「100年前に撮影された場所はどこだ?」 ネットを駆使して関東大震災の映像を分析[2023/09/26 18:00]

地震発生直後の大火災や被災者の生活を捉えた関東大震災(1923年9月)のモノクロ映像。
テレビ朝日の報道ライブラリーが所蔵する、最も古い動画だ。

去年、この映像を公開するにあたり、分析を進めていたのだが、撮影場所がどうしても分からないパートがいくつかあった。
私たちはウクライナ侵攻後、戦況の分析やフェイクニュースの真贋を判断する上で欠かせなくなった「OSINT(オシント)」の手法を使い場所を特定していった。
その作業は謎解きをしていくようで、当初の予想とは違う“景色”が次々と見えてきた。

(テレビ朝日外報部 所田裕樹)


■なぜ外報部記者が関東大震災の映像を?

テレビ朝日の開局は1959年。そのはるか前に起きた関東大震災の映像がどうしてライブラリーにあるのか?

去年までの取材で、この映像は、京都・西本願寺の由来だということが分かった。震災発生直後、救護班と同時に「撮影班」を関東に送り込み、購入映像とともに各地で上映して義援金を募ったという。
フランスのリュミエール兄弟が世界で初めて映画を上映してからたった28年。実際の震災被害が映った映像は相当なインパクトで受け入れられたに違いない。

テレビ朝日の記録には、「東京・中央区にある築地本願寺の改装による一斉処分で捨てられていた35mmフィルムを会社員が拾い、保管していた。1984年にテレビ朝日に持ち込まれ、復元した」と記されている。

去年、テレビ朝日は、誰でも見られるようにと築地本願寺や、その古文書を管理する東京都中央区教育委員会と話し合い、この貴重な映像をインターネット上に全編公開した。
音声はなかったため、公開にあたって分かる情報を調べてナレーションに盛り込むことにした。重複する部分を省いた約35分の映像には、ところどころ状況を説明する字幕が入っていたが、撮影場所が分からないカットがあった。

現在わかることはなるべくわかるようにして残したい。場所の特定が課題となり、ウクライナ侵攻後の報道のためにOSINT(オシント)の勉強会に参加していた外報部の私に白羽の矢が立った。

■OSINTオシントとは?

OSINTとは英語のOpen−Source Intelligenceを略したものだ。世の中に公開されている地図や写真、文書などの資料のみを分析することで、新たな独自の情報を得る手法だ。

大昔から存在していた手法だが、SNSで大量に動画や画像が出回る時代に改めて注目されだした。特に、オランダの調査報道機関「ベリングキャット」が2014年にウクライナ上空でマレーシア航空機が墜落した事件で、SNSで流れている画像などを分析して、ロシア側の関与を指摘したことが話題になった。

私が日々携わる国際ニュースの報道でも、例えばSNSで拡散している情報が信頼できるものなのか、確認などのためにOSINTの手法を使っている。

■水のほとりの洋館はどこ? 発想の転換 なぜ柵が“水”の内側に?

分析を始めた関東大震災の映像の中で、「悲惨を極める罹災者の生活情況(字幕ママ)」という表示の後に、バラックでの生活が数カ所映し出されている。
レンガ造りの洋館の前に建てられたバラックと、その前には水面が見える。ここはどこだろうか…

水と洋館。まず、この組み合わせで、現在、東京會舘や帝国劇場が建ち並ぶ日比谷通りのお堀沿いを撮影したものだと仮定したのだが、インターネットで公開されている1920年代の東京の古い地図から当時建っていた建築物を調べ、自治体の資料館のサイトなどでそれぞれの洋館の写真などを見比べてみても、同じ形をした建築物が見当たらない。また、映像の水辺に積まれた石は丸みを帯びていて、皇居のお堀のものとは明らかに形状が異なっている。

映像をさらによく見ると、植え込みの外側、水の中から柵の支柱が出ていることに気付いた。水に入るのを制止する柵ではなく、植え込みの中に入るのを制止する柵だということだ。つまりここは、普段水がある場所ではないのではないか。

そして、建物の形だけに注目すると、現在の東京駅、丸の内口から見た駅舎と姿がそっくりだと気付く。現在の駅舎は2012年に、開業当初のものを忠実に再現したものだ。1914年に“日本近代建築の父”と呼ばれた辰野金吾が設計した、当時としてはめずらしい鉄骨レンガ造り3階建ての建物は、関東大震災を耐え抜いている。

だとすると、あの水は何なのだろうか?
国会図書館のデジタルコレクションで当時の新聞記事に、また気象庁のホームページから降水の記録などをあたると、1923年9月中旬と下旬に豪雨で特に東京の東部を中心に冠水被害が出ていたことが分かった。
さらに千代田区のハザードマップを確認してみた。すると、東京駅の丸の内側は平成になっても冠水していることが分かる。

グーグルの画像検索で大正時代の東京駅の他の画像を探し、国立映画アーカイブが公開しているや映像で近い年代の東京駅の映像を見る。すると、植栽や柵の形も一致していることが確認できた。こうして、撮影場所は東京駅の現在の丸の内口側だと断定した。

カメラマンは震災直後、被災者は首都の玄関口である東京駅の前にさえバラックを建てて生活しなければならないほど、“生き抜く”ことが大変だったということを未来に伝えたかったのかもしれない。

■100年経っても動かぬ証拠…地形

手前に木々が見え、高い場所から復興が始まる街を撮影した映像。
見た瞬間、上野の山から撮影されているものだと考えた。というのも、震災直後、上野の山には多くの人が避難してきたという話は有名で、避難していた西条八十が、どこからか流れてくるハーモニカの音色に癒されたことをきっかけに大衆のために詩を書こうと決意したというエピソードが伝わるくらいだ。ある意味、上野の山は関東大震災を象徴する場所だった。

しかし、上野の山から撮影しているとすると、国鉄の線路か不忍の池が見えるはずだが、映像にはそれらしきものは見えない。上野から撮ったと判明している他の部分とも、明らかに見えている景色が違う。

目を凝らすと平地の奥には緑地なのか、木々が生い茂っているようなものが見えた。
そこで、国土地理院のサイトの標高地形図で「丘、平地、緑地」の条件が揃っている場所を探していく。すると「愛宕山、新橋、浜離宮」が当てはまった。
映像でカメラを正面から左に振っていくと、平屋建ての建物が建ち並ぶその奥で、ひと際目立つビル群が2カ所見える。OSINTの作業で日々アクセスしていたお馴染みの古地図で愛宕山から東側、浜離宮の方向を確認してみると、その北側、ちょうど映像の2つのビル群と一致する位置に新橋駅と銀座があった。

自然の山として東京23区で一番高い標高25.7メートルの愛宕山。浮世絵にも描かれた当時のビュースポットだ。現在はぐるりとビルに囲まれていて、100年間の時間の長さを思い知らされた。

■五間堀か六間堀か? 決め手は通りに微かに映る“隆起”

平坦な地形の都市部で広範囲が冠水し、水浸しの中で住民が食事や片付けをしているブロックがある。現在の江東区、墨田区周辺は水害にも見舞われたことが知られているが、正確な場所が分からないものか、思案していた。去年の場所確認の作業では間に合わなかった映像だ。

橋の上から撮られたと思われる右から左にカメラを振る57秒。
水が残る一面の焼野原の映像に、うっすらドーム型の建物と、大通りの奥に大きな影のような建造物が映っていた。
ドーム型の建物は、当時の絵葉書(画像検索ですぐに見つけることができる)にも多く残っている「両国国技館」であることは容易に推察できた。撮影場所の左手に少し川面が映っているように見える。国技館近くの隅田川と仮定すると、映像は国技館の南側から撮られたことになる。すると大通りは「新大橋通り」だろう。大通りの奥の建造物は、「新大橋」ということになる。隅田川の主要な橋で唯一の無傷で残り、大勢の命を救った「お助け橋」として知られる当時の姿と、映像の“影“に齟齬はない。

現在の都営地下鉄・森下駅あたり。大体の撮影場所が見えてきた。ただ、最後まで悩んだカメラの位置の候補が2カ所あった。ポイントは撮影地点の橋の正面に見える水路だ。正面奥が行き止まりになっているようにも見える。
古地図を見ると、新大橋通り沿いで両国国技館の南側に先が行き止まりに見える水路が2本あった。今は埋め立てられている「六間堀」と「五間堀」だ。どちらかと考えている間に思わぬところからヒントがもたらされた。

去年、テレビ朝日が公開した動画を見た、個人の研究者がSNSに分析を投稿していたのだ。
「旧水路ラボ」さんはかつて東京に流れていた川や堀について研究し、ブログやSNSで発信している。連絡を取ってみると、すぐに「五間堀ですよ」と断定された。

でも五間堀だとしたら、カメラを左に振った時、新大橋通りに「六間堀」が見えるはずではないか? 「旧水路ラボ」さんは即答した。「大通りの奥に少し盛り上がりが見えますよね。六間堀はあの橋の下です」 目を凝らすと確かに、映像のズレにも見える、微かな盛り上がりが見える。まったく気づいていなかった。

「旧水路ラボ」さん自身、五間堀の映像を見るのは初めてだったという。
映像に映っている水路の両側の道が六間堀にはないと別の古地図で分かること、両国国技館までの角度と距離、そして行き止まりに見える水路の奥の形状など、日ごろの研究の成果を惜しみなく私たちにシェアして、“裏取り”できるようソースとなる文献までデータで示してくれたのだ。

この分析をなぞった動画を作り、今年インターネットに公開することができた。

■記録や記憶をどう伝えていくのか?

100年前の映像の現在地をOSINT(オシント)で特定していく作業は、仮説を検証していくという地味な作業の繰り返しで、「間違いない」と確信できる情報を手に入れた瞬間、何とも言えない達成感があった。

ただ、場所を特定したあと、やはり記者本能が働いたのか仕事の合間を縫って、現場を歩きたくなった。震災当時の古地図に記載されている寺院や商店を一軒一軒歩いて取材した。しかし、そこで、1923年に生まれた人も100歳だという現実に直面する。100年前の震災を生き抜いた人はもうそこにはおらず、そういった人から直接話を聞いた人も数年前に亡くなっていたり、話をできる状態ではなかったりした。
さらに、東京の下町地域は震災から22年後の東京大空襲でも多くの人が亡くなっていたり、多くの史料が焼失したりしていたのだ。
あと10年早ければ、もっと多くの情報を知れたかもしれない。そんな思いを募らせた。

一方で、21世紀を生きる私たちの強みも改めて、身に染みた。五間堀の検証ではSNSのおかげで「旧水路ラボ」さんと情報が共有され、調査が大きく進んだ。かつては、同じ志をもつ人に巡り合うことや情報交換には時間も手間も掛かったが、今はSNSを通じて簡単に繋がることができる。

今回、私たちが調査できたのは、かつて捨てられていた35mmフィルムを拾った会社員、それを復元し、保管し、調査してきた人たち、また、現在デジタル化された情報の元となる、地図や画像、記録などアナログな資料を残してくれた先人たちのお陰だ。
そして、何より、震災直後、危険な状況のなかで映像を撮った撮影陣。数えきれないたくさんの人たちが100年かけて私たちにバトンを繋いできてくれたから以外の何物でもなかった。

記録や記憶は伝え続けないと忘れ去られる。そして、忘れ去られるとその事実がなかったことになってしまう。私たちは次の100年に向けて伝え続ける責任がある、そう考えさせられる取材だった。

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