「僕は間違ったのか」あふれるがん情報に踊らされ…余命宣告の母と息子 最後の2カ月間

[2024/03/30 17:00]

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私はテレビ朝日で報道局のディレクターをしている。
母が大腸がんのステージ4で余命3カ月と告げられて以降、仕事を休んで、自力で様々な治療法を探し続けた。
ネット上の怪しい情報に振り回された。

母の死後、強い自責の念に襲われた。

自分は何かを間違ってしまったのではないか。
最後の数カ月、いろいろなことを試して逆に母を苦しめていなかったか。
時間を無駄にしなかっただろうか。

日本のがん罹患数が増えている現状から、自分と同じ苦しみを抱く人はこれから増えていく可能性が高い。
視聴者や読者に同じ轍を踏んでほしくない。
自分の経験を伝えることで、一つの考えるきっかけになってほしい。

そんな思いから、母と過ごした最後の日々と、その後の、あるがん経験者との出会いについて書くことにした。
(テレビ朝日報道局 才賀悠斗)

■ 「死んじゃうのかな」 母の声は震えていた

その日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
2022年の2月。夜中に突然、母から電話がかかってきた。
病院の検査でがんが見つかったのだという。大腸がんのステージ4。

「死んじゃうのかな」

電話の向こうから母の震える声が聞こえてきた。
泣きたいのは母のはずなのに、私のほうが涙で声が詰まってしまっていた。

「ステージ4」と言われても5年以上生きる人だっているんだ、自分の母もそうであってほしいと願っていた。根拠も確証もない希望だったが、何かにすがりたかった。

現実として母の状況は厳しかった。既にがん細胞が体の複数ヵ所に転移しており、腹部にがん細胞が広がる腹膜播種(ふくまくはしゅ)という症状も起きていた。外科手術や放射線治療は行えないという医師の判断で、抗がん剤治療を中心に行っていた。

しかし、母にとってこの抗がん剤治療が苦痛だったようで、薬を投与しては、嘔吐を繰り返した。

そんなつらい状況でも、母は息子のことを常に気にかけていた。
度々送られてくる「抗がん剤がつらい」というメッセージには「大丈夫?」、「元気?」など私の体調を心配する言葉がいつも添えられていた。

仕事の忙しさから、適当な返事しか返せない自分が嫌だった。

■ 余命宣告も…「奇跡的な治療法があるかも」

「もう打つ手はありません、もって3カ月です」

2023年6月、医師からそう告げられた。「余命宣告」だった。

「じゃあ、9月のあなたの誕生日をぎりぎり祝えるね」

母の気丈な発言とは裏腹に私と父の心境は穏やかではなかった。
その時に初めて、自分の母に死が近づいていることを実感した。

「残された時間をともに過ごしたい」その一心で私は休職を決意した。

まだ、他の手段があるかもしれないと、別の病院にセカンドオピニオンを聞きに行った。

「打つ手はありません」

その言葉を聞くたびに、患者である母よりも私のほうがうなだれていた。

「大丈夫、きっと何とかなるよ」

そう言って逆に母が私を慰めてくれたのを覚えている。

「医者に見放されたが、何か奇跡的な治療法があるかも知れない」

来る日も来る日も、私は必死になってインターネットにあふれるがん治療の情報を拾い集めた。

重曹にクエン酸を混ぜた水。
がんに効果があるとされるサプリメント。
独自のがん治療法を載せているクリニック。

藁にもすがる気持ちだった。まともな精神状態ではなかったと思う。
寝たら母が死んでしまうのではないかと思い、満足に眠ることもできなかった。

振り返ってみると、私たちが試した民間療法や治療法に効果はほぼなかったように思う。
そうした“努力”と裏腹に、母の病状はどんどん悪くなっていったからだ。
歩くことも食事も困難になってきた。ベッドから起き上がるのもままならず、病院に行くのにも車いすが必要だった。

■ 久しぶりの母の笑顔… だがその翌日に

8月に入り、母の55歳の誕生日が近づいてきた。
今年は母の好きなケーキと洋服をプレゼントしようと考えていた。

そんなある日、母が何気なく私にこう言った。

「あなたが地元を離れてからあまり話をしていなかったね」

大学の話。馬鹿な友人の話。仕事の話。色々な話をした。
母が笑った顔を見るのは久しぶりだった。

次の日の夜、母の容体が急変して、父の車で病院に向かった。
車内では、母の手を離さないように強く握っていた。握っている力を緩めたら、母が離れて行ってしまうようで手を離すことができなかった

診察室に入ると、主治医から「今日がヤマです」と告げられた。

「何とかなる、大丈夫」

そう自分に言い聞かせた。
しかし、様々な感情が堰を切ったようにあふれだしてくる。

「まだ何もできていない、親孝行も出来ていない、早すぎる、置いていかないで」

そんな思いは届かず、病室に響いたのは心肺停止を伝える無機質な音だった。
親族に囲まれながら母は息を引き取った。

医師から受けた余命宣告より1カ月も早く、母はいなくなった。
この悲しみをどこにぶつけていいかわからなかった。

「俺の誕生日まで生きるって言ったのに」

やり場のない悲しみと後悔だけが残っていた。

■ 笑顔のがん経験者 「この人に話を聞きたい」

母が亡くなり少し落ち着いてくると、あることが気になり始めた。
ネットに溢れるがんの治療情報。
家族が、がんで余命を宣告されたのに、自分は何もできない。
無力の中で、怪しい情報に惑わされた。

「時間を無駄にしたのではないか…」

そんな後悔の気持ちはやがて危機感につながっていった。

「自分と同じような人をこれ以上、作りたくない」

私自身の馬鹿な経験を伝えることで、同じ轍を踏む人が出ないようにする、それがテレビディレクターである自分にできることだと思った。

そうして始めた、がんに関するリサーチ中にYouTubeでたまたま見つけたのが「がんノート」というチャンネルだった。
がん患者やサバイバーの方を招いてリアルな経験談などを語り合うトーク番組で、特に印象的だったのが、司会役の男性の表情だった。

いつも笑顔で話すその男性は岸田徹さん(36)。
経歴を調べると、彼はがんを二度経験して、生死の淵をさまよったことがある。

「自分ならこんなに活動的になれるだろうか」

がんを経験しても、明るく生活している人がいる。
身近な人ががんに罹患して、暗く沈んでしまった自分とは違う。
この人に話を聞いてみたい、そう思った。

■ がん摘出手術後の悩み 相談に乗ってくれたのは…

「僕自身はマジで?という感じで頭が真っ白になるというか自分のこと言われているの?と思いました」

インタビューに答えてくれた岸田徹さんは、自身が、がんを宣告された瞬間のことをそう振り返った。

大学を卒業後、IT関連の会社に就職したが、25歳のときに「胎児性がん」という希少がん(人口10万人あたり6例未満の“まれ”ながん)に罹患した。当時、医師から告げられた5年生存率は50%だった。
抗がん剤治療でがんを小さくし、手術によってがんの摘出に成功。
しかし、その2年半後、がんが再発する。今度は精巣だった。

病と闘う中で、岸田さんもやはり氾濫する情報に翻弄されたという。周囲の人に勧められた怪しいクリニックに行き、実際に治療を受け、お金も費やした。

「科学的根拠に基づかない医療によって僕も(被害を)受けた。そのまま突き進んでいたら今生きているのかなと(さえ思う)」

精巣がんでも手術でがんを摘出したが、射精障害を負ってしまった。
性に関する問題だけに、他人には相談しにくい。

思い悩んでいたある時、岸田さんは他のがん患者と交流する「患者会」の存在を知った。
同世代の患者たちの集まりに赴き、対面で直接自分の悩みを打ち明けると、誰もが親身になって相談に乗ってくれた。

「こんなに話してくれるの?」、そう思ったという。

「センシティブな問題について、患者たちが持つこうした情報を自分の中だけにとどめておくのはもったいない。みんなとシェア出来たら…」

そう思い岸田さんはYouTubeで「がんノート」を立ち上げた。

はじめは廃校の図工室がスタジオでスタッフは岸田さんしかいなかった。
たった一人でスタートした「がんノート」は、闘病中の方やがんサバイバーの方でなければ語れない情報を発信することで注目を集め、いまやがん患者の出演者数が日本最多という情報発信番組になった。

がん患者の多くは「孤独」を抱えている。

治療や手術、そして変わっていく対人関係。

特に若い世代は周りにがんを経験している知人がいないため不安に感じるという。

「がん患者の方から『来週手術で不安なんです』というコメントを(番組に)頂いたりすると、ゲストやぼくたちが『一緒に頑張っていこうね』とか『応援しているからね』と励ますことができる」

がんノートを通して、患者らの孤独を癒すことができるのではないか。

“離れていてもそばにいる”、配信を通じてそう伝えていきたいと岸田さんは考えている

■ 「一緒にいてくれて、うれしかったんじゃないかな」

「自分の行動は正しかったのか、当時、自分はどうすればよかったのだろうか」

母を亡くした後、ずっと考えていた。

抱えていた疑問を岸田さんにぶつけると、こんな答えが返ってきた。

「一緒にそばにいてくれるとか、一緒に治療に向き合ってくれる。そうしてもらえるのが僕もうれしかった。だからお母様も才賀さんがいつも通り変わらずに一緒にいてくれたことが、うれしかったんじゃないかなって思います」

確かに自分の行動は間違っていたのかもしれない。
しかしその間、母と一緒に過ごすことができた。
最後の2カ月しか一緒にいられなかったけれど、その2カ月をともに過ごせた記憶を大事にしよう。そう思えた。

「母の墓参りをしよう」

母の死を認めるのが怖くて、墓参りをすることが今までできていなかった。
自分の中に後ろめたさもあったと思う。

東京から片道3時間半近くかかる片田舎。
道中には田んぼと畑しかなかった。何もないこの場所で、確かに自分は母と過ごしていた。

母が埋葬されている寺に着き、墓前に手を合わせた。

「心配かけたけどおれは大丈夫だよ。母さんの息子でよかったよ。母さん、ありがとう」

それは、風が肌を刺すように寒い日だった。



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