親や家を失い「国から路上に捨てられた」知られざる“戦争孤児”伝えたい平和への願い[2022/08/15 23:30]

ロシアによるウクライナ侵攻から、約半年が経ちました。いつの時代も戦争の犠牲になるのは、何の罪もない子どもたちです。それは77年前も同じでした。

今も利用されている東京・上野の地下道には、77年前、親を亡くした多くの子どもたちが身を寄せ合っていました。食べることもままならず、助けてくれる大人もいなかった“戦争孤児”です。

小学校などで、戦争孤児としての体験を伝える小倉勇さん(90)も、戦争孤児の一人でした。

約310万人が亡くなった太平洋戦争。その終戦間際、小倉さんが住んでいた福井県敦賀市も空襲の被害に遭いました。

小倉勇さん:「(防火)用水おけの中でお袋が死んでたんです。顔が半分焼けてて。本当に人間は悲しい時には涙が出ない」

親戚の家に身を寄せるも、食糧難の時代で、誰も人を気に掛ける余裕なんてなかったといいます。

小倉勇さん:「『なんでお前みたいな者が生まれてきたんじゃ』って毎日毎日言われてね」

そんな生活に耐えられず、当時13歳だった小倉さんが選んだのが、路上生活でした。しかし、小倉さんが特別ではありません。当時、親や家を失い戦争孤児になった子どもたちは12万人にも上りました。

小倉勇さん:「7歳、8歳だったかな。女の子が餓死、死んだんです。子どもたちに何の罪があるんですか。この子どもは何のために生まれてきたんですか」

戦争孤児たちは食べ物を求め、無賃乗車で各地を放浪。小倉さんも訪れた上野はヤミ市場があり、特に多かったといいます。しかし、生きていくために、物乞い、落ちた吸い殻を拾いヤミ市場に流す、靴磨きなどで小銭を得る戦争孤児は「浮浪児」と蔑まれていました。

小倉さんは、長く続いた路上生活で病気となり、視力をほとんど失いました。

小倉勇さん:「僕たちは『拾う』か『もらう』か『盗む』か、この3つしか生きようがなかったんです。あの戦争によって、僕たちは国から路上に捨てられたんだ。二度と戦争はしてほしくない。いつも忘れられるじゃないですか、弱者は」

生きるのに必死だった“戦争孤児”たち。しかし、彼らに対し国が行ったのは“狩り込み”と称した一斉摘発でした。

戦争孤児たちの証言をまとめた本『もしも魔法が使えたら』には、「冬に冷たい水をかけられる」「裸で鉄格子のおりに入れられる」など、保護と言いながら、彼らが送り込まれた先に待っていた過酷な環境が描かれていました。

収容施設に送られた筒井利男さん(89)。当時のことは、今も忘れることができないといいます。

筒井利男さん:「みんな柵から手を出して握り飯を取るわけ。取り合いするもんやから、ぐちゃぐちゃになって。取られない人もおる。みんな泣きよる小さい子は。『寒い、寒い、冷たい、寒い』言うてな。泣くけどもしゃーない。何もでけへん、わしらにも」

京都市にある大善院には、亡くなった孤児たちの遺骨や遺髪が安置されています。

大善院・佐々木正祥住職:「実際に髪の毛を見ますと、迫るものがありました」

現在は公園になっている場所に、保護施設を渡り歩いた小倉さんが最後に辿り着いた施設がありました。そこは他とは違い、職員が親身に世話をしてくれたといいます。それでも、忘れられない親への思い。

施設の子どもたちが口ずさんだ歌:「ワッと泣きたい時がある 父さん 母さん 遭いたいよ ゆうべ見た夢 母さんの だっこしている ぼくの夢」

子どもたちは、戦争によって当たり前の日常を奪われました。

小倉さんによりますと、親を亡くし、親戚の家を転々とした挙句に、つらさの余り家出をした自分のような子が、戦争孤児には多かったといいます。

これまで戦争孤児の実態はあまり明らかにされることはありませんでした。これについて小倉さんは「あの戦争によって自分たちが得たものは、悲しみと怒りだけ。一生それが付きまとう。だからみんな隠すんです」と胸の内を語っていました。

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