中間選挙などを控えるアメリカでは、政治的な考え方の違いから政治の話題を避けるようになったと答える人が民主党支持者の77%、共和党支持者の55%に達するなど、社会的・政治的な分断が深刻化している。
かつて多様性を包摂してきたはずの社会で、なぜここまで対立が深まったのか。そして、分断を乗り越えて人と人がつながり直すには何が必要なのか。『ABEMA Prime』では、哲学者の朱喜哲氏と、宗教学者の柳澤田実氏を招き、分断の背景と打開策について考えた。
■アメリカの分断の現状と背景

アメリカにおける分断の現状について、朱氏は「単に意見が合わないというレベルを超え、論点がそもそも一致しなかったり、言葉が通じなかったりする『分極化』が進んでいる」と指摘する。1つの単語の選び方だけで「あちら側か、こちら側か」と判断されかねず、共通の議論の台座すら失われつつあるという。
この背景には、メディア環境の変化とSNSの普及がある。柳澤氏は、戦後一貫して政治や宗教が資本主義的な活動に飲み込まれていったことや、インターネットの台頭によって「いかに注目を集めるか」というアテンション・エコノミー(注目経済)に社会全体が飲み込まれていった構造を分析する。
さらに朱氏は、SNSの影響について「顔が見えず、体を伴わないメディアだからこそ、面と向かっては言えない攻撃的な言葉が蔓延してしまった」と語る。かつて世界をつなぐと期待されたテクノロジーが、論破や強い言葉を広げる側面も持つようになったとし、「トランプ大統領の存在は分断の原因というより、こうした社会の症状・結果である」と述べた。
現地ニューヨークでの取材を行った柳澤氏によると、こうした激しい対立の渦中で、特に若者の間に「政治や対立にうんざりし、疲弊している」という空気が広がっているという。
■正しさや損得から解放される「クラブ」の存在

対話すら困難になった社会で、分断を回避するヒントとして両氏が挙げたのが「クラブ」と呼ばれる居場所の存在だ。
朱氏は社会における場を、不特定多数が集まり、誰が聞いているか分からないため発言に気を遣い、正しく振る舞うことが求められる 公の場「バザール(市場)」と、身内として安心・安全に関われるサークル的な場「クラブ」の2つに分類して説明する。現代社会はSNSをはじめとする「バザール的な正しさ」で覆い尽くされており、失敗や不適切な発言が許されない環境が人々を萎縮・疲弊させているという。
一見、SNSのエコーチェンバー(同調空間)が「クラブ」のようにも思えるが、朱氏は「SNSは非公開の場であってもデータが残り、いつ晒されるか分からない公共の場(バザール)である」と指摘。だからこそ、間違っているかもしれないが「こう思っちゃうんだよね」と本音や弱音を漏らせる、本当の意味での「心理的安全性の高い暗がりやサークル(クラブ)」が必要なのだと訴えた。
柳澤氏も、ニューヨークで取材した若者の中に、政治的な対立に疲れ、カトリック教会に居場所を求める人たちがいることを紹介。「過酷な経済状況や政治的対立の中で、正しさによる裁きや損得勘定から解放され、無償で安心していられるコミュニティ(クラブ)を若者たちが求めている」と分析した。
■説得のための「対話」から、身体性を伴う「会話」へ

さらに朱氏は、人と人とのコミュニケーションのあり方そのものを再定義する必要性を訴える。
論理や言葉によって相手を説得したり合意を形成したりしようとする「対話(ダイアローグ)」ではなく、朱氏が提唱するのは、合意や説得の手前にある「会話」や「身体性」を取り戻すことだ。違う考えを持つ相手ともただそこに一緒にいて、言葉や身体的なやり取りを通じて緊張を緩和することが大切だという。
朱氏は「SNSの言葉は相手の顔や身体がないからこそ書けてしまうものだ」と指摘する。人間が使う言葉は本来、動物同士の毛づくろい(グルーミング)の延長線上にあり、相手と対面して論破や説得の手前で「互いの緊張を緩和する」ためにあると説明。アイコンタクトや手振りといった身体性を伴うコミュニケーションを取り戻すことの大切さを訴えた。
こうした課題は日本社会においても無縁ではない。日本において対話や共存をどう進めるかという問いに対し、朱氏は、西洋で生まれた「リベラリズム(寛容さ)」とは、無理にわかり合ったり説得したりすることではなく「互いに過剰介入せず、適度にほっとき合うマナー」であると説明。日本の日常にある喫煙所やサークルのような身近な場を引き合いに出し、互いに干渉し合わないための距離感とマナーを持つことが、共存の鍵になると指摘した。
(『ABEMA Prime』より)