「沖縄のチムグクルを」祖母の涙が『平和の詩』に…込めた“伝承”の決意[2023/06/23 23:30]

78年前の6月23日。太平洋戦争末期の沖縄で、旧日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされています。4年ぶりに行動制限が解除されたなかで開かれた戦没者追悼式。沖縄は、祈りに包まれました。

糸満市は、最後の激戦地でした。公園に並ぶ平和の礎には、国籍や、軍人か民間人かの区別もなく、沖縄戦などで亡くなられた24万人あまりの名前が刻まれています。

戦争を語り継ぐのが難しくなるなか、この4年、若者と高齢の方が触れ合う機会も限られていました。
平和の礎を訪れた中学2年生:「いつも本では、数字なので、こうやって名前を一つひとつ見たら、ここの地域だけで、これだけ亡くなっているんだなと。(Q.伝えるバトンを渡される側になる意識は)小学校のときから平和学習はしているので、体験した世代がお年寄りになっているので、次は、伝える番なんだとよく思います」

平和の礎を訪れた人:「これだけの方の名前を見ると、本当に心が苦しくなる。足の踏み場もないくらいの死体で、沖縄は、死体を踏んで、いま生きている人たちは、歩いてきたと言っていたので、亡くなった方の意思を受け継いで、次の世代にも絶対に伝えていきたい」

去年の追悼式は、340人の参列にとどまりましたが、今年は、3500人分の席が用意されました。

沖縄県・玉城デニー知事:「戦争体験者からの未来への教訓を次の世代へ伝えていくことは私たちの使命です」
岸田総理:「今もなお、沖縄の皆さまには、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいています。基地負担の軽減に全力で取り組んでまいります」

沖縄の児童や生徒が綴った作品から選ばれた今年の『平和の詩』は、私立つくば開成国際高校3年・平安名秋さんの『今、平和は問いかける』。戦争で兄を失った祖母の体験です。

平安名さんの祖母は、高齢者施設で見守っていました。

追悼式が終わり、平安名さんが向かったのは、詩で詠んだおばぁが、そっと触れて涙した礎でした。
私立つくば開成国際高校3年・平安名秋さん:「(Q.(平和の詩で)“兄”と表現。どうしてあの言葉を選ばれたのですか)兄の名に触れて泣く祖母を見たときに、本人は多分、兄に触れているつもりだと思うんですね。でも、そこにあるのは、ただの文字でしかない現実もある。遺骨も帰ってきていない、遺品も還ってきていないなかで、結局、兄には触れていない。胸が締め付けられる思いになって。(Q.継承する役割を自任した。どう考えていますか)僕はいま17歳で、もう戦後78年経って、自分たちが伝えていかないと、沖縄戦の記憶が途絶えてしまう、なくなってしまうと思うと、やはり自分たちが、次の世代として、沖縄の平和への思い、そして“沖縄の心”詩にも書いた“チムグクル”、少しでも届けられたら。それを伝えていく責務、義務がある」

◆平和祈念公園の平和の礎から

大越キャスター:私は、平安名さんの平和の詩を聞き、話をするなかで、ある種の強い決意を感じました。追悼式の後、平安名さんに会って、朗読した詩の原本を見せてもらいました。そこには、さまざまな書き込みがありましたが、なかでも後半のくだりに赤い線が引かれていました。『先人達が紡いできた平和を、次は私たちが紡いでいこう』という内容でした。「そこを強調したかったのです」と平安名さんは話していましたし、実際、聞く私たちの胸に強く伝わってきました。

(Q.子どもが涙する場面もありましたが、子どもなりに悲しみや苦しみを紡いでいこうという思いは尊いものですね)
大越キャスター:そうですね。戦争から月日が経過して、戦争体験者の数が年々、少なくなっています。一方で、戦後生まれの世代が、戦争体験を継承していこうという決意を抱いている。そういう方が多いと、沖縄に来て感じます。この平和の礎にも、23日はお子さんやお孫さんを連れて、手を合わせる人が多くいました。自身のお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんの名前が書かれた礎の前で手を合わせていました。私は、大阪から一人でやってきましたという女性に話を聞きました。おばあさんが、沖縄戦で命を落としたということですが、「自分はこれまでの人生で、あまり深く考えたことがありませんでした」と話をしていました。「今だからこそ、自分のルーツを知りたい。もっと戦争のことを知らなければならない。そういう思いで、ここにやってきました」と話をしていました。

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