安倍晋太郎氏へ 社会党 田辺誠委員長の追悼演説「剣道の神髄はメン」1991年[2022/10/23 10:00]

10月25日、立憲民主党の野田佳彦元総理大臣が安倍晋三元総理の追悼演説に立ちます。
過去の政治家による追悼演説や弔辞を振り返ります。

1991年8月8日、安倍晋太郎氏に対する追悼演説が行なわれました。
社会党の田辺誠委員長が、志半ばで生涯を閉じた安倍氏をしのびました。
妻の安倍洋子さん、長男の安倍晋三氏が傍聴席で耳を傾けました。

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ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員安倍晋太郎先生は、去る5月15日、順天堂大学附属病院において逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
私がその日の朝、病院に駆けつけましたときは、先生の御遺体を乗せたひつぎが、国会正門前を通過して自宅に帰るため、病院の門を出発した直後でありました。
私はそれを見送りながら、輝ける大器、安倍先生の御霊の安らかなことを祈ったのであります。
ここに、私は、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと思います。

 先生は、大正13年4月29日、かつて本院議員であられた安倍寛・静子御夫妻の長男として、山口県大津郡油谷町でお生まれになりました。
先生は、生後3カ月足らずで大伯母ヨシさんのもとに預けられ、幼少時代を過ごされました。
ヨシさんは、安倍家嫡嗣である先生を厳しくも温かくしつけられました。

 長じて、先生は、県立山口中学、旧制第六高等学校に進まれました。
先生は、中学、高校時代を通じ、父君が政務で東京暮らしが多かったこともあって、両親のいない生活の寂しさを紛らすため、剣道と文学に没頭されました。
殊に、長身を生かし、「メン」を得意技とされた剣道の腕前は六高でも随一で、「選手監督」として活躍をされました。
後年、先生と談笑した際、同じ剣道を学んだ私が「コテ」打ちの妙味を主張したのに対し、「田邊さん、剣道の真髄は真っ向みじんに打ち込むメンにあるよ」と譲らなかったのであります。
ここに、人生を真っすぐに生き抜いた人間・安倍晋太郎先生の面目躍如たるものがあったと思うのであります。


 その後、太平洋戦争において日本の敗色が濃厚になりつつあった昭和19年9月、在学一年半で六高を繰り上げ卒業、東京帝国大学に入学されました。
しかし、翌10月には、学徒動員で海軍滋賀航空隊に入隊し、予備生徒隊で生徒班長に任ぜられ、猛訓練の先頭に立たれました。
翌20年、特攻隊に志願、千葉県館山で本格的な特攻訓練を受け、いよいよ出陣というときに終戦を迎えられました。

 戦後の混乱の続く中、先生は大学に復学されましたが、講義の再開もままならず、間もなく郷里に戻られ、戦後初めての総選挙に立候補の準備を進めていた父・寛氏を手伝われました。
しかし、寛氏は選挙を目前にして心臓麻痺のため急逝されたのであります。

戦前、大政党の金権腐敗を糾弾し、終始戦争に反対し続け、昭和17年の翼賛選挙では非推薦で立候補するなど、反骨の政治家として、選挙民からは「昭和の吉田松陰」と慕われた父の時代が訪れたと自分のことのように喜んでおられた先生は、このとき、亡き父の遺志を継ぐべく政治家になることをしかと決意されたのであります。

 昭和24年4月、大学を卒業された先生は「将来、政治家となるには新聞記者となるのが一番」と毎日新聞社に入社され、日夜の取材に若さを燃焼させる中で、生きた政治の動きをつぶさに学ばれました。
 そして、入社3年目の昭和26年、先生は当時公職追放中の身であった岸信介氏の長女・洋子さんと結婚されました。
 昭和31年、既に政界に復帰されていた岳父・岸氏が石橋内閣の外務大臣として入閣された際、先生は直ちに外相秘書官に身を転じられ、翌年、岸内閣が誕生するや総理秘書官に就任されました。

総理官邸という国政の中枢において、政界の要人から薫陶を受けつつ政治家としての資質を存分に磨かれると同時に、来る総選挙に立候補すべく着々とその準備を進められていたのであります。
しかし、選挙区は有力者がひしめき、極めて厳しい状況にありました。
岸氏もそれとなく自重を促されたようでありますが、先生は頑として承知せず「どんなことがあっても立候補する」と、尋常ならざる覚悟をされたと聞いております。
まさに「一度決めたらてこでも動かない」という先生の政治に対する一徹さを見る思いがいたします。

 かくて、昭和33年の第28回衆議院議員総選挙において、先生は、若き郷党の衆望を一身に集め、見事初当選の栄をかち取られ、政治家のスタートを切られたのであります。

※この映像にはナレーションはありません。ご了承ください。

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