「平和の意味を考える」沖縄と母国を重ね思うこと…ウクライナ出身女性がたどる沖縄戦[2022/06/23 23:30]

沖縄戦から77年目となる慰霊の日。

1945年、沖縄本島にアメリカ軍が上陸。激しい“地上戦”は、3カ月にも及び、住民の多くの命が奪われました。

かつて沖縄で起こった悲劇に、母国の運命を重ねる女性がいます。ウクライナ・オデーサ出身の本間カタリンさん(49)。8年前から沖縄で暮らしています。

カタリンさんが暮らす糸満市喜屋武の街中には、いまも戦争の爪痕が残っています。住民が身を潜めた地下壕が残っていました。いまウクライナでも、同じように地下で命を繋いでいる人たちがいます。

母国で続く地上戦に心を痛める日々です。そんな彼女の支えになったのは、地上戦を経験した住民とのつながりでした。

カタリンさんは、地元の農家と協力し、傷などで出荷できなくなった野菜を使ったパン作りに取り組んでいます。
本間カタリンさん:「最近、全く知らない人でもパンを買いに来て、私がウクライナから来ていると聞くと、とても優しい応援の言葉をかけてくれる。販売するためだけではなく、心と心がつながるための一つの道具じゃないかと思う」

栄盛フミさん(87)は、壮絶な地上戦を経験した1人です。母国の戦争をきっかけに、沖縄を深く知りたいと思うようになったカタリンさんを、ある場所へと案内しました。喜屋武岬でした。栄盛さんの母親と兄の3人で、アメリカ軍から逃れるための場所を探して歩きまわり、最後に、ここにたどり着いたといいます。
栄盛フミさん:「うちは(小学)3年生だった。どんなに、こんな崖を下へ降りて行ったのかと思う。どんなに歩いてきたかね。沖には船がいっぱい電気ついて、何なんねー、あっちはと。子どもだからわからない。船がいるのも、上にあがったら、人が膨れて、死体が転がって寝ているみたい」

特に、忘れられないという出来事について、重い口を開きました。
栄盛フミさん:「壕の中に子どももいるでしょ。『泣く人は、壕からは出て行きなさい』『あんたが泣いたら、うちなんかも命なくなるよ』『こっちから出て行きなさい』と言ってよ。大きな声で」

やむを得ず、我が子を手にかけてしまった親もいたそうです。同じ記憶を持つ住民は、ほかにもいます。
仲西信正さん(90):「子どもが泣いたりしたらね、オジーたちが『早く』『捨てなさい』と」
仲西アキさん(88):「『みんなのために子どもを捨てなさい』と。あのときのことは、いつになっても忘れません」

大越キャスター:「過酷な沖縄戦を経験した人たちが、なかなか自分の経験を語らない。語りたくない気持ちをお持ちの方が多いなかで、あなたご自身の国で、戦争が今まさに起きている。その国の出身の方だから、話ができるという方もいる」
本間カタリンさん:「多分、その気持ちで応じてくれたと思う。我が子を殺したというのは、どれだけ衝撃的な、理不尽なことなのか。子どもを持っている人、持っていない人でも、人間は誰でも悲しむと思う。記憶を伝えたいという気持ちもあるけど、あす、もし消すことができたらうれしいと言っていた。もし、あす消しゴムみたいに消すことができたら、どれだけ楽になるのかなと」

「ウクライナ出身の自分だから話してくれた」その思いに答えたい。カタリンさんは、ある行動に出ました。慰霊の日を前に、子どもたちに講演を行いました。
本間カタリンさん:「(Q.どんなことを話し、どんな反応が返ってくるのか)頼まれたときは、ちょっと重いミッションだと思って。とても大切なことを伝えなきゃいけない。彼らも、私も戦争を知らない世代なので、経験もないので、私たちの目に何が映るのか。答えではなくて、一緒に同じところに立って、同じ目線で一緒に考えて、平和はどんなものなのか。子どもたちの側に立って考えようかなと」

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