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2025年8月15日 07:00

日本語を急ぎ習得せよ!集められた語学エリートと戦時下の英国日本語特訓学校

日本語を急ぎ習得せよ!集められた語学エリートと戦時下の英国日本語特訓学校
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机の上に運ばれたのは、古びた赤いブリキの缶。

戦前、英国の家庭の定番だったという肉と野菜エキス入りの固形調味料のものだ。蓋を開けると、手製のカードがびっしりと詰め込まれていた。

カードの表には漢字。裏にはアルファベットで読み方と、英語の意味がきちょうめんな字で書かれている。このカードの作者はフィリップ・ベニスさん。

名門ケンブリッジ大学で言語学を専攻していた途中、英海軍に招集された。

ベニスさんの任務は軍艦への乗り組みでも飛行機の操縦でもなく、敵国の言語「日本語」を速やかに修得することだった。
(テレビ朝日報道局 ロンドン支局 醍醐穣)

「日本語話者を送れ!」前線からの催促 

無条件降伏の白旗とイギリス国旗を掲げ、日本軍陣営に来たシンガポール防衛のイギリス・マレー軍総司令官のパーシバル中将(右端)ら
1942年02月15日 シンガポール
無条件降伏の白旗とイギリス国旗を掲げ、日本軍陣営に来たシンガポール防衛のイギリス・マレー軍総司令官のパーシバル中将(右端)ら        1942年02月15日 シンガポール

1939年9月のナチス・ドイツのポーランド侵攻以来、欧州各地で激しい戦闘が続いていた。

1941年12月8日、日本が参戦し、戦争はアジア・太平洋にも広がった。日本軍は参戦直後、香港、ビルマ(現ミャンマー)など英領にも破竹の勢いで進軍。

大戦中の史料を研究するトーマス・チーサム博士は「日本の参戦により英国は大きな問題に直面した」と語る。

英軍は、日本軍の通信傍受、資料解読、捕虜尋問などのため、日本語を理解する人員を必要としたが、戦前、英国内の日本語話者は数百人程度。開戦前に目星をつけていた該当者の多くは、日本国内や占領地で抑留もしくは捕虜となっていた。

前線の部隊などから催促が本国に届く中、軍部は対応に迫られ、日本語を習得させる学校を急きょ設置することになった。

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「日本語スパイ学校」の開校

日本スパイ学校 Japan spy schoolの銘板
                   日本スパイ学校 Japan spy schoolの銘板

ロンドンの北西約80キロにあるベッドフォード。ビールの醸造やレースの生産で栄えたこの街は、今は倉庫が建ち並ぶ物流拠点となっている。

日本参戦から2カ月後の1942年2月、この町に日本の暗号解読の即戦力となる人材を短期間で育成することを目的とした学校が開設された。英軍特別諜報学校付属の日本語学校だ。

冒頭のベニスさんも1944年ここに入校する。

中心部にある宝石店の壁には「ブルー・プラーク」と呼ばれる史跡案内板が掲げられ「Japanese Spy School(日本語スパイ学校)」の文字が刻まれている。

当時はガス会社のショールームだった場所が、教室として使用された。

ほかにもホテルや住宅など少なくとも5カ所が校舎として使用され、建物は今も残る。

集められた「語学エリート」たち                    

 主任教官タック氏と学生の集合写真
                         主任教官タック氏と学生の集合写真

「スパイ学校」の設立は、政府暗号学校の主任で、日本海軍の暗号の解読に成功した暗号解読の権威ジョン・ティルトマン准将が主導した。

主任教官には、元・日本駐在武官補で日露戦争の記録など多数英訳したオズワルト・タック元海軍大佐が就任し、日本の暗号解読と翻訳に特化した6カ月の速習プログラムが組まれた。

会話や日本文化などへの理解に関する授業は行わず、まず基本となる1200単語を学んだ上で、軍事用語など翻訳に必要な語彙を増やし、大本営発表や外交通信など実際の文書の翻訳を繰り返す。

集められたのは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学などでラテン語や古代ギリシャ語など西洋古典を専攻する学生たち。

修得が難しい言語を学ぶ学生は、未知の日本語の修得に適していると考えられ、各大学から特に優秀な者が教授の推薦により派遣された。

1945年11月の閉校まで計11期・224人が学んだ。

名門SOASにも日本語特別コース

SOAS・ロンドン大学東洋アフリカ研究学院
                      SOAS・ロンドン大学東洋アフリカ研究学院

一方、比較的時間をかけて日本を学ぶ学校も作られた 。

SOAS・ロンドン大学東洋アフリカ研究学院は、アジア・アフリカの文化・言語研究で今も世界的に知られている。1942年5月に、SOASにも日本語特別コースが開講した。

政府給費制コース(20カ月・パブリックスクールなどを卒業したばかりの語学に長けた生徒を選抜)、尋問官、翻訳官(いずれも12〜18カ月)など5つのコースに分かれて養成が行われた。

ベッドフォードの「スパイ学校」と違い、日本語の読み書き、会話、コースによっては理解を深めるために歌や文化なども教えた。

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必死の修得…「Z旗」カードと「山本五十六」ノート 

「開くと中に200枚くらいぎっしりとカードが入っていて。裏面には表の内容を説明するためのものが全て手書きで、かなり手間がかかるだろうと。あの時のプレッシャーは相当だったに違いありません」

妻ダイアナさんは、ベニスさんの死後、屋根裏から漢字のフラッシュカードが入ったブリキ缶を見つけた時のことを思い出す。学生らは、日本語の漢字を習得するために、フラッシュカードを自作し、擦り切れるほど見直した。

「スパイ学校」での授業は、平日午前9時半から午後5時と、土曜午前中に行われ、 後列に座った学生は、翌日は最前列に席替えさせられるシステムで、サボることは許されなかったという。

ベニスさんは、日本語を学んだことについて生前、多くを語らなかったが、「課題と修得のスピードがとても速くて大変だった」とだけ語ったという。

ベニスさんのノートには、降水量「KOOSUIRYO」などで始まる気象用語、潜航「SENKO」、雷撃「RAIGEKI」など海軍の作戦や兵器にまつわるもののほか、日本軍の暗号や外交通信に頻出する単語などが分野ごとに非常に細かくまとめられている。

人名では山本五十六連合艦隊司令長官の名前も確認できる。

漢字のフラッシュカードのほか、軍艦が使用する国際信号旗のカードも色鉛筆で彩色して自作した。

筆者が拝見したカードの束の1枚目はくしくも「Z旗」。

日露戦争の日本海海戦で東郷司令長官が掲げて以来、旧日本海軍では「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」という独自の意味を表すものだ。

12日間連続勤務…諜報拠点での過酷な任務

ブロックBだった建物
                         ブロックBだった建物

ベッドフォードの「スパイ学校」を卒業すると多くの学生は、隣町にある「ブレッチリー・パーク」に配属された。

ブレッチリー・パークは、英軍の諜報や暗号解読の拠点だ。数学者アラン・チューリング(映画『イミテーション・ゲーム』でベネディクト・カンバーバッチが演じた人物)が独軍の暗号機「エニグマ」を解読した場所でもある。

日本の暗号解読は、「ブロックB」と呼ばれる建物で行われた。

3交代制、12日間連続で休みは2日という過酷な勤務に、急造の建物は、換気や水はけが悪く、体調を崩す人も多かったという。

ブロックB内部の様子を描いたイラスト
                      ブロックB内部の様子を描いたイラスト

そうした環境の中、日本語の読解を身につけた語学エリートたちは、必死に日本の暗号を解読していった。 

「終戦間際の1945年5月、日本海軍の重巡洋艦・羽黒をマラッカ海峡で英艦隊が撃沈したのは、ブロックBなどの情報によるものです」 

とチーサム博士は説明する。

英艦隊に撃沈された重巡洋艦・羽黒
                         英艦隊に撃沈された重巡洋艦・羽黒

ペナン沖海戦と呼ばれるこの戦いでは、孤立した陸軍部隊への物資輸送中の羽黒と駆逐艦・神風が、待ち受けていた英駆逐艦5隻と交戦し羽黒が沈没。英側の損失はなかった。

前月には、沖縄に向け出撃した戦艦・大和も撃沈され、羽黒は日本に残された数少ない大型艦で、「日本海軍の主力艦による最後の海戦」と言われている。

「特に日本語のようななじみのない言語をゼロから学ぶことは明らかに困難ですが、毎日戦争に貢献するプレッシャーの下で彼らが非常に努力したことは、この事例が示しています」

語学エリートたちの戦後                 

                    

軍服姿のベニスさん
                              軍服姿のベニスさん

長期間の教育を行ったロンドン大学SOASで日本語を学んだ学生は戦後、駐日大使や、日本企業の幹部、日本文学の研究者など、政官財や文化など様々な分野で日英の架け橋的な役割を果たした人物が大勢いる。

それに比べ、ベッドフォードの「スパイ学校」卒業生達は、日本との関わりは薄い。

その理由として、暗号解読に特化して会話の授業が行われなかったことや、

諜報機関であるブレッチリー・パークでの任務について戦後、公言することが厳しく罰せられたことなどが挙げられる。

「ブレッチリー・パークの全貌は1970年代まで完全に秘密とされていました。その後数十年かけて、ようやく日本の暗号通信解読を含む、ここで行われた全容が判明しましたのです」

とチーサム博士は語る。

戦後、高校の古典教師や校長を務めたベニスさん。秘密を守り、日本の暗号解読に携わったことは、妻のダイアナさんにも一切話さなかったという。「日本語の『おはようございます』や『お会いできてうれしいです』といった挨拶も言えないのに、『敵潜水艦撃沈』といった言葉だけ突然、口にしたと、ダイアナさんは振り返る。

インタビューに答えるダイアナさん
                          インタビューに答えるダイアナさん
「彼の日本語の修得方法はかなり珍しいものでした。彼なりの国への貢献ではありましたが、彼の人生はすべて言語に捧げたものだったのに、戦争によりそれが突然止められた、またその当時のことを語ることもはばかられたことは、相当つらいことだったと思います」
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