“震災の記憶”渡辺宜嗣が見た復興の今と未来[2021/03/10 18:37]

 東日本大震災から11日で10年です。宮城県南三陸町から報告です。

 (渡辺宜嗣さん報告)
 山に日が沈み、夕景が広がっている南三陸町です。後方に広がる海が志津川湾です。本当に静かで穏やかな海です。

 しかし、あの海は10年前のあの日、大きく姿を変えて町に襲ってきました。町の人の表現を借りると、「どす黒い海が壁のように迫ってきた」といいます。

 15メートルを超える大津波でした。その津波がこの町の多くの人の命と財産を奪っていきました。

 高野会館というかつての結婚式場。この建物は奇跡的に一人の犠牲者も出さなかった建物です。327人が屋上に身を寄せて一晩を過ごしました。

 そして、かつて志津川病院という公立の病院があった場所。私は不思議な光景を覚えています。病院のバルコニーに漁船が打ち上がっていました。その漁船は津波によって運ばれてきて、引き波が建物にぶつかってバルコニーに打ち揚げられていました。

 震災復興祈念公園となり、祈りの場所となっている場所。その象徴が赤い骨組みの見える防災対策庁舎。2階にあった放送室からは町役場の女性職員が避難を呼び掛ける放送をしていました。しかし、津波はあの建物をのみ込んでいって43人が犠牲になりました。

 堤防と橋を挟んだ側が町の復興の象徴でもある「南三陸さんさん商店街」。コロナの影響もあり、客足は落ちているというものの土曜日や日曜日になると近隣から大勢の人が車で商店街を訪れます。町の元気の象徴として頑張ってきた商店街です。そして左手には将来、道の駅ができるようです。

 川の向こう側が商業地区、川の手前側が慰霊の地。広大な土地そのものがかつての南三陸町の志津川地区の中心地です。多くの家や商店街が並んでいた場所。全くその姿を変えました。

 現在、人が住むことができないので町の人たちは奥の志津川小学校というかつての避難所にもなった小学校の辺りに多くの災害復興住宅ができて現在、家を失った人たちが高台に住んでいます。

 堤防と高台の住居、これが現在の津波対策です。

 私はこの南三陸町にかつて何度も取材に来ました。大勢の顔見知りもできました。皆さん、元気に暮らしていました。いち早く避難した人もいたり、現実に津波に巻き込まれて九死に一生を得た人もいました。

 そういった人たちは、この10年間の記憶を胸に現在、家族と一緒に懸命になって生活の再建に取り組んでいます。

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