落書き少年「事件を知らなかった」一家殺害から21年[2021/05/29 20:38]

「世田谷一家殺害事件そのものを知らなかった」
5月10日、書類送検された17歳の少年が警視庁の任意の聴取にこう話した。

少年は東京・世田谷区にあるフェンスなどに落書きをした器物損壊の疑いがもたれている。
少年が落書きをしたとされるこのフェンスは、警視庁が「三大未解決事件」の一つと位置付けている「世田谷一家殺害事件」の現場となった住宅を囲うフェンスだった。

「事件現場とは知らず、こんな大ごとになると思わなかった。反省している」と少年は話したという。

これをきっかけに取材を進めると、事件発生から21年経ち、世田谷区のこの地域では、少年のように、ここで一家4人の命が奪われるという凶悪な事件が起きていたことを知らない若い世代が増えていることが分かった。

◆21年の歳月が街を変え、人を変えた

事件発覚は2000年の大晦日。
世田谷区上祖師谷の住宅で、会社員の宮沢みきおさん(当時44)と妻の泰子さん(当時41)、長女のにいなちゃん(当時8)、長男の礼くん(当時6)の一家4人が殺害されているのが見つかった。
現場には、犯人のものとみられる指紋や血痕など多くの痕跡が残されていたが、未だ犯人逮捕には至っていない。

現場となった住宅は、東京都が管理する公園の中にポツンと建っている。
フェンスに囲まれ人を寄せ付けない雰囲気の一方で、公園では子どもたちが元気に遊ぶ姿を見ることができた。
公園一帯が、地域住民にとって、コミュニケーションのための大切な場所となっているようだ。

事件前から自治会長を務めている水野貞さん(76)は事件当時からの変遷についてこのように話す。
「事件直後は毎日のように刑事が聞き込みに来たし、マスコミもわんさかいた」
「事件があった後数カ月は、周りの公園で遊ぶ人もほとんどいなかった。でも今では、休日の昼など子連れのお母さんがかなり多い。賑わっていてほとんど宴会状態のような日もある」

事件から数年経った頃、水野さんは情報提供を呼び掛ける遺族らのビラ配りを手伝うようになったという。
近くの駅などで月に1回ビラを配っていた時期もあったが、時間が経ち今はそういった機会も減ったと話した。

現場の住宅がある世田谷区の上祖師谷地区(上祖師谷に粕谷を加えた地域)は、環状8号線からのアクセスもよく、住宅地として人気のエリアだ。
区の統計によると、地区の人口は、事件があった2000年12月には11748世帯25401人だったが、今年の5月には15889世帯32649人にまで増えている。
大規模なマンション開発もあり、人口は年々増加している。

少子化が進む世の中の流れとは対照的に、子どもたちの数も増えている。
周辺の4つの区立小学校の児童は、2000年には合わせて2286人だったが、2020年には、1.5倍の3417人にまで増えた。
そして、子どもたちと若い子育て世代が増える中で、事件のことを知らない人たちも、徐々に増えているのだ。

事件当時、世田谷区内のある小学校では、2001年の年明けから集団下校が行われ、学校では不審者への注意が連日呼びかけられるなど様々な対応がとられた。
だが、世田谷区によると、小学校などで現在、授業を含め特別に事件のことを扱う機会は設けていないという。

現場住宅のすぐ近くには、新しい保育園もできていた。
子どもを預ける30代の女性はこう話す。
「本当に痛ましい事件だと思う。でも、事件のことは普段あまり意識したことがない。2年ほど前に近くに引っ越してきたが、引っ越しのときに事件のことは考えなかった」
保育園の保護者同士で、事件について話題にするようなことも特にないという。

また、別の女性はこんな話を聞かせてくれた。
「私の息子が宮沢さんの娘・にいなちゃんと同じ学校の同級生で別のクラスだった。事件当時は保護者の方が会を開き、子どもたちの心のケアをするような機会を作るなどしていた。
 今はたまたま孫が同じ小学校に通っているが、学校で事件のことを触れるような機会があるとは聞いたことがない」

◆悲しみ癒えぬ遺族「仕方ないこと…」今も電話に反応
    
今年で90歳になる宮沢みきおさんの母、節子さんは、胸のうちをこう明かす。

「去年、久しぶりに現場近くまで行きました。
 囲われていたから中の様子はわからないけど、後ろの公園で子どもたちが元気に遊んでいるのを見て、今の子どもたちは事件のことすら知らないのかなと思いました。でも、年数が経っていくと知らない子どもたちが多くなるというのは仕方のないこと」

「私にとって、一年中悲しいという思いがなくなることはないです。おばあちゃんが悲しんでいるとあの子たちが心配になるんじゃないかと思って普段明るい顔をしようと努めるけど、やっぱり悲しい顔になっていたりするんです」

成城警察署に設置されている特別捜査本部は今も広く情報提供を求めているが、節子さんは、「事件を知らない人が多くなるということは情報が入りにくくなるということ」と危惧している。
一人で暮らす埼玉県の自宅では、今も電話が鳴るたび、犯人逮捕を知らせる電話なのではないかと受話器を取るのだという。

21年という長い時間の中で、街と人は、ゆっくりと変わっていた。
確かに事件現場近くの公園で子どもたちが遊ぶ平和な光景は、ここで凶悪な事件が起きたことを忘れさせてしまいそうになる。
ただ、節子さんの悲しみが癒えることはなく、捜査員はきょうも犯人を追っている。

テレビ朝日社会部 尾崎圭朗

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