昭和のノーベル賞 日本人初の化学賞 福井謙一氏[2021/10/06 17:00]

ストックホルムは雪化粧。道も凍っています。
午後3時半で、すでに夜の暗さで、気温はマイナス7度。

日本人として初めてのノーベル化学賞をこの年に受賞した福井謙一さんです。

正装して、妻の友栄さんと2人で慌ただしく各会場とホテルの間を行ったり来たり。
足場の悪い雪道で和服の友栄さんをエスコートして、忙しいスケジュールをこなします。


福井さんは1952年、原子の核を取り巻く電子の動き方を調べるとほとんどの化学反応の仕組みが分かるという独創的な理論、「フロンティア軌道理論」を打ち立てました。

しかし、当初は否定されることが多く、1965年にロアルド・ホフマン教授らが「フロンティア軌道理論」に基づく論文を発表してから評価され、ホフマン氏とノーベル賞の共同受賞に至りました。

真冬の北欧で福井さんに話が聞けたのは、授賞式の後でしたが、暑いのでしょうか…

福井さん)ちょっと汗ふいて…

 本当に新鮮な感激の一語に尽きるわけですが、特に隣にホフマン教授がおられて、
     ホフマン教授と長い間の親友ですから、2人でこの賞をいただいたのは何よりの嬉しいことですね。
     今もお互いにお祝いを言い合ったところです。

友栄さん)とても感激いたしまして、胸がいっぱいになりました。
     本当にここまでよく来たと思います。

記者)  涙はこぼされませんでしたか?

友栄さん)そうおっしゃられると、やはり出てきますね。ありがとうございます。


中田記者)ノーベル賞授賞式を終えて、晩餐会に移りました。
     ここはシティ・ホール、市庁舎のブルーホール、青の間です。

     1700人が見守る中でメダルと証書を国王から手渡されますと、客席にいた友栄夫人が、右手を軽くそっと眼鏡に当てる光景が見られたのが印象的でした。
     そして、オーケストラは清瀬保二作曲の“祭りの踊り”(日本祭礼舞曲)を演奏しました。
     ノーベル賞で日本の音楽が演奏されたのはこれが初めてです。

     スピーチに立った福井教授は英語で『科学が人類に幸福をもたらすために貢献したい』と述べ、最後に日本語で
     『科学研究の応用において、何が善で何が悪であるかを見分けるのは、科学の先端的な領域で働く最も優れた科学者です』と結び拍手を浴びました。
     福井教授が受賞したこともあり、今年の80回目のノーベル賞授賞式は、日本ムードがいっぱい、そういう雰囲気がただよっていました。


授賞式を終え、成田空港に戻った2人は拍手で迎えられました。
夫婦で手分けをしてメダルと賞状を披露してくれました。


福井さん ストックホルムにつきまして、15日経って帰ってまいりましたがその間、非常にスケジュールたくさん。多彩な行事がありました」

記者   賞金はどんなふうに使うか」

福井さん まだ、今は使っておりませんけどね」(笑)
     私の仕事の性質上、今後も家内を連れて方々へ行く機会がたびたびあります。
      そういうふうな時に、少し使わせていただこうかと、そう思っております
友栄さん パーティーで、あなたはキングの隣に座っていただくからそのつもりで、と言われ、
     その時はさすがに私もびっくりいたしまして。
     イエス・ユア・マジェスティ―(はい、国王陛下)というのを何遍も練習したんですが、
     実際にはそういう場で、慣れないとなかな出ない。それが、つらかった」

記者   受賞後のスピーチを一部日本語でなさいましたね。
     あの意味合いについて憶測めいたことが伝わっているが真意は

福井さん これは色々な方が、色々お考えいただくような意味で、ああいうふうに申し上げた。
     お一人お一人、お考えいただくという、そういう主旨で。
     禅の公案のようなものです(笑)

著書で「私は死ぬまでサイエンスの探検家でありたい」と記した言葉通り、
福井さんは研究にこだわり続け、1998年79歳で亡くなりました。

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