1977年「人の命は地球より重い」日航機ハイジャック事件 石井一団長 緊迫の交渉[2022/06/13 19:00]

1977年、バングラデシュで起きた日航機ハイジャック事件、いわゆる「ダッカ事件」。
今月4日に、87歳で亡くなった石井一元衆議院議員は当時43歳、運輸政務次官で、政府の派遣団長として現地入りし、犯人側と交渉して乗客の救出にあたりました。

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1977年9月28日、日本赤軍の5人の男によってパリ発東京行きの日本航空472便が、中継地のインド・ボンベイを離陸後にハイジャックされました。

パーサー「いきなりハイジャッカーが、5人組が立ち上がって、なだれ込むようにダーッと来たわけですね」
副操縦士「パーサーの方より『機長、乗客が殺されるので操縦室を開けてください、と」

着陸を強行したのはバングラデシュのダッカ空港。
犯人は乗客・乗員151人の人質と引き換えに、日本国内の獄中にいる過激派活動家 9人の釈放と出国、そして身代金600万ドル、当時のレートでおよそ16億円を要求したのです。

福田赳夫総理)
「人の命は地球よりも重い」

事件発生の翌日、後々、語り継がれる言葉を発した当時の福田赳夫総理。
政府は「超法規的措置」として、犯人の要求を飲む決断をします。

9月30日午後4時30分、対策本部長の園田官房長官が、現地で犯人との交渉にあたる代表団の派遣を発表しました。

園田官房長官)
犯人側は今のところは日本政府とは交渉しないと言っているのですが、主として日本の乗客、日本の飛行機ですから、あらゆる努力をして、犯人と、行った代表団が直接接触するように、わたしは努力を要請するつもりでおります。

この出発をする一行の団長は事の重大性に鑑みて石井運輸政務次官。

任命された石井一団長に福田総理は政府の方針通り、「人命尊重の精神をつらぬいてことにあたってほしい」と指示しました。

事件発生から4日目、10月1日午前3時半、ハイジャック犯が釈放を要求した9人の受刑者のうち出国を希望した6人が、2台の護送車に分乗して東京・小菅の東京拘置所を出発しました。

およそ50分かけて羽田空港に移送され、法務省の出入国管理事務所に到着。
出国の最終的な意思確認を受けて、6人全員が出国を希望しました。

この6人らとダッカに向かう石井団長は出発直前、羽田空港で記者会見しました。

石井団長)
今回の事件は誠に遺憾でございますけれども、日本政府といたしましては、乗客の人命の尊重ということを最重点に置き、また、乗員の安全の確保ということを考えて、バングラデシュ政府の協力のもとにこの問題に全力を挙げて対処したいと思っております。

午前3時、衣料品や食料品など、命綱となる救援物資が積み込まれます。
すでに解放されていた人質から機内の劣悪な環境が伝えられていました。
一時40度を超す暑さになったほか、衛生状態も悪くなり、極度の緊張状態が続き体調を崩す人質も出ていました。

午前5時15分、身代金600万ドルが入った黒い鞄3個が係員によって機内へ運ばれます。

そして超法規的措置で釈放された6人が護送車から降りてきます。
奥平純三容疑者は当時28歳、この時に出国して現在も国際手配中です。

仁平映容疑者も国際手配されています。当時31歳。

やはり国際手配中の大道寺あや子容疑者もこの時、釈放され出国しました。28歳でした。

最後に専用機に乗り込む派遣団の石井団長と田村運輸大臣が握手をかわします。
朝田静夫 日本航空社長が続きます。

派遣団は交渉の選択肢として身代わりの人質になることも想定していました。
見送る園田官房長官らおよそ100人も緊張の面持ちです。

午前6時4分、護送機は奥平純三容疑者ら釈放された6人を乗せてバングラデシュに向けて出発しました。

その日のうちにダッカ空港に到着。

石井団長らは、全員解放に向けて交渉にあたるものの、犯人側は釈放された活動家1人を機内に引き渡すごとに10人ずつ解放するなど小出しにして交渉は難航します。
現地の様子は衛星中継で日本にも伝えられていました。
人質となった乗客の家族が、ハイジャックのニュースを見守ります。
政府の対策本部長、園田官房長官も食い入るようにテレビの画面に見つめます。

記者)(ハイジャック犯は)全員釈放に乗ってこないですね
福田総理)なかなか乗ってこないようだな
記者)そうするとね、このままいくと人質たちもかなりくたびれているわけですけどね。
福田総理)60時間でしょ?
記者)そうするとまぁ向こうの方の(言う)59人ですか。
釈放でもって、やむを得ないという断を下す場面もあるわけですか?
福田総理)いや、そう簡単にはいかんな。
記者)当面はとりあえずそうすると、粘って全員釈放
福田総理)それはそうだよ

しかし、思いもよらない事態が発生します。
現地でハイジャックに乗じたクーデターが起きて、バングラデシュ政府が日航機に離陸を命じたのです。

交代で入った乗員も含めて機内にはまだ36人が残っていました。
日本時間の3日未明。
どこに向かうのか、受け入れ先の国も決まっていませんでした。

こうした中、ダッカで解放された92人とともに副団長の道正邦彦官房副長官が帰国しました。

道正副団長)
クーデター騒ぎにより事態は急変いたし、爆薬と600万ドル、16億円余を積んだハイジャック機が万一反乱軍の手に渡るようなことがあれば、バングラデシュ政府としては国際的な人質を取った反乱軍に対することになり、極めて深刻な立場に立つことは極めて明らかであり、一昨日のYou must take off immediately. 即時に出発せよという異例のバングラデシュ大統領命令が出されたものと考えます」

石井団長らはダッカから人質36人を乗せた日航機を追いかけていました。
クウェートで7人、シリアのダマスカスで10人の人質が解放されました。
そして、日本時間の4日午後1時、アルジェリアのアルジェでハイジャック犯5人と釈放された6人は機外に出て、連行され、最後の19人全員が解放されました。
事件発生から7日目のことでした。

アルジェからダマスカス、クウェートと遡って、途中で解放された乗客・乗員を乗せながら、石井団長らの特別機が羽田空港に帰ってきたのは、事件発生から8日目、10月5日のことでした。

石井政府派遣団長)
今回の事件で、特に政府が強調しておりました人命尊重という、基本的方針が一応貫かれて、全員が無事で帰ってくることができたということ。
わたしは、自分の重大なミッションを考えた場合に非常に喜んでおります。
我々は、できればダッカという時点でこの全面解決をしたかった。
そのためにあらゆる努力をしたわけですけれど、「乗客の安全は完全に守る。
しかし、航行の安全のために貸してくれ」と。
これがですね彼らの主張であったわけですから、あれ以外、ハイジャック犯はあの状態の中では、彼らの要求をきかない限りどうにも解決のできん、という厳しい状態があります。
この犯罪の特殊性があります。
その場合、こういう形でですね、わたくしは人命の安全というものに最後まで確信を持っていましたし、これ以外の方法はなかったというふうに考えております。

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