はじめの一歩は日本の“南極オゾンホール”発見! 世界を動かし2066年オゾン層回復へ[2023/02/03 17:55]

■進むオゾン層の回復
 世界気象機関と国連環境計画は、2023年1月、かつて破壊が進んでいたオゾン層について、「このまま回復が進めば、南極では2066年ごろ、北極では2045年ごろ、その他の地域では2040年までに、オゾンホールが出現する前の1980年の値に戻る」と発表しました。
 オゾンホールは、南極の冬から春(8〜9月)にかけて南極上空のオゾン層が極端に薄くなる現象で、12月ごろまでつづきます。
これによって有害な紫外線をオゾンが吸収することができなくなり、紫外線が地上に届いて悪影響を及ぼすことが懸念されてきました。
 オゾン層破壊の主犯は、冷蔵庫などの冷媒やエアゾールの噴射剤として利用されていたフロン、それに消火剤として利用されたハロンと考えられました。
そして1987年のモントリオール議定書から規制が始まり、オゾンがそれまで以上に減ることはなくなりました。
しかしながらその後もオゾンが少ない状態に変わりはありませんでした。そこにこのニュースが飛び込んできたのです。
 ちなみに、フロン類の中にはオゾン層を破壊しないものも知られていますが、それらも温室効果ガスであることが指摘されています。

■オゾンホールの発見者は日本人
 ではなぜ、オゾンホールができていることが分かったのでしょうか。そこに日本の南極観測隊の活躍がありました。
 日本の南極観測隊は、1961年、さらに1966年からはずっと、昭和基地でオゾンの観測をつづけてきました。
観測は、高高度気球(クライオジェニックサンプラー)、小気球(オゾンゾンデ)、地上からのもの(ドブソン分光光度計など)を用いて行われます。観測そのものも地道な努力が必要ですが、そこへいたる作業、観測データの収集も手間ヒマがかかっています。
 そして1982年、南極上空のオゾンが減少していることがわかったのです。それには、16年間のデータの蓄積と、夜間(南極の冬は一日中夜です)の観測が継続的に可能になったことが大きく貢献しました。この年、2月から観測をつづけて得ていたオゾン量のデータが、9月に入って急に減ってしまいます。そして10月の終わりに突然、回復します。世界で初めてこの現象をキャッチした忠鉢繁隊員は、この観測の数字が正しいものなのか、悩んだそうです。

■オゾンホールの発見がフロン規制の後押しに
 昭和基地上空のオゾン量減少は翌年も発生しました。南極点でも減っていたことがわかりました。
その結果は、忠鉢さんによって1983年12月に日本国内で、翌年9月にはギリシャで開かれたシンポジウムで報告されます。
これが、のちに「オゾンホール」と名づけられたオゾン減少についての世界初の報告、つまり「オゾンホールの発見」でした。
 実は、このときの報告はあまり反響がなかったそうなのですが、その後1985年にイギリスの研究者らの発表があり、つづいてアメリカの人工衛星が送ってきていた過去のデータも確認され、オゾンホールの存在は決定的になりました。それが1987年のモントリオール議定書の採択の後押しになりました。

■オゾン層回復の道すじが気候変動対策のお手本に
 モントリオール議定書が採択されるとフロン類の規制が始まりました。
 忠鉢繁さんは1993年に、「フロン規制の効果が効いてきて、少し効果が出てくるのが20年後。
フロンガスの濃度が減り始めたかなあと思うのが、20年後とか30年後とかそういうことになってくると思う」「だいたい100年ぐらいたつとゼロにきわめて近くなるかな」と話していましたが、今年(2023年)の世界気象機関の発表を見ると、おおむねそのように進んでいるようです。
 つまり、フロン規制の「成功」(油断はなりませんが)が、地球温暖化などの気候変動への対策をどう進めていくべきか、その道しるべになっているのです。

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