「難民を受け入れる」とは…約40年前に日本で難民となった“ボートピープル”の今[2022/05/05 23:30]

ウクライナから他の国へと避難した人は、すでに540万人に上り、日本にも約700人が戦火を逃れて避難生活を続けています。日本で難民として暮らすということは、どういうことなのか。今から約40年前にベトナム戦争などから逃れ、日本初めての難民となった“ボートピープル”と呼ばれた人たちの今を取材しました。

この日、市役所を訪れたトラン・ティ・アイさん(57)は32年前ベトナムから亡命しました。

アイさん:「コロナで仕事を探しても見つからない。仕事や他にも支援制度はありませんか。」
職員:「(仕事が)見つかるまでの間、生活できそうですか」
アイさん:「どうすればいいのか…分かりません」

会話は通訳を介さないと分かりません。日本語の研修も受けましたが、その後は生きていくだけで精一杯の生活。言葉も覚えられず、月日だけが過ぎました。

3カ月前には足を骨折。動けなくなり、失業しました。ハローワークに言っても、言葉や年齢の問題からなかなか仕事は見つかりません。

アイさんの父親は南ベトナム政府の軍人でした。アイさんは弾圧を恐れて亡命。祖国に戸籍はもうありません。

アイさん:「日本での生活はつらくて大変ですが、頑張ります。(当時の)ベトナムを思えば、まだマシです」

日本の生活で困っている人はまだいます。42年前、生後7カ月の子どもを抱えてベトナムから逃れたボーティ・ゴック・スオンさん(66)。言葉の壁は仕事だけでなく、家族の間にも。

スオンさん:「子どもが大きくなって学校にいる時間が長くなると、ベトナム語をどんどん忘れてしまうので日本語で話します。小さい時から日本で暮らしているので、日本人同然なのです」

子どもたちは自立し、家を出ていきました。生活は苦しく、66歳になっても非正規雇用のパートを続けます。

スオンさん:「私は難民だから帰れない。もし(ベトナム戦争で)南が負けなかったら、外国には行かなかった。自分の国の生活がいい、ほんと」

元大和定住促進センター職員の寺本信生さんは、かつて難民の受け入れを担当しました。

元大和定住促進センター職員・寺本信生さん:「彼らにとっては日本全体とつながっていると言えなくて、寂しい思いをしたかもしれない」

難民の受け入れ体制はこれで良かったのか。今も自問自答しています。

元大和定住促進センター職員・寺本信生さん:「振り返ると、ハンディを背負って日本に来ている。そのことへの配慮が十分ではなかった。日本語を話し、日本文化を作っている人たちだけが、日本を作っているということではもうすまない状況。みんなが安定した生活ができるようなシステムを作らないといけない時代に入っていると思います」

そして、再び起きた戦争。日本にも今、ウクライナから728人が逃れています。33年前に難民として日本にやってきたフィン・バン・フィーさん(69)は、ウクライナの戦況を気にしています。ベトナム戦争では、ジャングルの特殊部隊の一員だったといいます。

フィーさん:「私は高齢だけど、元気なので銃を構えられるよ。戦地に行きたいと言っても、私なんて行かせてくれないけど」

彼らが今、ウクライナの人に伝えたいこと。

スオンさん:「日本に溶け込むのは、最初は大変だと思う。四十数年前の私のように」
アイさん:「寂しかったり苦労したり、たくさんあるけど、何でも頑張らないと。全部乗り越えないと」
フィーさん:「転んだらすぐ立ち上がる」
アイさん:「そう立ち上がる」
フィーさん:「『いつか国に平和が戻ったら帰れる』と安心させたいね」

こんな記事も読まれています