壁一面、米軍機による機銃掃射の痕…111人犠牲の「戦争遺跡」保存の取り組み進む[2023/08/15 13:54]

 終戦から78年が経ち、戦争の悲惨さを伝える「戦争遺跡」が少なくなるなか、東京・東大和市では「戦争遺跡」を保存する取り組みが進められています。

 壁一面に残るアメリカ軍機による機銃掃射の痕。

 東京・東大和市に残るこの建物は、航空機のエンジンを作る工場の変電所でした。

 工場は1945年に3度空襲に見舞われ、111人が犠牲になりました。

 元工員 宮下貞美さん(93):「飛行機がバーッときた。それで(防空壕(ごう)に)逃げた。爆弾を落とす、1秒か2秒の間に。それを次から次へと繰り返す」

 変電所の壁についた傷の多くは2度目の空襲でできたものだと考えられています。

 当時、見習工として働いていた93歳の宮下貞美さんは工場近くの桑畑に逃げ込みました。

 元工員 宮下貞美さん:「20メートルくらい行ったところに土管があって、そこに逃げた。頭だけ入る格好で逃げた。頭隠して尻隠さず、ですね」

 東京都などによりますと、1980年代には取り壊しをする計画もありましたが、地域住民らが保存を要望していました。

 東大和市は1995年に、この変電所を文化財に指定しました。

 その後、市は保存・改修工事を2度行い、おととしからは戦争遺跡として建物すべての公開が始まりました。

 説明員 楢崎茂彌さん(75):「穴が空いている。そこにも、そこにも」

 毎週日曜日に2回行われているガイドツアーには若い世代も多く訪れます。

 見学者:「飛行機から人を殺してしまう心理。すごく恐ろしいこと。世界が平和になるようにしないといけないという気持ちになった」「小さいころから結構(変電所がある)公園を通る。人が来て見回れるようになり、知る人も増えると思う」

 説明員 楢崎茂彌さん:「建物の傷だけじゃなくて人々が傷付けられた、殺害されたことにポイントを置いて説明している。とにかく市が力を入れて(変電所を)保存し続ける。そして、平和のアピールにすることもとても大事なことだと考える」

 東大和市にはふるさと納税による寄付が1400万円余り集まっていて、建物の保存工事などに生かされています。
 
 元工員 宮下貞美さん:「(空襲が)当時あったんだ。その当時はすごかったと知るために(変電所は)ここにあった方がいい」

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