扁桃炎、コロナ、さらに原稿も書けない!恐怖の「南極病」 半年間の闘病記[2023/09/16 12:00]

南極病を、皆さんはご存じだろうか。
【主な症状】
・日常生活になじめない
・空を見つめボーっとする
・仕事が遅くなる
・地球規模で物事を考えてしまい、大抵のことがどうでもよくなる
・事あるごとに「南極では〜」と発言し、周囲をイラつかせる など

【治療法】
・南極の写真や映像を見る
・南極に行った人と会って話す
・南極ゆかりの地を巡る
・(重症化した場合)もう一度南極に行く

観測隊員の間で恐れられるこの病気。渡航前から噂には聞いていたが、まさか自分自身がかかるとは思わなかった。症例が少ないため、参考までに去年11月から今年3月まで南極観測隊に同行取材した自分の「闘病記」をここに記しておこうと思う。
(テレビ朝日社会部 吉田遥)

■本当に病気になる
「南極病」に陥る予兆がなかったわけではない。異変はまず、体に現れた。
南極は無菌状態なので、免疫が落ち、日本に帰ると何かしらの病気になるというのは事前に聞いていた。ただ、それは1年以上南極で過ごす越冬隊の話で、たった4カ月しか旅をしていない私たち夏隊員には無縁だと思っていた。
しかし相棒の神山カメラマンが南極から帰国した次の日に(恐らく観測隊の中でも最速で)さっそくコロナに感染した。
そして、自分も数カ月間で何度も熱にうなされることになった。国内各地の取材に行く度、もれなく何かに感染する体になってしまったのだ。

1回目は、帰国から2カ月後の、広島G7サミット取材で。南極ですっかりマスクをする習慣がなくなった私は、久しぶりの国際会議に浮かれながら、取材や中継の準備をしていた。ウクライナのゼレンスキー大統領が電撃来日するという速報が入った時、静かな緊張感が広がるメディアセンターの端っこで、すでに南極というスケールの大きさを経験したからこその“症状”が出始めていた。
「南極に比べたら、そこまで大きなニュースではないな」

臨機応変に対応しなければいけないのに、その日は頭と体が思うように動かず、急なロケスジュールの変更に対応するのが精一杯だった。

そして、何とか怒涛の取材を終えた最終日の朝、これまで経験したことのないような喉の痛みを感じた。すぐにPCR検査を受けたが、結果はコロナ陰性。急性扁桃炎と診断された。そこから熱がずるずると続き、10日間ほど会社を休むことになってしまった。

2回目はその数週間後の名古屋出張で。
一通り取材を終えた最終日に再び激しい咳が出てきて、帰京後に熱を測ると38.7℃。慌ててPCR検査を受けると、予想通り陽性の連絡をもらった。
結果、熱は40℃近くまで上がり、コロナの辛い症状をたっぷりと味わうことになった。
この2件で、南極で微増(5キロ!)した体重は、あっという間に元に戻った。
ウイルスにまみれた日本社会の洗礼を受けたのだった。

■ニュースの仕事と南極病
体調が悪くなるだけならまだ良いのだが、「南極病」の症状はさらに深刻なものだった。
帰国直後の3月24日、帰国報告のため約5カ月ぶりに会社に顔を出した。
そこで、自分の居場所だったはずの職場に強烈な違和感を覚えてしまった。一列に並び、パソコンを睨んでいる同僚たちの姿に、だ。数カ月前まで自分もその一員だったはずなのに、同僚たちが何かに取り憑かれているような、異様な光景に映った。

その日、関係各所へのあいさつ回りで、上司は横にぴったりついてきてくれた。報道フロアを回っただけだったが、久しぶりに飼い主と散歩に出かけた犬のような気分で楽しかった。
しかし案の定、そこから完全復帰を果たすのに時間がかかってしまったのだ。

オンエアが差し迫っている中、突然入ってくるニュースに対応しなればいないことが往々にしてある。瞬発力が求められるこの場面で、一つも情報が頭の中に入ってこず、「あー」とか「うー」とか呻くだけで、全く手が動かなかった。
周りから見れば、「南極」という大自然の暴力にさらされ、ショック状態に陥ってしまった気の毒な人、だったと思う。
私たちには、放送時間という絶対的なリミットがある。その放送時間に間に合わせるために無理をすることは日常茶飯事。むしろ、全力で取材して、編集を終え、放送時間までにニュースを視聴者に届けるのが仕事だ。なのに、それが出来なくなってしまった。
時にスピードが求められるニュースの世界で、この南極病の症状は致命的だった。

■「ウェイト、ウェイト」を飲み込んで
南極に行く前の私は、いち早く、より新しい情報をオンエアに入れるのだという気概を持ちながら放送に臨むスタッフの1人だったように思う。
しかし帰国後は、本当に急がなければいけない局面に、南極で学んだ言葉が頭の中で響き、時に口からも漏れてしまっていた。

往復151日間をかけて、分厚い氷を破りながらゆっくりと進む砕氷艦「しらせ」で読んだ本の中に、砕氷艦長の心得としてこんな言葉が紹介されていた。

「ウェイト、ウェイト(待って、待つこと)」
日本人の特性として、進むことには強いが待つことには弱いという欠点がある、という指摘付きだった。
艦長になる予定もないのに、このくだりに感銘を受けた私は、「しらせ」を降りてからも、偉い人に何かを急かされて、「ウェイト、ウェイト」と言いそうになるのを毎日ぐっと堪えていた。

さらに、南極の昭和基地で刷り込まれていたのが、土壇場で無理してはいけない、という教訓だ。
短い南極の夏。白夜で時間感覚がなくなり、気が付いたら夜遅くまで仕事をしていたり、無理矢理作業を終わらせようとして、けがが増えたりするという。そのため、越冬隊長が隊員たちに繰り返しこう忠告していた。
「絶対に無理をしない。一日、仕事は一つまで」
この言葉も、私の中で都合良く解釈され、南極病が長引いた一因となった(けっして越冬隊長のせいではない)
実際、南極ではいくら完璧に準備をしても天候が急変し、計画通りに出来ない事が沢山あった。そんな時、「オンエアに間に合わない!」といちいちヤキモキしていたら、南極では生きていけない。自然相手に人間は抗えず、まさに「自然の流れに身を任せる」しかなかった。不思議なことに、自然の流れに身を任せていると、物事はうまくいく。これがたったの4カ月間で私たちが身につけた南極取材における鉄則だった。
ただ、帰ってきた場所は日本、しかも東京だ。自然の流れに身を任せ続けていると、そのまま仕事は溜まって雪だるま式に膨らみ、残業時間だけが増えていった。こうして私が身につけたはずの南極式仕事術は、あっけなく散ることになる。

■南極病との決別
南極方式が通用しないという現実を受け入れてからは、不思議と東京の生活に順応できるようになった。
忙しい日々を過ごす中で、白い氷の世界に想いを馳せることが全くないわけではないが、こうしてパソコンに向かい原稿を書き、日々発生するニュースに対応している。

「とっていいのは写真だけ、持ち帰っていいのは思い出だけ、残していいのは足跡だけ」
南極で繰り返し唱えられてきた言葉だ。
持ち帰ったのはいいけれど、自分だけでは抱えきれないほどの思い出をどこにしまえばいいのか、わからなくなってしまっていたのだと思う。日本での日常は尋常じゃないスピードで過ぎていき、ニュースは容赦なく降ってくるから、大切なものを忘れそうになる。

そんな時、私を救ってくれるのは、自分たちがとってきた南極の美しい映像だ。
それは、自分たちがそこにいたことを証明してくれる。嵐の中のオーロラ、銀白の世界、船上に広がる星空、隊員らの様々な表情。
心を震わされた数々の瞬間がカメラには沢山収められていて、ごく一部かもしれないが、視聴者にも届けられたはず、だ。

思い返せば、南極に行く直前まで、コロナの影響で堂々と取材に行けない日々が続いていた。
「エッセンシャルワーカー」や「不要不急」と言う言葉を繰り返しニュースで伝える中で、取材ができない私たちは、果たして本当に必要なのか、悩んでいた時期でもあった。

しかし、そんな悩みは、南極で吹き飛んだ。
まだまだ世界には、自分たちがいなければ伝えられない景色や生命の営みがあるということを、南極が教えてくれた。

私の南極病が治るまで、ゆっくり見守ってくれた周りには感謝をしている。
あの究極の景色を越える何かを伝えることは、もうできないかもしれない。
そんな寂しさを抱えながら、あと少しだけテレビの力を信じてみようと思っている。
また旅に出る、その日まで。

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