFP通信ローマ支局でインターンとして働きはじめると、同年、ロンドン支局に正式に採用され、イギリスのEU離脱などを取材。ジャーナリストとしての活動を本格的にスタートさせた。一方で、英プレミアリーグの放送権を所有するフランスのテレビ局CANAL+(カナル・プリュス)にも所属し、サッカー関連のニュースを伝えるリポーターとしても活躍した。
また、新型コロナの感染拡大のさなか、ローマから、パンデミック下での生活について伝え続けた。

そんな中、ソルディン氏は自ら志願し、ロシアが侵攻した直後のウクライナへ向かうことになる。

歌うソルディンさんの動画を投稿したルソー記者はフランスのテレビ番組で5月14日、「ボスニア出身であることをとても誇りにしていた。戦争には非常に複雑な思いがあったはず」と、ソルディン氏が紛争のさなかのサラエボで生まれたことについて語った。
そして「本当に太陽のようだった」とその人柄を表現した。

■「この世界はソルディン氏らに恩がある」 世界中から届く惜しむ声

ソルディン氏がバフムト近郊で死亡したことを受けて、国境なき記者団のクリストフ・ドロワール事務局長は追悼の意を表明すると同時に、ウクライナ侵攻が始まってからこれまでに10人の記者が死亡したと発表した。

フランスのマクロン大統領は10日、「その勇気で紛争当初から、事実を検証するために最前線に居続けた」とソルディン氏の功績を称えた。

イギリスのスナク首相は「ソルディン氏の仕事はこの戦争の闇に光を当てるのに不可欠なものだった」とAFPにコメントを寄せ、ジョンソン元首相は「世界中の紛争を勇敢に取材するジャーナリストが直面する死の危険を思い知った」とツイートした。

また、アメリカ・ホワイトハウスのジャンピエール報道官は、ソルディン氏の家族やAFP通信の同僚に哀悼の意を表し、「ジャーナリズムは自由な社会の礎で、この世界は、ロシアによる侵略に光を当てて命を落としたソルディン氏ら10人の記者に恩がある」と声明を出した。

■「彼は私たちのためにその場所にいた」 高校生の言葉

AFP通信やルモンド紙の記者などがボランティアとして参加する組織 「Entre les lignes(行間を読む)」は、フランス国内の学校で定期的に、メディアの役割などを教える授業を開いている。

ソルディン氏が亡くなった日の翌日、この組織に所属する、AFP通信の欧州担当プロジェクトマネージャー、イザベル・ワース氏がパリ近郊の高校で授業をした。

いつも、様々な新聞の記事を見せて、生徒と何が重要なのかを議論するワース氏はその日、子猫を肩に乗せたソルディン氏の自撮り写真を見せた。
授業のなかでは、どうしてソルディン氏の死が世界のトップレベルのリーダーや、SNS上で大きな反響を得たのかについて話し合われた。
その議論のなかである生徒がこのように述べたという。

「彼は私たちのためにその場所にいた。私たちに伝えるために。」

ワース氏が手記に記したこの言葉は、亡くなったソルディン氏への最大の賛辞だ、と注目された。

授業では、あの、戦場で死にかけているハリネズミを必死に助けようとするソルディン氏らの映像も流された。そこで高校生の間で笑いが起こったことをワース氏はこう振り返り手記を締めくくった。

「この16、17才の若者の笑い声。その素晴らしい知性が、報道の自由と、その揺るぎない価値を感じることを可能にするのかもしれない」


テレビ朝日 外報部 所田裕樹

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