オウム真理教教祖・麻原彰晃の逮捕から30年が経った。地下鉄サリン事件では14人の死者と約6300人の負傷者を出す大惨事となったが、捜査機関は”負の連鎖”でオウムの暴徒化を防げなかった。長年、オウム取材を続けてきた記者がその全貌を明かす。
(テレビ朝日報道局 清田浩司)
夜10時に鳴り響いた“一斉連絡”
1995年5月15日。この日は早朝4時から半日以上、第6サティアン裏の検問所に立ち、オウム信者や車の出入りなどチェックしていた。私は社会部の入社5年目の駆け出し記者だった。
社会部では半月交代くらいで山梨県上九一色村(当時)に4、5人の若手記者を送り込んでいた。“上九入り”してから4日目、村内に点在する教団施設“サティアン群”の複雑な位置関係もまだ覚束ない状態であった。
夜7時前に交代となり、取材団が泊まり込んでいた宿に戻る。宿は上九一色村にほど近い、鳴沢村の木造2階建て旅館「吉野荘」だ。
テレビ朝日では系列局から記者やカメラマンの応援をもらい「ANN取材団」を結成。正に系列をあげての“全員野球”でオウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名・松本智津夫)の逮捕を警戒する毎日だった。
現地取材団はカメラマンや中継スタッフ、記者ら100人近くに及び、吉野荘を4月から1か月以上借り切っていた。余談だが当時、木造2階建てだった吉野荘の前を数年後通ると、立派な鉄骨5階建てに改装されホテルのように変貌。名前も“リゾートイン吉野荘”に変わっている。
風呂に入り夕食を終え、疲れた身体を布団にようやくもぐりこませた瞬間だった。
「早朝にも麻原逮捕です!」
館内一斉連絡が轟いた。
取材団は記者とカメラマン、助手の3人でワンチームとなり各持ち場に散っていく。「いよいよですね、朝から特番ですかね」などと話しながら、私は大阪の系列局から来ていた“相棒”のカメラクルー2人とタクシーに乗り込み再び第6サティアン裏へと急いだ。当時の手帳を見ると夜10時に“現場復帰”と書いてある。
5月も中旬だったが、上九一色村は標高1千メートルほど。日が暮れると急激に気温が下がり、厚手のコートを着ていないと張り番などできない寒さだった。当時の上九一色村には牧場がたくさんあり、都会育ちの私は伸び伸びと放牧されている牛たちの姿が新鮮に見えた。牧草と牛糞の匂いがあいまった、なんとも言い難い空気が漂っていた。
逮捕の瞬間、村を包んでいた霧が…
5月16日午前5時25分、機動隊員、捜査員約2千人を動員して教団施設への一斉捜索が始まる。私がいた第6サティアン裏の検問所は麻原が逮捕、連行されたら最初に通過するポイントだった。上空には警視庁や報道機関のヘリコプターが1機、また1機と増えて旋回、耳をつんざくような轟音をがなり立てている。報道特番の全国放送も始まり、否が応でも緊張感が高まった。
30年前の手書きの取材メモが手元には、特番で生中継したリポートの原稿も書かれていた。
前日から降り続いていた雨は一旦、止んだが、周囲は濃霧に覆われていた。
そう心配したのを覚えている。
しかし捜索が始まっても一向に麻原逮捕の連絡はない。厳しい寒さと濃い霧のなか、その時をひたすら待つしかなかった。
そんな疑問も湧いてくる時間だった。
捜索開始から4時間余り経った同日午前9時45分、中2階にベニヤ板などで作った急ごしらえの隠し部屋にいたところを捜査員が発見し、逮捕状が執行される。
麻原は赤紫の作務衣姿で、頭にはヘッドギアをつけ、汗だくの状態だった。捜査員に手錠をかけられるとぶるぶると震えた。傍らには現金900万円余りとスナック菓子があった。
捜査員数人に抱えられ下ろされる際には「重くてすいません」と謝ったという。
そして麻原を乗せた黒いワンボックスカーが第6サティアンの正面から出発した頃、急に霧が晴れた。雲散霧消とはこのことだが、濃霧が晴れたのだ。麻原を乗せたワンボックスカーが小高い丘からこちらにゆっくりと降りてくるのがはっきりと見ることができた。
表現が適切ではないかもしれないが「何か神がかっているな」と、記者としてまだ経験が浅かった私は思ってしまった。
事件の捜査 急展開の契機は
坂本弁護士一家殺害事件(1989年)、松本サリン事件(1994年)が起きていながら停滞していたオウム事件の捜査が急展開したのは、1995年2月の目黒公証役場事務長・假谷清志さん監禁致死事件がきっかけであったと言われる。
1995年までオウムは警視庁管内、つまり東京都内では事件を起こしていなかった。假谷さん事件が警視庁管内で初めて起きた事件と言われることもあるが、それは正確ではない。実は假谷さん事件より前の1月4日、港区でオウム真理教被害者の会(現・オウム真理教家族の会)会長だった永岡弘行さんが信者らに猛毒のVXガスを吹き付けられ九死に一生を得た事件が起きていたのだ。
永岡さんは今でも重い後遺症に苦しんでいる。関係者によると警視庁は当初、この事件について「農薬を使った自殺未遂」などとして事件性がないという判断ミスをしている。永岡さん事件の初動捜査をしっかりしていれば、假谷さん事件も防げたのではないかという思いが湧く。一連のオウム事件はこうした捜査機関の“負の連鎖”が繰り返された気がしてならない。
假谷さん事件の発端は、假谷さんの妹が1993年10月頃にオウムに入信し、数千万円を教団に布施したことからだった。財産を持っていると分かったオウムは、妹の所有物だった目黒公証役場の土地・建物(当時の価格で約2億7千万円)を含めた全財産を布施して出家するよう強要する。
妹は教団から逃げ出し兄である假谷さんに匿われることになった。東日本地区の信者の管理をしていた女性幹部がこの件を麻原に報告すると、麻原は妹の所在を聞き出すため假谷さんを拉致するように指示したのだ。
1995年2月28日夕方、目黒駅近くの路上で目黒公証役場から出てきた假谷さんを信者らが襲い、レンタカーに押し込み上九一色村の第2サティアンに拉致した。医師であった中川智正と林郁夫は自白剤・チオペンタールを投与する「ナルコ」という方法で妹の居場所を聞き出そうとしたが、假谷さんは頑なに話さなかった。假谷さんはチオペンタールの過剰投与により亡くなってしまう。
証拠隠滅のため、假谷さんの眼鏡など金属類の物は濃硝酸と濃塩酸で溶かされてしまう。遺体は中川らがマイクロウェーブ(大型の電子オーブンレンジのようなもの)を応用した焼却炉で焼き、遺骨と灰は木片で叩いて粉砕したうえ、硝酸で溶かし本栖湖に流されたという残忍な事件だ。遺族の無念さたるや察するに余りある。
地道な捜査で“接点”は判明したが…
実は假谷さんは事件前、身の危険を感じ同年輩の果物屋の主人にこう託していた。
この果物屋の主人が、假谷さんが帰宅する姿を見て後を追いかけたところ、車に押し込まれる現場を目撃。すぐに警察に通報していたのだ。
通報を受け、大崎署は直ちに假谷さんの行方を捜索する。しかしオウムの世田谷・杉並道場に捜査員が行くが、信者から門前払いを食らう。このままではダメだと判断し、警視庁捜査1課へ臨場要請をする。管理官が直ちに臨場し、即日捜査1課特殊班を中心とした捜査本部が設置される。
その後の捜査で、目撃情報から、假谷さんを拉致した車が練馬ナンバーのレンタカーで、紺と白のツートンカラーの三菱デリカだったことが判明する。レンタカー会社に行くと犯行に使われたとみられる車を発見。後部座席にあった赤っぽいシミが血痕と判明し、假谷さんの血液型とも一致した。
しかし借主のAという名前は実在するものの、いくら調べてもオウムとの接点が見つからず捜査は再び壁にぶちあたる。「假谷さん事件も解決できないのか」という暗澹たる空気が捜査本部に漂い始める。
当時、大崎署で捜査の現場指揮にあたっていたのは、刑事防犯課長だった佐久間正法氏。事件発生から十日ほど経って、佐久間氏に大崎署の警備担当の幹部から「刑事課長、お話したいことがありますので席へ来てください」と連絡が突然入る。連絡した警備担当は警察学校の同期でもあった。
話を聴くと假谷さん事件の10日ほど前に、警備担当が警ら中に不審車両を見つけ運転手を職務質問していたというのだ。不審車両は管内の警備対象の会社付近に停まっていた。近づくとナンバーに白いテープが貼ってあり剥がすと「わ」の文字が現れた。つまりレンタカーであることが分かったのだ。
車内の後部座席には、三脚を立てビデオカメラを設置しているのも見えた。不審な思いが益々強まり、警備担当は運転手に職務質問をかけるが、窓も開けず押し問答が続いた。30分ほど経ちようやく窓を開け、免許証の提示を求めるとBという人物であることが分かった。
捜査本部で調べたところ2月17日と19日、いずれも先の三菱デリカと同じAの名前でレンタカーを借りていたことが分かった。しかし車を借りる際に書く「運行前点検表」から指紋を採取したところ、借主であるはずのAとは一致しなかった。
そこで職務質問をかけたBの犯歴を調べたところ、過去に千住署管内で「尾崎豊来る」などのビラを電柱に貼っていたとして「軽犯罪任意被疑者の指紋採取」がされていたことが判明する。その指紋と点検表のものとが一致、さらにはBがオウム信者ということも確認された。
つまりBがAになりすまし、犯行に使われたレンタカーを借りて假谷さんを拉致したという構図が解明できた。假谷さん事件とオウムがようやくつながったのである。
その後、犯行に使われたレンタカーのヘッドレストのアームからは、現場指示役で元幹部だった井上嘉浩の潜在指紋も採取された。これも井上が19歳の時「麻原来る」のビラを信号の柱に貼っていたため、やはり軽犯罪で検挙し指紋を採取していたので分かったことだ。過去の警察官たちの“地道な仕事”が解決に導いたと言える。
そうした経緯を経て、「假谷さん事件は間違いなくオウムの仕業」となり、教団施設への一斉捜索の令状は假谷さん事件の容疑で請求することになったのである。
假谷さん事件の容疑も固まり、教団施設への一斉捜索の日程をめぐり警察庁と警視庁の間で連日やりとりが続いていた。3月17日、両者の検討会で「22日に一斉捜索実施」の方針が打ち出され、当時の防衛庁に防護服などの貸し出しを要請する。
19日にも検討会が開かれたが、22日実施の最終決定は見送られる。捜索の段取りなどで警察庁と警視庁とが折り合わなかったという。サティアンには大量のサリンがあるかもしれないという情報もあり慎重になるのも分かるが、この辺りの“もたもた感”が未曽有の悲劇を招いてしまったのではと思わずにいられない。
警察関係者によると当時、教団には警視庁所属の警察官が6人いたという。「22日一斉捜索」の捜査情報が教団側に事前に漏れたという指摘もあるが今となっては藪の中だ。
少なくとも警視庁による假谷さん事件の捜査が3月に入り急速に進展し、捜査網が近づいているという危機感が教団内に募っていたのは間違いない。
麻原の指示を受け、当時の幹部である村井秀夫が実行犯5人にサリン散布を伝えたのは、事件2日前の18日。少なくともこの時点で、オウム幹部らは教団への強制捜査を相当意識していたのであろう。そして20日午前8時頃、捜査を攪乱するために地下鉄にサリンがまかれてしまう。オウムに先を越されてしまったのだ。
オウム真理教 凶暴化の背景は
そもそもなぜオウムはここまで社会との対決姿勢を鮮明にしていき凶暴化していったのだろうか?
教団が「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に名称変更したのは1987年7月のことである。翌1988年9月に、男性信者が富士山総本部道場で修行中に暴れ出した。男性は引きつけ等の症状があり、村井が麻原に報告すると風呂場で頭を冷やすように指示する。村井ら信者数人で風呂の水に顔をつけたりするうちに男性は亡くなった。
教団は当時、東京都に宗教法人の認証を申請していた。このような事案が表ざたになれば認証などされなくなる。教団は証拠隠滅を図り、男性の遺体はドラム缶に入れ護摩壇で焼かれてしまう。この時、麻原は「これはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神からの示唆だな」と信者たちに囁いたという。ヴァジラヤーナとは、もともとチベット密教の奥義のことでオウムでは、殺人さえも肯定する教義として使われた。この一人の信者の死をきっかけに教団の歯車が大きく狂い出していく。
翌1989年2月、この信者の死亡現場にいた男性信者が「尊師を殺してでも教団を脱会する」と訴え出たためコンテナ内に監禁、信者らに殺害させる。ここまでは教団内部で起きた事件だった。
同年8月、オウムは東京都から宗教法人の認証を受けるが、10月から週刊誌でオウムを批判する特集記事がスタートする。記事の中で、出家と称し家族と断絶させるなどの教団の活動を厳しく批判して、宗教法人の認証取り消しに向け動き出した坂本堤弁護士との対立が深まって行く。
10月終わり、当時の幹部・早川紀代秀、上祐史浩、顧問弁護士の3人が横浜法律事務所を訪ね交渉するも決裂、坂本弁護士は「人を不幸にする自由はない」と教団の活動を強く否定した。
交渉決裂の報告を聞いた麻原は坂本弁護士一家の殺害を指示、11月4日未明に早川ら6人の信者が坂本弁護士宅に押し入り、わずか1歳だった長男の龍彦ちゃんにまで手をかける。
殺害された一家3人の遺体は新潟県、富山県、長野県と別々に遺棄された。これもオウムが当時の警察の弱点だった“縦割り”をついたものだ。
その後、実行犯の一人・岡崎一明は「龍彦ちゃんが眠っている。早くお願い、助けて!」という手書きの手紙と地図を匿名で1990年2月16日付の速達で神奈川県警に送っている。県警は2回にわたり地図の示す場所を捜索するものの発見できなかった。
この時、捜索個所と遺体はわずか数メートルで目と鼻の先だった。岡崎も、なぜ警察が遺体を発見できなかったのか不思議に思ったという。
県警は手紙を出したのは岡崎であると疑い、事情聴取も繰り返した。しかし、そもそもオウムに対する捜査が十分でなく追及する材料不足で、岡崎から真実を語らせることはできず、捜査は進展しなかった。
現場には血痕も多数あった。事件性を疑い粘り強く丁寧な捜査をしていれば、その後の松本サリン事件、そして地下鉄サリン事件も防げたのではないかという思いを今、改めて思う。
そればかりか神奈川県警は「坂本は借金を抱えて失踪した」などと事実無根の情報を報道機関にリークしていたのだ。
そもそも神奈川県警は捜査本部名を「弁護士一家失踪事件」としたが、辞書を引くと「失踪」とは「自ら行方をくらますこと」だ。坂本弁護士の母・さちよさんはこの「失踪」という言葉に強い拒絶感を示していた。そもそものスタートから“ボタンの掛け違い”があったとしか言いようがない。
衆院選の落選後に強まった“武装化”
オウムはさらなる信者の獲得と国家への影響力を持つために真理党を結成し、1990年2月の衆議院議員総選挙に集団立候補した。
信者らが麻原や象のお面をかぶって踊ったり、麻原が選挙カーの上で歌ったりと奇抜な選挙運動を展開し、話題にはなるも立候補者25人全員大差で落選。最も得票の多かった麻原でも1783票で供託金も没収された。
麻原の野望はもろくも崩れ去り、本気で当選を信じていた麻原は傍目にも落胆していたという。
選挙惨敗の翌日、麻原は信者たちを前に「選挙管理委員会が開票を操作した」などと“陰謀論”を説く。そしてこう宣言する。
ここからオウムは社会との対決姿勢を鮮明にして武装化も進めていく。
1993年6月の皇太子殿下ご成婚パレードで炭疽菌をまく計画があった。炭疽菌とは、毒性が極めて強い細菌で生物兵器としても使われ、その致死率は90%とも言われている。
東京・亀戸にあった新東京総本部に科学技術班のメンバーが秘密裏に集められ、炭疽菌の開発が進められた。恐ろしいことに、ご成婚パレードに合わせ大量散布するべく噴霧実験を繰り返していたのだ。しかし施設の周辺で異臭騒ぎが起き、炭疽菌計画は中止に追い込まれた。
1993年夏、当時の幹部・上祐史浩は科学技術班の土谷正実からサリンの試作品を見せられたという。土谷は筑波大学大学院で有機物理化学を研究していた科学者で、麻原からサリン製造を指示されていた。わずか数十グラムの量だったがオウムが猛毒の化学兵器の開発に成功した瞬間だった。
上九一色村には、土谷のホーリーネーム(宗教名)を冠した「クシティガルバ棟」と、やはり“理系エリート”の遠藤誠一の名を冠した「ジーバカ棟」があった。麻原は信者間の“ライバル心”を巧みに煽り、この2人の他、中川らに競わせてサリン生成を進めたのだ。麻原の人心掌握術は実に巧妙だったのである。
※週刊新潮5月1・8日号に掲載された記事を再構成しました。