戦前、多くの日本人がフィリピンに移住した。最盛期には3万人。
しかし、日米の戦闘に巻き込まれ日本人の父親を亡くしたり、生き別れた2世たちが、戦後、「無国籍」で取り残されている。
日本国籍の回復を願う2世たちに、日本の司法が「父親との親子関係を証明するものがない」と高い壁となり立ちはだかってきた。
私たちは3年にわたり調査を続け、日本人の父親に関する証拠や、日本の親族を次々と発見。ついに、国も動いた。
(テレビ朝日報道局 浦本勳 松本健吾)
証拠発見 そして日本国籍を回復 涙の親族対面も
7500の島々が点在するフィリピンの小さな離島で暮らすモリネ・エスペランサさん(87)、リディアさん(85)姉妹。日本人の父親は戦時中行方不明に。フィリピン人の母親と、日本人の子どもであることを隠して生きてきた。姉妹が聞いた父に関する情報は、父親の名前「モリネ・カマタ」、出身地は「沖縄」、職業は「漁師」ということ。
その証言をもとに調査を続けると、戦前、沖縄の「盛根蒲太」という男性がフィリピンに渡ったパスポート記録を発見。沖縄で、親族を探す調査が始まった。
すると、沖縄県の移民に関する記録に「盛根蒲太」のデータが残っていたことがわかった。
目的は「漁業のための渡航」。
「父は漁師だった」という姉妹の証言と一致した。
さらに盛根蒲太さんの弟の孫も発見し、決定的な証言を得た。
姉妹はこの証言が有力な証拠の一つとなり日本国籍を回復した。
その後、沖縄の親族2人がフィリピンを訪ね、涙の対面を果たした。
ついに国が動いた
多くの「国籍のない」残留日本人は、戦禍で資料が焼けるなど、日本人の父親との親子関係を証明できないまま、80代、90代になっている。
直面するのは日本の司法の高い壁だ。
支援を続ける弁護士は、戦争によって置き去りにされたケースとして、中国残留孤児の問題をあげ、国に対し同様の救済を求めてきた。国の姿勢をこう批判する。
進展がない中、今年5月、石破総理が国会で支援に前向きな姿勢を示した。
そしてついに、戦後80年の8月、日本政府による残留2世の訪日事業が実現した。
戦後80年 新たな残留2世が名乗りをあげた
この夏、「新たな残留2世が名乗り出た」という連絡が入った。
取材を始めてから3年がたっていた。
私たちが報じた内容がフィリピン国内のテレビ局でも放送され、それを見て、現地の日系人会に連絡したという。
名乗り出たのはニシ・マリナさん(80)。彼女が見せてくれたのは、フィリピン人の母親が大切にしていたという日本人の父の写真だった。
戦争が激しくなる中、行方が分からなくなったという父。マリナさんはお腹の中にいて父の記憶はない。
しかし、写真の裏には父の名前と思われる「ニシ・ヤイトシ」と、出身地の可能性がある「NAGASAKI(長崎)」と書かれていた。
戦後80年にして初めて名乗り出たニシ・マリナさん。日本国籍の回復へ新たな調査がスタートした。