宮城県石巻市の震災遺構「門脇小学校」には、14年前、高さおよそ1.8mの津波が押し寄せ、流されてきた家などから校舎に火が燃え移りほぼ全焼しました。
教室には、その焼け跡が生々しく残っています。当時、この学校に通っていた小学1年生の女の子は、あの日の経験を未来の子どもたちに伝えるため、長年の夢だった教師になります。
親友との約束を胸に、夢を追ってきた高橋輝良々さんを、宮城県出身で、小学6年生のとき震災を経験した佐々木アナウンサーが取材しました。
■色のない教室…いま語る“あの日の記憶”
高橋輝良々さんは、
と話します。
2011年3月11日午後2時46分。石巻市を最大震度6強の揺れが襲いました。門脇小学校の付近では、多くの人が一番の高台である日和山に向かいました。下校途中に地震に遭った高橋さんは、すぐ学校に戻りました。
当時、校長として避難を率いた鈴木洋子さんは
と話し、高橋輝良々さんも、
といいます。
小学校の裏手にある日和山を目指して240人ほどの児童が一斉に避難。階段を駆け上がり、住宅街を抜け、黙々と歩き続けました。
当時の日和山公園をとらえた映像には、門脇小学校の子どもたちに、大きなブルーシートがかけられる映像が残っていました。
そのワケを鈴木洋子さんが話します。
高橋さんも、この中にいました。
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■「後ろは見るな」記憶から消せない“音”■「後ろは見るな」記憶から消せない“音”
高橋輝良々さん
「「見るな」って言われてたので。ずっと避難し始めた時から、後ろは見るなって言われてたし、周りは見ちゃダメだって思って…。ただ、音だけは聞こえてきました。何かがぶつかるような音。その日以来は聞いたことがないですね。車のクラクションの音がずっと鳴り響いているのがすごく怖くて、初めてここで泣いてしまって…」
その後、高橋さんは日和山へ避難してきた父親と合流できました。押し流されたがれきや油から、火災が発生。津波によって燃え広がり、門脇小学校にも、火の手が…。
校舎は焼け落ち、立ち入れなくなってしまいました。石巻市では、死者3464人、行方不明者は4141人に上り、被災自治体の中で最も多い犠牲者の数となりました。
門脇小学校では下校していた児童7人が犠牲に。その中には、高橋さんの親友もいました。
教室に残されたクレヨンの写真。親友が大切にしていたものです。
■「命を守れる先生に」親友との“約束”
高橋さんには親友と交わした約束がありました。
「私が小学校の先生になりたいという夢を、この友人に話した時に、私もなりたいと思ってたよ。一緒になろう、という風に言ってくれて、なんかその記憶がすごく印象的で本当に鮮明に覚えている記憶です」
高橋さんは、その後も教師になるという夢をずっと持ち続けてきました。震災の後、初めて母校を訪れたのは大学1年の夏。自らの経験に向き合うようになり、訪れた人たちに語り部をしたことも…。
毎年、3月11日が近づくと高橋さんは親友に宛てて手紙を書いています。今年の手紙には特別な思いが込められていました。
「今年は、嬉しい報告、喜んでくれたらいいなと思っている報告があります。12月に、宮城県の教員採用試験を受けて、無事に合格することができました。あの時、一緒に先生になろうって言ってくれて、本当にありがとう。同じ夢を持てたこと、すごく短い時間だけだったとしても、今でも笑顔になってしまうくらい大切な宝物です。小学校の先生になろうねと約束をした日から、長い時間が過ぎたけど、毎年手紙に書いているようにずっとずっと私の1番叶えたい夢でした。誰よりも命を大切にできる、命を守ることのできる教員になります。見守ってくれていたら、とっても嬉しいです」
高橋輝良々さんは、将来の夢をこう語ります。