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報道ステーション

2025年8月12日 03:01

「人間がやることではない」日本軍が東南アジアで行った“華僑粛清”その実態

2025年8月12日 03:01

「人間がやることではない」日本軍が東南アジアで行った“華僑粛清”その実態
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戦後80年。経験者の多くが鬼籍に入り、私たちが直接話を聞く機会も減ってきています。戦争の記憶が遠のくなかで、現代を生きる私たちは、どう向き合っていくべきか。

戦争の“証言”と“記録”を伝えます。11日のテーマは『日本軍が占領地で行った加害』です。

東南アジア・マレー半島の南に位置するシンガポール。

血債の塔

この国の中心部に、1本の塔があります。その名は『血債の塔』。戦時中、日本軍によって命を奪われた多くの人の遺骨が眠っています。

悲劇の歴史

かつて、この地で起きた悲劇の歴史。

その実相を、幼き日の記憶として語り継ぐ沈素菲さん(89)。

沈素菲さん
沈素菲さん
「具体的な月日はもう覚えていないが、(日本軍が)シンガポールに入ってきて、3日目の日だけは覚えている。日本軍がシンガポールの人を殺しに来た」

父と映る唯一の家族写真を見せてくれました。

沈素菲さん
沈素菲さん
「父は、銀行で働いていた。とても奥ゆかしく知識のある人だった。家で父の帰りを待ち続けたが、父は、再び家に帰ることはなかった」
真珠湾攻撃

1941年12月8日、真珠湾攻撃。アメリカとの全面戦争へと踏み切った日本。

石油やゴム

その直前、日本が奇襲を仕掛けていたのが、東南アジア・マレー半島です。狙いは、石油やゴムなどの資源が豊富なこの地をおさえ、戦争継続への足掛かりにすること。

日本軍は、わずか2カ月という驚異的な早さでマレー半島を攻略し、東南アジアの貿易拠点・シンガポールを陥落させました。

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司令官・山下奉文

『陣中日誌』と書かれた日本軍の記録。のちに“マレーの虎”と呼ばれる司令官・山下奉文は、ある人々の存在を警戒していました。それが、この地に多く暮らしていた中国大陸から移住してきた“華僑”と呼ばれる人々です。

第25軍司令官 山下奉文中将(当時)
第25軍司令官 山下奉文中将(当時)
「作戦地住民の過半は、華僑にして、特に経済的実権はほとんどその手中にあり。而して敵性を有するものは断固膺懲す(懲らしめる)」
華僑が中国本土を支援か

中国とも敵対関係にあった日本。
戦況が泥沼化するなか、中国本土を支援しているとみられていたのが、華僑でした。

沈さんの家族も、シンガポールで暮らす華僑でした。

沈素菲さん
沈素菲さん
「(私の周りの)華僑が花を売り始め、あちらこちらで、一輪一輪、売って歩いていた。(次第に)たくさんの人が協力して、花を売るようになった。義援金を募って、中国を援助した。それで日本軍は、シンガポール人(華僑)を恨むようになった」
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華僑の粛清

そこで行われたのが、一般市民をも巻き込む粛清。
戦後、その全貌を明らかにしたシンガポールでの裁判では、この事件を“虐殺”として裁きました。

シンガポール陥落から3日後

シンガポール陥落から3日後。
山下司令官は、占領地域の治安維持を任されていた河村少将に、ある命令を下します。

第25軍司令官 山下奉文中将(当時)
第25軍司令官 山下奉文中将(当時)
「シンガポールの治安は非常に悪い。直ちに管轄地域における掃討作戦を実施し、抗日分子を一掃すべきである」
検問

その期間、わずか3日。
検問の対象となったのは、当時、シンガポールに住んでいた華僑約60万人。それを、わずか200人あまりの憲兵で選別するという、あまりに無謀な命令でした。

検査済みの印

選別は“現場任せ”。抗日活動との関わりがないと判断された者は、検査済みの印が押され、解放されました。一方で、“眼鏡をかけている”というだけで、インテリ=抗日分子とされることも。抗日とみなされた者は、連行され、銃や剣で殺されました。

粛清

粛清は、シンガポール各地で行われていたことがわかっています。

検問の対象

日本軍による検問の様子とされる写真。主に15歳から60歳の男性が集められています。

選別を担当した憲兵の証言記録です。

中山三男憲兵曹長
中山三男憲兵曹長
「とにかくインテリのやつを人相と服装だけで、パッパッとやっとるからね。ただ、命令だからしょうがない。その当時(華僑を)半分粛清するんだということを自分らも聞いたですから、半分もやるなら、ちょっとくさいものもというわけで」
日本側の報告

日本側の報告では5000人、一方、シンガポールでは5万人以上が犠牲になったと、両者の言い分は異なります。

沈素菲さん
沈素菲さん
「80年過ぎたが、過去を振り向くと、やっぱり心は痛い」
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日本軍による粛清は、やがて、マレー半島各地へと波及します。

マレーシア中部・ネグリセンビラン州。
山間の土地で、多くの抗日分子が潜んでいると日本軍はみていました。

陣中日誌には、こう記されています。

陣中日誌(昭和17年3月2日 第1大隊)
陣中日誌(昭和17年3月2日 第1大隊)
「鉄道線路、および道路の両側500メートル以外の支那人および英国人は、老若男女を問わず、徹底的に掃討す」
陣中日誌(昭和17年3月16日 第7中隊)
陣中日誌(昭和17年3月16日 第7中隊)
「本掃討地区は、支那人部落多数にして、全部落民を集め、訊問調査したる後、不貞分子156を刺殺」

当時、マレーシアの主幹産業だったゴム園を営んできた一家も標的となりました。

鄭来さん

鄭来さん(90)。体にはいまも、銃剣で刺された傷が残っています。銃剣は、背中から胸へ、突き抜けました。

鄭来さん
鄭来さん
「夜に寝ているときに日本軍が来て、家を壊してまで、人を探しに来た。あのとき、私は6歳で…」

家族7人のうち、生き残ったのは、テイさんと弟の2人だけです。

鄭来さん
鄭来さん
「両親が殺されて『仇を取らないと』と思った。捕まっても平気だ、死んでもいいのだ、仇を取らなければと思った」

粛清された鄭さん一家の墓は、小さな墓石。その理由は、誰一人、埋葬するための遺骨が見つかっていないためです。

鄭来さん
鄭来さん
「母は(生前)私に『あなたが生まれてくる時代を間違えた』と言った。そのときの私は、その意味がわからなかった。あれは人間がやることではなかった。子どもは何も知らない、何もしていない。大人といただけで、殺されるのは、あんまりだ」

その傷は、いまも心の中でうずき続けています。

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