1990年 毛利飛行士 日本初のスペースシャトル搭乗者に[2021/12/23 20:00]

宇宙飛行士候補の7人の中から、1カ月以上に及ぶテストや検査を経て、この3人、毛利衛さん、向井千秋(旧姓内藤)さん、土井隆雄さんが選ばれたのは、1985年でした。

この会見のさらに5年前です。

実験装置の操作や体力面での訓練などを経て、この日、1990年4月24日、日本人初のスペースシャトルの搭乗者が、毛利さんに決定しました。

その際の3人の記者会見です。

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宇宙開発事業団 山野正登理事長)
本日、3名のなかから、毛利衛をプライムPS(ペイロードスペシャリスト=搭乗科学技術者)と決定いたしました。
なお、3名のPSは昭和60年(1985年)8月に533名の応募者の中から選抜された優秀な科学技術者で、いずれのPSについても搭乗する能力は十分ありますので、今後、宇宙開発事業団としても飛行機会の拡大を積極的に図っていきます。
  
司会)引き続きまして3名のPSからご挨拶申し上げます。
最初に毛利衛 宇宙実験搭乗部員お願いします。

毛利衛)
この度、栄えある重要な任務を仰せつかり光栄で身が引き締まる思いです。
本当に多くの方々の支援とご協力でこの日米合同プロジェクトが進んでいることを実感しています。
今後はさらに精進して、このプロジェクトが十分成果が上がるように関係者の方々と心を一つにして訓練に励んでいきたい。

司会)続いて向井千秋 宇宙実験搭乗部員お願いします。

向井千秋)
本日、搭乗部員が正式に決まって、このプロジェクトが実現化に向けてまた新たなる第一歩を踏み出したと思っています。
毛利さんは研究者としても、また人間としても大変素晴らしい方です。
私は以後バックアップとして全面的に毛利さんを支援して皆さんに喜んでもらえるよう、このプロジェクトを支援していきたい。

司会)最後に、土井隆雄 宇宙実験搭乗部員お願いします。

土井隆雄)
日本での訓練は4年半になるが、訓練を通じて達成したことを本当に誇りに思っていて、よくやってきたと思います。
素晴らしい経験をしてきました。
今後1年間、アメリカで引き続き訓練をするがその厳しさは一段と強くなり本当に一生懸命やらなければならない。
これから毛利さんをしっかりサポートしながらこのミッション成功のために頑張りたい。

Qけさ、毛利さんに決まった通知を受けたときのご感想、ご自身が選ばれたことに自信は

毛利)
けさ、通知を受け取って感じたのは、やはり長かったなということです。
5年前に宇宙飛行士候補に選ばれて今日が来るのを本当に待ち望んでいました。

ちょうど修行を積んだあと、次の舞台の主役に抜擢されたような、初舞台に向けてはやる気持ちを抑えられないというのが正直な気持ちですが、なお一層、稽古を積んで頑張ろうという気持ちです。
2つめの質問で、なぜ選ばれたかについては、今回の宇宙実験を考えると、第一次材料実験ということで、34の実験テーマのうち22までが材料実験で、そういう意味では私のバックグラウンドが一番適しているということで任命されたのではないかと思います。

Q向井さんと土井さん、けさ一番最初に搭乗できないと聞いた時の気持ちは

向井)
この計画が本当にまた一歩実現に向けて進んだ。
役割分担が決まると、その中で自分なりに一生懸命できる場所が見つかってくると思います。
本来ならば、88年にこのプロジェクトは終了しているはずだったが、残念ながらチャレンジャーの事故があったため遅れてしまった。
いよいよ皆さんに喜んでいただけるプロジェクトになると思います。
搭乗者としては席が一つしかないので仕方ないことだと思います。
プロジェクトを担う一員としてはバックアップとして精いっぱいやりたい。
次の搭乗機会をめざして切磋琢磨して頑張っていきたい。

土井)
毛利さんのお人柄を考えると本当に誠実で、尊敬していますから、毛利さんが選ばれたときは、本当におめでとうという気持ちです。
私自身はもちろんこの訓練を通じて自分の能力や達成してきたことに対して非常に満足しており、この経験を次のミッション、またこれからの日本の宇宙開発に役立てたいと感じました。

Q今日の喜びをご家族である奥様と3人のお子様にはどのように伝えたいか

毛利)
非常に重要な任務なので、家族ともども心を一つにしてやっていかなければいけないということを改めて強調すると共に、我々の夢が一つでも近くなるんだということで、一方では「いつも夢を追いかけながら生きていこう」と言いたい。
しかしやはり忘れてならないのは、本当にいろんな方々の支援があり、いつも感謝の気持ちを忘れてはならないということも付け加えたい。

Q宇宙を目指す若者へのメッセージ、アドバイスを

毛利)
まず夢を持つこと。自分がこうなりたいという夢を持ち、それをいつまでも追い求めるかどうか。
夢を失わないで、そのために勉強やスポーツをすることを心がけて頂けたら。

Q3人にとってこの5年間どのような意味があったか

毛利)
1988年1月が予定だったので予定外の修行をさせてもらった。
長かった私たちの搭乗科学者としての資質が、いろんな国の科学者がいるが、肩を並べるくらい成長したのではないか。
延期された期間、アラバマ大学の微小重力研究センターとそこにあるNASAのマーシャルスぺースセンターの両方で研修を積むことができた。
そういう意味では非常に有意義な、ミッションにさらに貢献できるのではと確信する、非常に貴重な5年間でした。

向井)
素晴らしい刺激的な5年間でした。これから先さらにたいへん素晴らしい年になると思う。
目的を同じにする素晴らしい友人ができた。
また私は医学がバックグラウンドですが、宇宙開発というのはいろいろな知識を寄せ集めなければいけないが、私はずいぶん材料関係を勉強させてもらい、医学といってもいろんな分野の人がいて、特に微小重力という環境を使って研究しているということがわかった。
地球に住んでいると、重力のある世界しかしらないが、この宇宙開発、とくにいわゆる無重力の利用分野に入ると非常に面白い研究の場があると再認識した。たいへん素晴らしかった。

土井)
今思うと短い5年間だった。いろんなことがあり、チャレンジャー事故で悲しい時を過ごし、短期間だが飛行機にのって無重力を経験できた。非常に人生の中でもいろいろな経験ができた5年間はなかった。素晴らしい時を過ごした。

Q宇宙から帰ってきたら何をしたいか

毛利)
現在の心境は、打ち上げは1年後なのでまだミッションを達成することで頭がいっぱいです。
もし宇宙に行って帰ってきたら、日本にとって有人宇宙開発は非常に重要になる。この経験を最大限活かしたいと思う。
それが一番の大きな夢です。宇宙に行くばかりではなく講演会に行ったとき、中学生高校生の目がキラキラしていて、彼らの夢を叶えることも私の一つの夢です。

Q向井さん、土井さん、来年の打ち上げ以降98年まで未確定だがPSとして今後は

向井)
搭乗者として健康が許す限りぜひやってみたい。バックグラウンドが医学なのでロケットだけよくても宇宙にはいけない。医学・生物学といったサポートが必要。
搭乗者として、医学の研究、医師としてこの分野のなかでやっていきたい。

土井)
日本の宇宙開発の発展スピードは、どれほど日本人が宇宙に行くかにかかっている。
そのため自分の力の限りを尽くして搭乗機会を得るため頑張りたい。

Qチャレンジャーの事故やお母さまをなくされたりと不安な気持ちになったことは

毛利)
チャレンジャー事故は私の人生にとって神に与えられた試練ではないかという気がします。
実験科学者としていつも手を動かして実験していた。チャレンジャー事故のあと、いつミッションが来るかわからない、今まで持っているテクニック、そういう物をどうしたら保つことができるか悩んだことはあります。
しかし必ずやまたミッションが再開すると信じてきました。

司会)どうもありがとうございました。

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実際に、毛利飛行士がスペースシャトル・エンデバーで宇宙に向かったのはこの記者会見のさらに2年半後、1992年9月のことでした。

向井さん、土井さんもその後、それぞれ宇宙へと飛び立っています。

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