「やらなければ」103歳元搭乗員が語る“真珠湾”[2021/12/06 23:30]

太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃から、12月8日で80年を迎えます。

吉岡政光さん(103)は、80年前のあの日、空母『蒼龍』から、九七式艦上攻撃機で出撃しました。
吉岡政光さん:「(Q.標的にしていたのは、どういう戦艦)真珠湾にフォード島という島があって、戦艦と空母が停泊する反対(西側)は戦艦だと聞いていた。私たちは予定通り左側(西側)をやることになっていた」
吉岡さんは、パイロットの後ろで魚雷を操作する偵察員でした。湾内に停泊する船から目標とする戦艦を探し、魚雷を放ちました。

海軍の公式記録を元にした文書には『二飛曹、吉岡政光』。吉岡さんらの名前の下には『コロラド型戦艦に全魚雷概ね命中 轟沈(ごうちん)」と書かれています。ところが、吉岡さんが実際に魚雷を命中させたのは別の船でした。
吉岡政光さん:「先に行った人が爆撃をやっているから、煙がいっぱい上がっているし、煙が邪魔をして見えない。かろうじて戦艦らしいものを、よく見ると『あれはコロラド(型)だ。あれをやろう』と」

吉岡さんがコロラド型戦艦だと思ったのは、実は、戦闘能力はなく、演習の際に標的の役割をする『ユタ』。元々、攻撃の対象ではありませんでした。
吉岡政光さん:「砲塔に砲身がついてない。『これはユタだ』 と気づいたが、もう仕方ないなって。(Q.倒したのがユタだったことは、複雑な気持ちだったのでは)今でもそう思っている。もう少し時間があれば。ほんの0.何秒の問題ですからね」

ユタへの爆撃をいまも悔やむ吉岡さん。任務のことだけが頭にあったといいます。
吉岡政光さん:「下からの攻撃や飛行機で撃たれて死ぬとか、全然、忘れていた。魚雷を落とすことしか思っていなかった。俺だって同じ立場(軍人)だから、やらなければこうなる。戦死するなんて思っては戦争できない」

吉岡さんたちが約2週間かけて真珠湾に向かっていた最中の1941年12月2日。ある暗号が発信されました。指示したのは、連合艦隊司令長官の山本五十六。その暗号の訳文が、愛知県豊川市にある資料館に保管されていました。そこには『新高山登レ 一二0八』と書かれています。
吉岡政光さん:「『ニイタカヤマノボレ』は、予定通り、ハワイ攻撃しなさいと。12月8日にやりなさいということ。もうこれは帰って来れないという気持ちになった」

決死の覚悟で臨んだ真珠湾攻撃のあと、吉岡さんは南太平洋などを転戦。日本海軍は、翌年のミッドウェイ海戦で大敗し、吉岡さんが真珠湾攻撃のときに乗っていた空母『蒼龍』も撃沈されました。
吉岡政光さん:「ミッドウェーには行かなかった。ミッドウェー以降は、日本が勝てるかな。飛行機も故障が多い。なかなか(数も)そろわない。だんだん古い飛行機を使いながら、乗る人はろくに訓練していな人が乗る。誰も口に出していないが、勝てるとは思わなかった」

そして、迎えた終戦。戦後、吉岡さんは、海上自衛隊や民間企業に勤務しました。100歳を迎えるまで、自身の経験を語ることは、ほとんどなかったといいます。
吉岡政光さん:「私は、あまりしゃべりたくなかった。最近になって、戦争のことを話す人が非常に少なくなったことに気づいて。戦死した人の慰霊にもなるだろうし。(Q.戦後、ハワイに行ったことはあるか)一回もない。何回か機会があったが断った。戦死した人に会うのが『お前はまだ生きているのか』という感じで。行っちゃいけないなと」

真珠湾攻撃から80年を前に、戦争を生き抜いた自分をこう振り返ります。
吉岡政光さん:「終戦まで実戦に参加して、いっぺんも“人を殺す”と思わなかった。命令が軍艦を攻撃するか軍事施設かで、『人をやれ』という命令を受けたことがない。責任逃れではないが、人がいると考えたら爆撃はできない。ハワイに行きたくないのも、みんなあそこにいたはずだと」

こちらも読まれています