空から見た「被災地の10年」岩手→宮城→福島へ[2021/03/11 21:31]
渡辺宜嗣:「震災から8日後の3月19日に、私は空から被災各地を取材しました。その時、報道のヘリにはできるだけ高い高度を飛ぶように、という指示もありました。その理由というのは、行方不明者の捜索をしている自衛隊のヘリや救援物資を運んでいるヘリが、低い高度を飛んでいたからです。今回、岩手県宮古市から宮城県の上空、そして福島県、福島第一原発の周辺まで、太平洋沿岸を南下して取材しました」
2011年、地震発生から8日。ヘリに乗り込んだ渡辺の眼下には壮絶な光景が広がっていました。
「本当に自分の目を疑う光景があちこちで広がっています」「この街にも普段住んでいた住人の人々の姿はありません」
街から人々が消えた、あの時から10年…。再び人々が戻った街は、どのような変化を遂げているのでしょうか。
「岩手県宮古市田老地区の上空です。今は、これまでの防潮堤よりも高さ14.7メートル、1.2キロにわたる新しい防潮堤が造られています」
海と街を隔てる長い長いコンクリートの壁。その壁のすぐ下には、かつて住民たちが軒を連ねていました。
漁業が中心で海と共に暮らしてきた田老地区。昭和時代、45年かけて、高さ10メートルの巨大防潮堤で囲っていました。しかし、あの日、街は飲み込まれました。
震災後、三王団地が造成され、町がまるごと集団移転しました。
しかし、防潮堤が高くなるたびに、住民の暮らしは海から遠くなりました。
時が経ち、被災地は“元の姿を取り戻した”。本当にそうでしょうか。
そこには、元に戻ったのではない、新しい暮らしがありました。
「奇跡の一本松が街の象徴になった陸前高田市です。海沿いは復興記念公園となりました。」
全く“別の顔”になった街もあります。
「この道路の左右、そして前後には間違いなく建物が建っていたはずです。そして多くの人達の日々の営みがあったはずです」
住民が毎年楽しみにしていたのが「けんか七夕」。人々が900年続けてきました。しかし…。
津波は広大な市街地を飲み込み、4基あった山車のうち3基が津波で流されました。
震災後、高台への移転のために行われたのが、かさ上げ工事でした。約3キロも続く巨大ベルトコンベアで土砂を運ぶという被災地でも群を抜く大規模なものでした。
「ただ上空から見てますと、土地の造成は進んではいるんですが、建物の数が少ないです。住民の方々は戻ってきているんでしょうか?」
私たちは陸前高田市を毎年訪れ、同じ位置から街の変化を見続けてきました。
手付かずのままだった街が…。1年が経ち、瓦礫は片づけられ更地に。
3年で工事が始まりました。出来上がったのは、海抜10メートルの街でした。
被災した各地で街が生まれ変わっています。
「気仙沼湾横断橋です。全長1344メートル。三陸道ともつながり、交通網、物流の効率化、この橋の存在は気仙沼の復興のシンボルといえます」
「仮設商店街からスタートした『南三陸さんさん商店街』は、震災から立ち上がろうという復興への意気込みを全国に印象付けました」
「骨組みだけを残した防災対策庁舎。きょうも献花に訪れている方の姿が見えます。」
もう、10年なのか。まだ、10年なのか。
今のこの姿は、被災者が思い描いた暮らしだったでしょうか。
そして、私たちは誰も想像していなかった劇的な変化を遂げた街を目の当たりにしました。
人が減った土地、福島第一原発周辺で目につくものがあります。
「富岡町の丘陵地帯に不思議な光景が広がっています。原発事故で立ち入り禁止区域となったために、営業ができなくなり、その後閉鎖を余儀なくされた。そのゴルフコースに、太陽光パネルが敷き詰められています」
福島県内では、すでに稼働している太陽光発電が284件に上り、約232万世帯分の年間使用量に相当する電力が太陽光発電など再生可能エネルギーによって生み出されています。
「福島県内では震災前63のゴルフ場があったが、去年3月現在38まで減り、太陽光パネル事業に転用されたゴルフ場が県内にいくつもあるということです」
かつて原子力発電の電気を首都圏に送り続けた福島県から今、再生可能エネルギーの太陽光発電で電気が送られているのです。
その一方で、気になるものが、もう一つありました。
「放射性物質によって汚染された土や汚染ゴミが入れられている、カバーがされた土嚢袋がうず高く積まれている仮置き場が見えています」
10年経った今も“震災被害”を身近に感じさせられる現実です。
「この光景を見ていると、地球環境に配慮する太陽光パネルと、そして放射性物質に汚染された土嚢。非常にアンバランスに見えるこの光景が、福島の現状を表しているような気がします」