【関東大震災100年】女性が団結し画期的な支援活動 動画に映っていた米国人女性[2023/09/02 13:45]

 「関東大震災から100年」の企画です。テレビ朝日が所蔵する当時の映像に映る西洋人の女性が支援の鍵となる人物だったことが分かりました。

 1923年、関東大震災の後、東京・日比谷公園で子どもに衣料品を配る様子が映し出されています。京都西本願寺が派遣した撮影隊が撮った映像です。

 眼鏡の女性は築地本願寺法主家に嫁いだ大谷きぬ子、背が高い女性は大谷家出身の九条武子です。大正三美人と言われた人気の歌人でした。

 では、一緒に映っている西洋人の女性は誰なのでしょうか。

 群馬大学 上村千賀子名誉教授:「メアリー・ビアードでしょうね。動画は初めてですね」

 群馬大学の上村千賀子名誉教授が研究してきたアメリカ人の著名な歴史家で活動家のメアリー・ビアード。この時は2度目の来日でした。

 1922年に、やはり歴史家で都市計画の専門家でもあった夫のチャールズ・ビアードが東京市長だった後藤新平の招請され、一緒に来日。翌年9月1日に関東大震災が起きると内務大臣になった後藤新平が、9月3日に電報を打ってチャールズを呼び戻し、10月6日、船で横浜に到着したのです。

 夫が復興計画の策定を進めるなか、メアリーも日本の女性らとともに被災者支援に尽力します。

 群馬大学 上村千賀子名誉教授:「40日間。実際、体を使ってメアリーは動いたんですよね」

 ビアード夫妻の来日直前、震災支援をきっかけにそれまで別々に活動していた女性団体が団結します。「東京連合婦人会」の結成です。

 日本キリスト教婦人矯風会 斎藤恵子さん:「9月28日、矯風会館がある当時の『東京婦人ホーム』に人々が集まりました。9月30日に16団体、134人がミルク配りを始めたんです」

 メアリー・ビアードは「東京連合婦人会」の発足を喜び、顧問に就任。会合にも参加しました。

 日本キリスト教婦人矯風会 斎藤恵子さん:「(メアリーは)総会や例会にも出席したようです。『米国人ではなしに日本婦人の一人となって、この市のために尽くさん』と話したそうです」

 メアリーは講演で「まず乳幼児の死亡率を下げることが大切だ」と進言し、命やケアを重視する「女性の視点」に立った支援を訴えました。

 東京連合婦人会にも参加していた自由学園の生徒らによるミルクの配給にも足を運び、直接支援活動に携わっていたということです。

 また、現在の東京・墨田区、関東大震災で大きな被害が出た本所区にあり、150人の児童が犠牲になった太平小学校で給食支援が始まると、初日に招待されます。

 ビアード夫妻は、東京でのテント生活を覚悟してアメリカから持参していた多くの食料を提供。結局、滞在先になった帝国ホテルから自動車で、大量の缶詰やチーズ、ジャム、アスパラガスなどが運ばれました。

 ココアを飲んだ児童の反応は…。

 「夫人之友」1923年11月号から:「ちいっと臭いけど、うまいぞ。お汁粉かい?」

 さらに、メアリーは被災者のニーズに応えた支援ができるよう、カードを使った調査についてアドバイスをします。

 どの地区にどんな家族構成の人がいて、何を必要としているのか、班ごとにまとめてそれを集計し、行政とも連携していきます。

 日本キリスト教婦人矯風会 斎藤恵子さん:「その時の調査は当時として画期的なものであったと思います。サーベルを持った警察官ではなく、女学生や女性たちが母親や女性の気持ちに寄り添って、そのニーズをしっかりと聞き取っていたこと、東京の復興に生かそうと努力していたこと、それは今の震災復興にもとても大切な視点だと思います」

 寒くなるにつれ布団の要望が増えると、それに応えるべく布団を作り、安く販売する“廉売会”も開かれました。

 メアリーは、こうした活動を高く評価していました。

 群馬大学 上村千賀子名誉教授:「メアリー・ビアードは日本での女性の活動をアメリカの女性たちに紹介しています。日本の女性たちはこんな素晴らしいことをやったというふうに紹介しています」

 日本滞在中、メアリーは講演やメディアのインタビューでも多くの言葉を残しています。

 雑誌に寄稿した論文では、東京の再建に女性の声が不可欠だと訴えました。

 群馬大学 上村千賀子名誉教授:「今まで見逃されてきた、聞き入れられなかった女性のニーズというのをちゃんと出して、都市計画に女性が参加しなければいけない。1923年にメアリー・ビアードが日本の女性に力を奮い起こさせるように言ったこと、その声は、今にこだまして、私たちに問い掛け、奮い起こさせてくれるんじゃないかなと思う」

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