昭和のノーベル賞 川端康成氏 決定後に三島に電話[2021/10/07 18:00]

1968年10月17日の夜、
神奈川県鎌倉市の川端康成邸に大勢の記者が集まっています。
スウェーデン王立アカデミーが、この年のノーベル文学賞に川端さんを選出したのです。

初代文化庁長官の今日出海(こん・ひでみ)氏らとともに乾杯。
日本人の文学賞受賞は初めてのことでした。

山積みにされた大量の本。
「雪国」「千羽鶴」「伊豆の踊子」など、数々の名作を生んだ文豪ならではといったところでしょうか。
受賞決定直後の肉声です。

川端さん)(受賞理由の)一つは日本文学の伝統でしょうね。
     その他には、さっき三島(由紀夫)君に電話したら『そうじゃない』って言うんだけども。

     第2は翻訳者。多分、日本語では審査していないだろうと思いますからね。
     これは残念と言えば残念ですけれども。
     翻訳者のお陰を非常にこうむっているわけですね。
     翻訳者が半分くらいもうらうべきものかもしれない。

     運が良かったんでしょうね。三島くんは年が若くて、まだ早いとかね。
     なんか僕は、変に運のいいところがあるのでしょう。
     ほかにも資格のある人は日本にも何人かいると思いますけどね。

記者)  ノーベル賞をもらって今後の抱負は

川端さん)それは別に、賞をもらったらどういう抱負ができたってことはないです。
     むしろそういう意味では、窮屈になるくらいのものではないでしょうか。
     どうせ作家みたいなものは、無頼漢か浮浪児でいいんですからね。
     そういう栄誉が加わるたびに、むしろ退化するかもしれない。

11月8日、受賞決定から授賞式までの間に行われる秋の園遊会に川端さんも招待されました。
石原慎太郎さんや司馬遼太郎さんの顔も見えます。

宮内庁楽部による雅楽が演奏されます。
ノーベル賞が決まった川端さんのところで天皇陛下が足を止め、談笑しています。
良子さまに続いて、皇太子殿下と美智子さまとも話をします。


スウェーデンでの授賞式の後、パリ、ロンドン、ローマなどで旅をしていた川端さんが羽田空港に戻ってきたのは、年が明けた1月6日でした。

正装することが求められるノーベル賞の授賞式に、日本の羽織袴で臨んだことが話題になっていました。

特別貴賓室で記者会見に臨んだ川端さんは、賞金の使い道について問われると、ひとこと「考えていません」と答えました。


27日午後、川端さんの姿は国会の貴賓席にありました。
衆議院本会議場で、石井光次郎(みつじろう)衆議院議長が、川端さんに対する祝辞の決議文を読み上げます。

佐藤栄作総理大臣からは感謝状が手渡されました。
記念のアルバムも送られ、少し顔に笑みが浮かびます。


神奈川県警のパトカーがマンションの前に止まっています。

1972年4月16日、仕事場に使っていた逗子市のマンションで、川端康成さんは自らの命を絶ちました。

テーブルの上にはウイスキーの瓶、こたつと机の上には原稿用紙が置かれていました。
ノーベル賞受賞者の突然の死は、日本だけでなく海外にも衝撃を与えました。

翌日、鎌倉市の自宅に大勢の人が集まっています。
政治家の石田博英(ひろひで)さん、評論家の村松剛(つよし)が弔問に訪れます。
報道陣も詰め掛けています。

4年前に記者が、ノーベル賞受賞の喜びを聞いた家に祭壇が設けられました。
この後、ノーベル賞を受賞することになる佐藤栄作総理です。

前の月に手術を受けた後、健康状態がすぐれないと言われていましたが、遺書はなかったということです。

作家の瀬戸内晴美さん、芸術家の岡本太郎さんは夜、弔問にきました。

「日本人の心の精髄を描いた作家」と言われた大作家は、72歳で自らの人生に幕を下ろしました。


※当時の記録を残すため、発言などに修正を加えず記載しています

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