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ABEMA NEWS

2025年10月20日 18:16

「自衛隊違憲→合憲」「日米安保廃棄→認める」宿敵と連立した末路…自社さ連立・村山富市元総理の教訓

「自衛隊違憲→合憲」「日米安保廃棄→認める」宿敵と連立した末路…自社さ連立・村山富市元総理の教訓
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 第81代内閣総理大臣の村山富市氏が、101歳で亡くなった。1994年6月に行われた総理指名選挙では、小沢一郎氏率いる連立与党側が擁立した海部俊樹元総理と、当時野党だった自民党が担いだ村山氏の一騎打ちに。結果は、村山氏が海部氏を破り、自民党・日本社会党・新党さきがけによる「自社さ」連立政権が発足した。

【映像】村山元総理が退陣会見で浮かべた表情(実際の様子)

 自民党は、長らく政権与党として権力を牛耳っていたが、1993年の細川連立政権発足で下野していた。社会党は、その後の羽田政権で連立を離脱し、自民党に担がれる形で、自社さ連立政権が成立した。

 左右異なるイデオロギーの政党による連立政権は、歴史の転換点の象徴だった。1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年に東西ドイツが統合。1991年にソビエト連邦が解体した。その3年後に、日本において社会党で史上2人目となる総理大臣が誕生した。

 しかし、最大の労働組合組織で野党を支えた「連合」初代会長の山岸章氏は、「自民党政権の復活につながる危険性が大だ」との懸念を口にした。1994年6月時点の衆院議席数は、社会党74に自民党206で、主要閣僚には自民党の実力者が並んでいた。自民党の宿敵だったはずの社会党が野党に下っていた自民党の復権と延命に手を貸してしまうのではないか。山岸氏の懸念は数年後に的中することになった。

 総理になった村山氏の最初の仕事は“自衛隊合憲”と“日米安全保障条約を認める”ことだった。それまで社会党は「日米安保条約は廃棄」が党是で、自衛隊は違憲、日の丸・君が代にも反対を訴えていた。

 その矛盾を突かれることを、村山総理は覚悟していた。国会では「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものと認識している。国際的に冷戦構造が崩壊し、国内的にも大きな政治本革が起きている今日こそ、未来志向の発想が最も求められている」と答弁した。

 消費税も「廃止」を公約の柱にしていたが、3%から5%への増税方針に同意した。「公約違反だ」と厳しい追及を受けたが、村山総理は「結論として、政権を担う立場から、私としては責任ある決断をする必要があると判断した」といった趣旨の回答をした。

 当時を知る旧社会党の党職員は、「総理大臣になんてなってしまったばっかりに、当時の社会党の存在理由ともいえる基本政策を180度変えた。社会党の歴史的な役割が終わったとまで言われ、戦後の総理大臣のなかでもっとも苦しんだのではないか。それでも村山氏は『全部自分1人で決めた』と1人ですべての泥をかぶって、泣き言を聞いた記憶はない」と振り返る。

 1995年1月17日には阪神・淡路大震災が発生した。当時の自衛隊派遣の手続きは、いまより複雑で、都道府県知事からの出動要請が必要だったため、初動が遅れ政権批判を増幅させた。その対応に追われる中、3月には地下鉄サリン事件も起きた。

 村山氏が自然災害やテロに翻弄される中、自民党は復権に向けて動いていた。「いずれは社会党総理の時代は終わり、自民党が政権に復帰する」との声がささやかれ、オウム事件の対応にあたっていた国家公安委員長の野中広務氏や、自民党総裁の橋本龍太郎氏が密会を重ねていたとされる。

 村山総理は1995年、戦後50年に合わせて「村山談話」を発出した。自民議員たちと激論を交わしつつも、過去の植民地支配と侵略を認め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する内容だった。長きにわたる自民党支配の日本で歴史的な談話となった。

 しかし1995年9月の米兵少女暴行事件が、村山氏の気力と体力を根こそぎ奪うことになる。社会党にとって、平和運動の“聖地”である沖縄で起きた事件だった。地元の怒りはすさまじく、後の普天間飛行場の返還運動につながった。

 沖縄の基地問題をめぐっては、民間の土地が多く含まれており、その使用について政府と沖縄の対立が続いていた。社会党は沖縄復帰後から「基地反対」の立場を取り、政府による“なし崩し”的な土地使用を、沖縄への差別であり憲法違反だと批判してきた。

 沖縄県の大田昌秀知事(当時)は9月、民有地を米軍用地として地主の同意なしに強制使用する手続きの代理署名を拒否すると表明。すると、村山総理は沖縄県を提訴した。総理ではなく、社会党の委員長の立場であっなら、間違ってでもそんな対応をするはずがなかった。10月に入り、村山総理は「沖縄のことで疲れとる。日米安保条約の重要性は分かっている。しかし、沖縄県民の声もあり、社会党との板挟みで困っている。この問題はわしの手で決着させたい」と、周囲にこぼしたそうだ。一方で沖縄の怒りはすさまじく、10月の県民総決起大会では、米軍普天間飛行場のある宜野湾市に8万5000人が集まった。

 村山総理は12月になり、予算編成を終えると、財務大臣の武村正義氏に「俺はもう辞める。限界じゃ」と伝えたという。そして「与えられた歴史的な役割と任務を自分なりに自覚し、その自覚に立った仕事は自分なりに力の限りを尽くしてやってきた」と振り返りつつ退陣した。

 その後、1996年1月に橋本内閣が発足する。自民党は、ライバル政党の党首を担いで連立与党入りし、再び総理大臣のイスを取り戻した。自民党と連立を組んだ政党は、創価学会という強固な支持母体がある公明党を除き、すべて吸収されるか、滅ぼされるか、歴史はそのどちらかの結末を教える。

 かつて社会党は、土井たか子委員長によるマドンナブームを受け、1989年の参院選で45議席を獲得し、自民党を結党以来初となる参院過半数割れに追い込んだこともあった。

 そこから数年での変化に、旧社会党職員は「少数与党となった自民党と連立を組むことは、党の消滅を覚悟することだ。それでもいい、これだけは成し遂げたいというものがなければ入るべきではない」と語る。社会党は「社会民主党」と名前を変え、現在の国会議員はわずか3人だ。

 政権をとること、権力に飲み込まれる恐ろしさを村山氏ほど体験した政治家はいないだろう。数合わせで総理に担がれ、翻弄され、自らの信念まで剥ぎ取られた村山氏だが、ただひとつ誇りにしていたことがあるという。「総理大臣中、苦しみ続けた村山氏は、戦争責任を認めた村山談話には、ずっと誇りを持っていた」(旧社会党職員)。その誇りを胸に天国に旅立った──。

(『ABEMA的ニュースショー』より)

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